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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

情報狂時代

2018-12-30 19:11:51 | 読んだ本
山崎浩一・文/ひさうちみちお・イラストレーション 一九九四年 小学館
8月ころに何冊かまとめて買った、山崎浩一氏の古本、ぼちぼち読んでって、いちおうこれで最後。
なるべく時代順に読んでくことにしたんだけど、本書の初出は1992年から1994年にかけて「週刊ポスト」だって。
各章のタイトルならべてくだけで、あの時代を振り返ることはできるんだが、80項目もあるから、やんない。
時事ネタをまくらにして、例によって情報に踊らされてるのか好きで踊ってんのかわかんない、記号の大国・ニッポンを切ってくんだが。
冒頭の章で、自らが週刊誌で仕掛けた『パラレルワールド通信』っていう、冗談で嘘八百なニュース記事の影響を紹介してて、そいつが面白い。
>「最近、OLや女子大生の間で剃髪して出家するのがブームになっている」という記事を捏造した。
んだそうである、「尼さんになりたい!」って特集かかげた女性誌の表紙まででっちあげるという徹底ぶりの遊び。
ところが、その記事発表後、ほかのテレビ、雑誌とかのマスコミから取材が殺到。
遊びの記事を事実として引用して展開するどころか、嘘の企画だと説明しても、それでも取材したいと言うとこまであったとか。
>たとえそれが明らかに虚偽として発せられた情報であっても、それを信じたい人には事実としてしか伝わらないのだ。人は信じたいことだけを信じたいようにしか信じない。(p.12「人間は嘘が大好きな生き物だ」)
っていうのは、この情報化社会の本質ついた、するどい指摘。
ほかにも、連合赤軍事件の裁判の判決が、なんも分析してないとこを挙げて、
>そう、「情報を摂取し蓄積し記憶し反復するのみ」という情報フェチ(略)ぶりにかけては、裁判官もまた今のこの国の情報的風土を如実に踏襲しているにすぎないともいえる。一連の情報の中からトータルな意味を発見するのではなく、ただ瑣末な断片的情報ばかりをオモチャにして鬼の首を取ったように悦ぶ情報フリーク。(p.95「連合赤軍事件判決と『磯野家の謎』ブームの共犯関係」)
なんて厳しく断罪してるけど、コミュニケーションツールがじゃんじゃん進歩しちゃった今ぢゃ、そのへんの事態はもっと醜いことになってるような。
あと、いつのことか自分では年代記憶してなかったんだけど、1994年4月の記事のなかで、国産の米が入手困難で、整理券配ったとか、ヤミで値上がりして取引してるとか、輸入米はいやだとかって騒ぎを起こしてる世の中について、
>平成コメ騒動などと呼ばれているものは、実はどうやら食糧問題ではない。情報問題なのである。
>ぼくたちは毎日毎日、コメよりもコメ情報をたらふく食らっている。コメには飢えていなくても、コメ情報には飢えている。いまや日本人の主食はコメではなく、コメ情報なのである。(p.299「《国産米》はどこかJリーグのチケットに似ている!」)
という具合に、冷静に観察して、実体から遊離したそのさまへの警鐘を鳴らしてくれてる。
>なにしろ食べていなくても「輸入米はまずい」とだれもが知ってしまっている奇妙な情報世界のできごとなのである。(p.301同)
って、そうだよなー、ヘンだ。
そういえば、その後もエマージェンシーに遭遇すると、ホントに必要かどうか考えもしねえで、すぐ物資買占めに動こうとしたりする脚質、相変わらずだよなって気がする。
なんか、そーゆーの見てっと、井戸に毒投げ入れたなんてデマを信じて在留外国人を虐殺したようなDNAって、脈々と受け継がれて体んなかに流れてんぢゃねえかなって思うときがある。
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何かが道をやってくる

2018-12-29 18:04:22 | 読んだ本
レイ・ブラッドベリ/大久保康雄訳 1964年 創元推理文庫版
ヴァン・ヴォクトの古本を探してたときに、ついでに何か古典みたいの読んでみっかと思って、近くにあったの買ったんで今年の5月か、読んだの近ごろだけど。
題名だけは聞いたことあるけど、まったくなかみ知らないしって程度の興味で手にとったわけで。
原題「SOMETHING WICKED THIS WAY COMES」は1962年の作品、私の買った古本は1981年で実に32版、読まれてんだねえ。
おはなしは、ある10月の下旬に、クガー・アンド・ダーク魔術団っていうカーニバル団が町にやってくる。
それが夜中の三時に汽車で到着するんだが、月末には14歳になる隣に住む同士の二人の少年がそれに気づいたことから、巻き込まれてく。
全身に刺青のあるダーク氏にひきいられたカーニバル一行は、なんかまがまがしくて、見世物となる奇型の怪物たちもマジで不気味。
こいつはあやしいと少年たちが探ってくと、回転木馬を逆にまわせば乗ってるひとが若返り、順方向にまわせば年を取るとか驚異の装置があることが判明。
あと、捕らえたひとを改造して見世物の怪物にしてんぢゃないかとか、秘密がいっぱい、やっぱ、ただものではない。
秘密を知った少年たちはダークと一味に狙われることになるが、バカげたことだと言わずに事情を信じてくれた父親といっしょに悪に立ち向かう。
調べによると、この魔術団は20年か40年かごとに人々が忘れたころに現れては、人を苦しめつづける、何百年も前から生きてて旅をつづける、よーするに悪魔みたいなもんだという。
いや、ふつうにSFなんだろうなと思って読み始めたんだけど、そうぢゃなくて、なんていうか魔法使い系、怪奇幻想ものだね。

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超越の棋士 羽生善治との対話

2018-12-24 18:27:05 | 読んだ本
高川武将 2018年9月 講談社
おもしろそうだと思って、10月ころに買ってたんだけど、先週になってやっと読んだ。
そしたら、竜王戦で負けて羽生さんは無冠になってしまったというタイミングにあたっちゃった、なんてこった、てっきりタイトル通算100期達成だと思ったのに。
たまたま、本書の終盤2016年6月のインタビューでも、
>たとえば、保持しているタイトルがなくなるのは、引き際を考えるタイミングになりますか。(p.358)
なんて問いがあったけど、どうなんだろうね。
本書は2010年から2016年にかけての7回のロングインタビューを主に、2017年と2018年はじめの2回が加わってる構成だが、現在の将棋について羽生さんは、2017年に
>やっぱり、現代の将棋にまだ自分自身がきちんと対応できていない、ということだと思っています。(p.28)
なんて第一人者にしてはえらい謙虚過ぎるようなことを言ってる。ところが、2010年の時点でも、
>だから、最先端の将棋を研究するのは大前提として、さらにその上で何をするか考えなくてはいけないんです(p.40)
と情報が多くて研究が盛んな時代についてくことの大変さを語ってて、この2010年代ずっと危機感もってトップにいたんだってわかる。
羽生さんの若いころからの努力のしかたを、まわりのイメージするスマートなデータ駆使とか、そんなんぢゃなかったってあたりを
>彼らは根性の形を変えたんです。根性の表現方法を変えた。(p.264)
って島研の主宰者だった島九段が明かしてくれている。
羽生さんの姿勢って、自分を客観視するというか、メタレベルにたてるところがすばらしいってのは、今までも何かにつけて感じてたんだけど、本書のなかでも、いや、そこまで言う、って驚かされるのがいくつもある。
>でも、モチベーションやテンションに関しては、どうにもならないところもあるんじゃないですかね。一年を通してでも、一日単位でも、そう思います。(p.144)
とかってのもそうだけど、そこでふつうはどうにかしようとするもんだろうに、羽生さんは自分で調整できないって割り切っちゃう。
あと、いくらメタレベルったって、自身の対局について、
>自分が予想しないドラマを対局しながら観ていくという感覚は、やっぱりありますね。うん。どうせ観るなら、つまらないドラマよりも、面白いドラマを観たほうがいいので(p.114)
とまで言うのは、すごい。プレイすることを試合を楽しみます、なんて言うアスリートはいるけど、ちょっと次元がちがうような。
本書全般を通じて、何を目標とするかとか、何のためにやるかとかって問いに、羽生さんはあっさりと無い、っつーか考えない、みたいな答えを繰り返す。
めんどくさくて言ってんぢゃなくて、ホントにそう思ってる、なんかホントそこ超越してるって感じ。
考えてもわからないもの、考えたってしかたないことは、考えない、そういうスタンスが、すごい。
でも、きわめつけは、この激動の時代に将棋界の第一人者として自身の役割はと問われたのに対し、
>役割ですか? 役割なんて、あるんですかねぇ……(略)役割はないですよ。自分のできることをやっていく、ということですね(p.295)
って答えてる、これには参った。そうかあ、そぉなんだー。
どうでもいいけど、著者は羽生さんにインタビューすると、なんか癒しを感じてしまうと言ってるんだけど、そのへんのとこ、インタビューの模様を、「うーん、うーん」「ええ、ええ」「はい、はい」「ハハッ、ハハッ(笑い声)」って羽生さんの放つ間を省略編集せずに活字にしてあるんで、こっちも読んでてあの独特の話し方を思い出させられるとこがよかったりする。
序章 7年目のカプチーノ
第一局 私、完璧主義じゃないんです
 渡辺明――「この人、不思議だな」と思うときがある
第二局 闘うものは何もない
 久保利明――羽生さんは本当に楽しんでいた
第三局 勝ちに行くとき、隙が生まれる
 谷川浩司――嫉妬と恐怖心を乗り越えて
第四局 考えてもしようがないっしょ
 桜井章一――羽生善治が歩く「獣道」
第五局 コンピュータにできるなら人間だって
 島朗――羽生将棋の本質はど根性だ
第六局 人間に役割なんてあるんですか?
 森内俊之――僕を育ててくれた理想のチャンピオン
第七局 忘れることが大事です
終章 死ぬまで? そういうものですよね
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ぶらんこ乗り

2018-12-23 20:24:03 | 読んだ本
いしいしんじ 平成十六年 新潮文庫版
河合隼雄さんの著作を読むと、どうしても物語・おはなしってことを意識するわけで。
なんかないかなと古本買い行ったついでに探してたら、いしいしんじの文庫に目がとまることになり、読んでみることにした。
『麦ふみクーツェ』しか読んだことなかったんだけど、なんか期待するものあって。
タイトルのぶらんこ乗りってのは、語り部である「私」の弟のこと、高校生になった姉が、三つ年下の弟が小学校に入ったばかりのころのことを回想して書いたって体の物語。
おばあちゃんに、悪いことするとサーカスに売り飛ばすぞみたいにおどされて育った、小さいころの弟は、そのせいでサーカスに恐怖を感じてたんだけど、実際に観に行ったら、空中ブランコに魅せられることになる。
そのぶらんこ好きにこたえて、お父さんは庭にある木に手製のぶらんこを作ってやり、弟は上手にぶらんこに乗ることができるようになる。
ちなみにこの一家、亡くなったおじいちゃんは偉大だった画家、子供に全然甘い顔をみせないおばあちゃんはそのむかし舞台女優だった。
画家の娘のお母さんはやはり画家なんだけど、子供の目にはよくわからない絵しか描かない、そしてお父さんは額縁とか作る職人、夫婦はとても仲がいい。
全体になんか不安な印象をもたらせつつ、おはなしは進むんだけど、やっぱり、ある日のこと弟がアクシデントにあい、声を失う。
それまでも、ノートに独自のおはなしをつくる才能があった弟だが、話さなくなったことから、さらに文字にしていろんなことを書くようになる。
おまけに、それ以降、いつも家の庭のぶらんこの上にいることが多くなった弟は、動物の話すことが聞こえるといって、誰も知らないような動物のできごとを書きとめては姉に教えるが、姉はみんな弟のつくり話だと思う。
このあたりから、動物の話すことはあっちがわのこと、あっちがわに引き寄せられることがあるって弟の言うことに深い意味があるように思えてくる。
はじめてサーカスを見たときに、
>サーカスは思ったとおりだった。あっちがわとこの世の、ちょうどあいだにある。ぼくはなんどもあっちがわにひっぱられそうになった。
って書いた弟は、動物のはなしについても、
>おねえちゃんのこえはこっちがわにある。ぼくは、どうぶつのこえとおねえちゃんのわらいごえ、あっちがわへこっちがわへとゆれているぶらんこみないたものなんだ(p.177-178)
って言う。
そんな感じのことがくりかえし語られていき、最後のほうで、いなくなった弟について姉は、
>だって、ぶらんこは行ってはもどりする。はるかかなたへ消えたようでも、ちゃんとまっしぐらな軌道をえがき、ちょうどいい引力に従って、もといた場所にもどってくる。それに、忘れちゃいけない。弟は世界一のぶらんこ乗りだ。(p.252)
って、いつかまた手をつなげあえると信じてるという。
うーむ、なんとなくタイトルにひかれただけで読んでみたけど、とんでもなく良い物語にぶちあたってしまったようだ。ときどき読み返すことになりそうな予感がする。
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中空構造日本の深層

2018-12-22 18:38:28 | 読んだ本
河合隼雄 1999年 中公文庫版
ことしの夏に古本屋で買った文庫、河合隼雄さんの本も、たまにはすこしむずかしそうなの読んでみようかと思って。
中空構造ってボキャブラリーは知らなかったから、なんのことぢゃいと思ったんだが。
日本人の心の構造ってのは、なにか対立軸があっても、どっちが絶対の善悪とか正邪とかしないで、相対化してバランスをとってる。
論理とか整合性とかで統合しちゃうんぢゃなくて、矛盾をもったままでも排除せず均衡を保っちゃう、その中心は空であると、どうもそんなことらしい。
>(略)日本の神話においては、何かの原理が中心を占めるということはなく、それは中空のまわりを巡回していると考えることができる。つまり、類似の事象を少しずつ変化させながら繰り返すのは、中心としての「空」のまわりを回っているのであり、永久に中心点に到達することのない構造であると思われる。(p.46)
ってことで、古事記なんかが持ち出されて、アマテラスとスサノオがいるんだけど、もうひとりのツクヨミはあんまり活躍しないとか、海幸と山幸のあいだにもうひとりホスセリノミコトって兄弟いるんだけど無為の存在だとか、まんなかには無為の神がいる、日本の神話は中空性の構造をしてるって解き明かしてくれる。
中空性まで行く前に、人の心のなかで対立する論理については、男性性と女性性という言葉がよく使われる。
>(略)たとえば、父親は母親とちがって非常に厳しい、あるいは強い、こういう面と、もう一つ男性の特徴は、少し抽象的になりますが、女性とちがって男は切るほうが得意です。女性はみんなを同じように包み込んでいく。男性的なものは、おまえとおれとはちがうとか、よいものと悪いものとはちがうとか、そういうふうにものごとをはっきり分けて考えていく。(p.156)
っていう調子で、男性性ってのは、分割するとか分割したもの構築するとか、自然科学を生みだす要因となった性質なんだけど、日本人は中空性なんで、あまりそういうの持ちあわせていない、だから政治とかでも強いリーダーぢゃなくて、なんとなくまとめようという感じになると。
あと、なにかとバランスをとろうとするって心の構造が、日本人の判官びいきって気質につながってるってのは、成程そうなのかと思わされた。
男性と女性ということについては、前に童話とかに関する話のなかで、グリムなんかでは結婚でめでたしめでたしと物語が完結するのが多いけど、日本は必ずしもそうではないってのがあったけど、本書のなかでも、
>(略)日本人というのは、男性と女性の結合による完成よりは、完成するはずのものが別れて立ち去っていくところに美しさを見出そうとしてのではないかという気がします。(略)
>(略)日本人を動かしている非常に大きい原動力は、立ち去るものの哀れさと、立ち去ったものの恨みであるとさえ言うことができます。日本の文学の中でこの二つは重要な役割を果たしているように思います。(p.149-150)
って展開がされてて、日本の物語のつくりはそう言われてみればそうかもと気づかされた。
ちなみに、小説とかの文学だけぢゃなくて、マンガについて分析している章もあるんだけど、そこにあった、
>いま、トリックスター像について指摘したが、このようにしてみると、マンガはユングのいう元型的な心象の断片化されたものの集積場ともいうことができる。(p.177)
ってのは、精神分析医ぢゃなきゃ言えないマンガ観だなって思った。
心理学らしいことで、とても印象的だったのは、冒頭にあった、
>不安の特徴はそれが漠然としたものであることと、対象が不明確であることである。対象が明確な場合は、われわれはそれを恐怖と呼び、不安と区別している。(略)
>不安はこのような性質のものであるため、何か明確な対象に対する恐怖へとすりかえられることがある。それが、われわれ臨床家のよく知っている恐怖症の症状である。(p.9)
って一節。不安があると、それを何かに投影しようとしちゃう、そういう性質が世の中の人にはある。
昔より、統計的な事実としては殺人事件の件数は減ってんだけど、凶悪犯罪が多い、厳罰を、とかって叫んぢゃうのは、根底に不安があるからだ、とか考えられるよね。
コンテンツは以下のとおり。

神話的知の復権
『古事記』神話における中空構造
中空構造日本の危機
II
昔話の心理学的研究
民話と幻想
「うさぎ穴」の意味するもの
日本昔話の心理学的解明
III
現代青年の感性
象徴としての近親相姦
家庭教育の現代的意義
偽英雄を生み出した「神話」
フィリピン人の母性原理
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