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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

遊び時間2

2019-04-28 19:01:59 | 丸谷才一

丸谷才一 昭和五十八年 中公文庫版
これは去年7月に地元の古本屋で買った文庫。単行本は1980年らしい。
あとがきに「一人の小説家の遊び時間が、どういふものなのか、わりによく判つていただけるはずだと思つてゐます」とあるが、読んでて非常に楽しい、「書く以上、おもしろがつて書くのでなければ意味がないからです」といってるので、書いてるほうが楽しいからそうなるんだろう。
もしかすると、読みやすいのは書評がない構成だからかもしれないけど。
文学に関して勉強になることは、いっぱい。
>ハードボイルド小説の登場人物、殊に私立探偵が、気のきいた台詞をしきりに口にするのは、根本的にはアメリカ社会の反映である。あれは何しろ極端に都市的な、数多くの民族から成る、そして孤立した個人の束とも言ふべき社会だから、お互ひに気心が知れない。そのなかでうまくやつてゆかうとすれば、わたしは危険な人間ではありませんよといふことを相手に対して示す必要がある。(p.61-62「角川映画とチャンドラーの奇妙な関係」)
とかね、それにしても、そういう立派な理由があるにせよ、スペンサーなんかはしゃべりすぎだとは思うけど。
日本のことでは、江戸の俳人で偉いのは、芭蕉、蕪村、一茶の三人ということだが、四人目は昔は其角と決まってたのに、最近ではあまり評価されてない、
>それがさつぱり人気がなくなつたのは、関東大震災で江戸の遺風が消え失せたせいである。これは其角の俳諧を成立させてゐた文明の条件がきれいに亡んだことを意味する。(p.71「菊なます」)
とかね、1976年の文章だけど、江戸をかえりみることが流行ってるのは明治維新以後の価値観が行き詰まったからぢゃないかなんて、そのあとに書いてある、日本の文明も事件によっていろいろ転換する。
翻訳にたずさわることで見つけた、日本語についての意見もあって、
>わたしはイギリスの長編小説を翻訳することで長編小説の書き方を学び、イギリスの批評を翻訳することで批評の書き方を習つた。(p.103「文章を学ぶ」)
で始まる一編では、たとえば森鷗外なんかも西洋の短編小説を日本語ではどうやって書けばなじむのか研究した人だろうとしてるんだけど、
>いちばん困るのは、西洋の小説といふのはいざとなると朗々と歌ひあげる、おめず臆せず高揚するといふことである。これを現代に本文でやるとひどくキザになるんですね。そこのところを困つて、何とか処理しながら、しかしわたしは、むしろ現代日本小説の文体的欠陥について考へてゐたのですが、あれは概して言へば、平板な精神状態を書くのに向く文体しか持つてゐない小説なんですね。(略)
>これと関係がありますけど、第二に、現代日本文では屈曲した論理構造の内容が提出しにくい。(p.105同)
とかって言ってて、「やはり文学者は自分の文明の条件を生きるしかないのです」と覚悟を決めてる、なるほど。
小説は風俗を重視すべしというのは、これまでにも読んできたけど、
>だが、小説の本道はロマン・ピカレスクではなく風俗小説であつて、そこには安定した社会と風俗がなければならない。早い話、首相は首相らしく、土建屋は土建屋らしく、大工は大工らしく、八百屋は八百屋らしいといふのでなければ、登場人物を簡潔に描写することができなくて、文士はすつかり困つてしまふのである。土建屋の社長のやうな総理大臣がゐる国では、どういふ具合に書く登場人物を描けばいいのか、途方に暮れるしかない。(p.303「田中角栄による文学論」)
なんて書いた一編がある、しょうがないねえ、そういう国なんだから、いまもたいして変わらんかな、イギリスの小説なんかとくらべると、どうしても日本には階級がないと思わざるをえないようだし。
言葉に対する感覚はきびしい著者なんだけど、1971年の総評のなかで、
>いちばんきれいな新語は「星おくり」。衛星中継のことをテレビ局ではかう言ふ由。(p.256「惣まくり」)
なんて一節があるが、こういう言葉はすぐ失われちゃって、へんなカタカナとかアルファベットなんかだけが残るんだよね、なぜか。
本書のなかでは、特に読んでみようと思わされるような本の題名にはぶちあたらなかったんだけど、杉本秀太郎の『大田垣蓮月』(淡交社)という本に関しては、篠田一士が絶讃してたと紹介して、実際読んだところ、
>第一に文章がいい。第二に見識が高く、第三に心が優しくてあたたかい。わたしはずいぶん久しぶりに、信頼するに足る批評家の出現を喜ぶことになつた。そしてまた、現代日本文明といふのはこれで案外高級なものなのだなどと安心することになつた。『大田垣蓮月』はさういふ思ひさへいだかせてくれる評伝なのである。これはひよつとすると、一九七五年の最上の本かもしれない。(p.289-290「紅のゆかり」)
なんて言ってるんで、もしかしたら読んでみたくなるかもしれない。
大きな章立ては以下のとおり。新聞に書いたコラムについて「小さな長方形のなかで」なんてタイトルをつけるのはシャレてる。
I 過去への散歩
II 短い文学論と藝術論
III イギリス文学知つたかぶり
IV 引札一束
V 小さな長方形のなかで
VI 政治的? ちよつと政治的?

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アメリカ人もキラキラ★ネームがお好き

2019-04-27 18:43:08 | 読んだ本

町山智浩 2016年 文春文庫版
町山さんのコラム集、去年夏ごろいくつかまとめて買ったんだけど、最近になってやっと読んだ。
どーでもいーけど、こないだもCSで「アメリカン・パロディ・シアター」なんて映画を観たけど、けっこうおもしろかったな。
これは『教科書に載ってないUSA語録』につづく週刊文春「言霊USA」を本にしたもので、時代は2012年8月から2014年3月と、私がこれまで読んできたものに較べたらグッと新しくなる。って言っても5年以上前か。
単行本は2014年刊で『知ってても偉くないUSA語録』というタイトルだったらしいので、まちがって古本買わないようにしないといけない。
文庫タイトルになってるキラキラネームについては、2013年9月初出の「メサイア=救世主。アメリカで男の赤ん坊に増えている名前」という章にくわしい。
『ted テッド』という映画のなかで、貧乏白人の女性の名前をあててみろというシーンで、ティファニーとかクリスタルとかルビーとかって名前があげられてくそうなんだが、
>ベストセラー『ヤバい経済学』に登場するハーヴァード大学のローランド・フライヤーは、名前と収入の関係を調査研究したが、低所得層に最も人気のあった女の子の名前は「アンバー」だった。
>アンバーとは「琥珀」のこと。ルビーもクリスタルも宝石。ティファニーも宝石店のイメージだろう。キラキラしてる。(p.170)
ということで、あげられてる例はまことに的確だと解説して、キラキラした名前をつける親は日本だけぢゃなくアメリカにもいるという話なんだが。
ショッキングなのは、家庭の経済状況と子どもの名前の傾向を結びつける研究があるってことだね。
>では、逆に、アメリカの高額所得者はどんな名前なのか? キャリアアップを目指す人々のための求人サイト「ザ・ラダー(社会のはしご)」は、600万人の会員の収入データを持っているが、名前と収入の関係を調べたところ、名前が短いほど高所得になるという結果が出た。つまり男ならJohn(ジョン)、女ならAnn(アン)とかの3~4文字の名前の人が最も収入が多く、1文字増えるごとに3600ドルずつ年収が下がっていくというのだ。(p.173)
って、すごい。日本だったら、名前の漢字の画数と収入が反比例するんぢゃなかろうかと著者は推測してるけど。
ほかでは、やっぱ政治の話が私には興味ある、ブッシュのころから何かと話題になる南部のほうの共和党支持基盤のこととか気になるし。
2012年の大統領選挙のころには、「野球の入場者数がフットボールよりも多い州では民主党が勝つというデータ」を紹介してくれてる、それおもしろい。
>理由は不明だが、実際、民主党が常に勝つニューヨークやマサチューセッツではいつも野球の観客が多く、共和党が常に勝つテキサスやジョージアではいつもアメフトの観客が多い。
>で、民主党と共和党の間で揺れていて、選挙のカギを握る「浮動州」では野球とアメフトの人気も拮抗しているというから面白い。(p.49「こども投票」)
って、マジか。ヨーロッパでは、階層によってラグビーみるかサッカーみるか分かれるって話はありそうだけど、野球とアメフトでなにがちがうのか。
その後の、オバマ再選が決まったあとの12月ころのコラムでは、、南部の州が連邦から離脱して独立しようなんて動きが紹介されてる。
保守的で共和党が強い南部が「赤い州」、民主党が強い東部や西海岸が「青い州」というらしいけど、
>保守的な「赤い州」は、銃規制、同性婚、人工中絶、学校での進化論教育に反対し、青い州との溝が深まっている。「赤い州」は白人のキリスト教徒が過半数を占め、ヒスパニックやアフリカ系、アジア系やユダヤ系の多い州と民族的に違う。だから「ここまで違うのに一緒にいる必要はない!」という声も出てくる。(p.67-68「アメリカから分離独立せよ」)
って、すごい話なんだが、実際には分離独立は起きないという、なぜかというと、
>赤い州は青い州が必要だから。アメリカの産業は青い州に集中しており、貧しい赤い州は連邦政府の福祉なしでは生きられない。たとえばルイジアナ州は連邦に払う税金1ドルに対して1.78ドルの援助を連邦から受けている。(p.68同)
ってことで、日本にいるとわかんないけど、いろいろあるのねとは思うんだが、どうもアメリカの貧富の差はすごいものらしく、なんかいろんな政策とかで追随してってるように見える日本のこの先が心配だあねという気もする。
貧富の差については、サンフランシスコあたりの住宅事情の変化が書かれてる章があって、大手IT企業が地域に入ってきたから、そこの高給とりの社員たちが住みはじめてから家賃とか地価が上がって、庶民が住めなくなっちゃったという。
>実際、サンフランシスコでは2LDKのアパートが月35万円なんて相場になってしまった。地価が上がれば固定資産税も上がるから家賃も値上げするしかないのだが、払えない借主は立ち退きを命じられる。サンフランシスコでは2013年だけで1700人以上が家賃を払えずに立ち退かされている。(p.278「ジェントリフィケーション=住宅地の高級化」)
ってことなんだが、大手IT企業のひとたちは年収1000万円以上だし、自社の敷地内にはあらゆる施設があって無料で利用できるしで、なんともすごいことになっている。
前からの住民がいなくなっても、新しい裕福な住民が税金払うから自治体はいいんだろうけど、べつのとこで過疎化が進んだデトロイトなんかは市が財政破たんで破産したって。
デストピアとひっかけて、デトロピアと呼ばれるらしい、どうでもいいけど映画「デトロイト」は観たけど、なんか救いのない話だったな、ありゃ。
デトロピアはいいとして、日々あたらしくつくられてく言葉を知ることできるのが、本書のいいところのひとつなはずで。
Mansplainは男がドヤ顔でくだらん講釈垂れることで、ManとExplainがくっついたもの、男って上から目線になりたがりなのはどこでもそうか。
Killer Crushって、「女の子が殺人者に恋すること」って、あるんだ、そういう言葉、よくある現象なのか。
Childfree life、「子どもを持たないと決めた人生」ってのは、タイム誌の特集記事があったらしいが、
>今まで、「子どもがない」を表現する言葉はchildlessチャイルドレスだった。レスlessは「足りない」という意味だ。それをフリーfreeにすると、シュガーレスを英語ではシュガーフリーsugar freeというように、「足りない」のではなくて、「なくてよかった」というニュアンスになる。(p.174「子どもを持つ義務から解放された人生」)
という言葉の表現としてのおもしろさはいいんだけど、社会の事態は深刻だそうで。
>そして、年収が高い女性ほど子どもを欲しがらないというデータも示される。それによると、1000万円以上の高年収の女性の8人に1人が子どもを欲しがらず、中流だと14人1人、低所得だと20人に1人と減っていく。(略)
っていうんだけど、若い世代の意識調査では、
>1980年以降に生まれた世代、いわゆるミレニアルのアメリカ人のうち「人生に子どもは必要だ」と考える人は39%としかいない。(p.175-176同)
ということになってて、なぜなら育児や学費にカネがかかりすぎる世の中の仕組みだからだという。
>いまや子どもを沢山育てられる経済的能力があるのは金持ちだけなのに、先述のように、実際は金持ちほど子どもを作りたがらない。(略)
>アメリカでは貧困層ほど10代の妊娠率が高く、子沢山だ。そんな子どもは高い教育を受けることはできないので、貧困へのスパイラルを落ちて行く。生活保護を受け、税金を払わない貧困層が増えれば、社会全体が貧困のスパイラルに引きずりこまれる。(p.177-178同)
って、キラキラした名前を笑ってる場合ぢゃないよね。

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美術の心をたずねて

2019-04-21 18:44:10 | 読んだ本

箕田源二郎 1975年 新日本出版社・かもしか文庫10
これも実家の押し入れからひっぱりだしてホコリをはらって実にひさしぶりに読んでみたもの。
とはいえ、出版当時の私がこんなもの自ら読もうとするわけないんだ、親が読ませようともとめたものだろう。
迷惑なだけだよね、どっから選んだか知んないけど、ちょっと子供が本が好きそうだからって、おとなの読ませたいもの読ませようったって、活字なら何でもいいわけぢゃないんだからさ。
なかみはタイトルのとおり、美術のことなんだけど、だめだ興味なんかないんだから美術とかに、子どものころから、ムリに押しつけられるものぢゃないよ好き嫌いは。
けっこう、書き方のとっつきはやさしいんだけどね、
>長い長い時の流れのなかで、人間は、かたちづくることのできる目と手、美しさについてのちえを、すこしずつそだてあげていったわけだが、これから、その人間のちえのたまものをたずねる旅にみんなといっしょにでかけることにしよう。
>これからかくことは、ぼくがエジプトやギリシャ、イタリア、フランスなどの国ぐにをはじめてたずね、そこに花ひらいた美術遺産とかわした対話の記録でもある。
>そんなつもりで読んでいってくれたまえ。(p.30)
みたいに、「君たち」に話しかけ調だしね。
でも、やっぱだめだな、話しかけられてる内容に興味もてないもん、どうやっても。
絵とか彫刻の美しさとか、動きをとらえる目と表現するテクニックとか、そういうの感心せえと言われても、そうなの・それがどうしたくらいしか思わないもん、私。
ピラミッドとかクレタ島の迷宮とかってのは、ひかれるものがあるんだけどね、惜しい。
第一章 長い時間
第二章 王(ファラオ)の国
第三章 自然とのかたらい
第四章 人間へのめざめ
第五章 はじける芽
第六章 ものにせまる目
第七章 芸術家の生涯

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ブリジンガメンの魔法の宝石

2019-04-20 18:16:39 | 読んだ本

アラン・ガーナー作/芦川長三郎訳 昭和46年 評論社
わけあって3月から4週間ほど、生まれ育った家に帰って寝泊りしてたんだが。
たいがいの本は以前から機会あるたびに引き上げてたんで、今回ひまなときに読む本なんかはわざわざ持ってったんだけど。
掃除がてら押し入れを開けてごそごそやってたら、この児童書を見つけた。
原題「THE WEIRDSTONE OF BRISINGAMEN」は、1960年イギリスの作品。
オールダリーって村に来たコリンとスーザンという兄妹が、その地に伝わる伝説の争いに巻き込まれる、魔法使い系のおはなし。
暗黒の王と遠い未来に戦うために、銀の甲冑に身をかためた140人の騎士が魔法で眠らされてるんだけど、その秘密の鍵である宝石がその昔失われてしまった。
それがめぐりめぐってスーザンの手首の腕輪に受け継がれてるんだが、この土地を訪れたところで悪の一味に見つかって奪われてしまう。
絶望する善い魔法使いキャデリンのためにも、勇気ある兄妹はそれを取り返して、そのあと味方になってくれるのは小人のフェノディリーと、おなじくデュラスロー。
敵は、小鬼みたいなスヴァートとか、トロールの女巨人マラとか、怪物をつかってくるんだけど、あんまり魔法つかっての華々しい戦いとかにはなんない。
子どもと小人しか通れないような地下の洞窟の抜け道を進むところが、むかし読んだときも印象に残ったけど、周りも見えないなかで手探りで水の中にまで潜んなきゃいけないって描写が、なんかヤだよね、窒息とかのきらいな私には。

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1971年の悪霊

2019-04-14 18:03:05 | 堀井憲一郎

堀井憲一郎 2019年1月 角川新書
たまには著者名でのWEB検索なんかもしてみるもので、知らないうちに出ていた新書があったので、先月末に急いで買った。
1971年ってなんのことだろうと思ったら、「はじめに」のところで、2009年の民主党への政権交代があったときに、
>この夏、これは1970年ごろ、ほぼ挫折していった学生運動の理念が、ふたたび世を覆っているのではないか、というおもいにとらわれた。
ということで、70年代ごろに世に流れていた思いをふりかえったものということになるらしい。
理想好きの人たちと、破壊衝動を持っている人たちによる、なんかなんでもいいから変えてみたい、それがいいことだ楽しいことだ、みたいな思想までいかない、感情というか気分、空気。
著者は1971年に紛争のあった高校に、1973年に入学したそうだけど、中間テストと制服がなくなってたという。
私は世代的にもっとあとだけど、やっぱ同じように中間テストと制服がなくなってた高校に通った。
私ぐらい後からだと、むかしは何かあったのねという感じかもしれないけど、二年前にバリケード封鎖と機動隊の突入があったばかりのとこに入学すると、討論会とかあって、しかもそこで初歩的なこと訊くのもはばかられて、妙な違和感があるものらしい。
ほかにも世の中ではいろんなことが起きて、先頭に立って張り切ってた人たちには何らかの思想があったようなんだが、それが受け継がれていない、言葉で理念が残されないで、見えない空気のようなものだけがなんとなく人々を覆い続けてる、そういう感じってことか。
改革するとか体制に反抗するってことがかっこいいことで、大義のためには個人は犠牲になってもかまわないって生き方を選ぶことに価値がありそうって感じちゃう、そうやって戦うことが真の自由だとか、なんかそういう考えが支配的になったときに、お祭り騒ぎが生じちゃうというか。
むずかしい話ですね、やっぱリアルタイムで見てないと理解しづらいのかもしれない。見てないしね、あさま山荘事件のテレビ中継とか。
そういうこと言っちゃうと、この国には過去はあるけど歴史がないって言われちゃうのかもしれないけど。
章立ては以下のとおり。
はじめに 白く冷たかった2009年の夏
第1章 1971年、京都の高校で紛争のあった夏
第2章 1971年、岡林信康が消えた夏
第3章 1971年、高橋和巳が死んだ5月
第4章 1969年、「善のウッドストック」と「悪のオルタモント」
第5章 1971年、「小さな恋のメロディ」に惹かれた初夏
第6章 1973年、ローリングストーンズ幻の日本公演
第7章 1968年、パリ五月革命の内実
第8章 毛沢東「文化大革命」を支持していたころ
第9章 左翼思想はどこでついていけなくなったか
おわりに 「悪霊」とは何か

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