昨年に引続き、今月は制定60周年を迎えながら、その条文が何1つ見直されもしなければ補足も行われる事なく今日まで存続した我国の最高法規「日本国憲法」について、我国固有の文化的見地と時代に応じた事由より見直しをした方が良いとの立場より、当日記記事を進めております。今夜はこれまで最大の争点と言われる第9条「平和条項」を少し離れ、その他の問題点に触れて参りたいと思います。
①第37条「刑事被告人の諸権利」の問題。
この条項では、刑事被告人が迅速な公開裁判を受ける権利を有する事が規定され、全証人への審問や、公費にての証人要請、そして弁護人依頼の権利等が詳細に規定されています。更に自らの弁護人依頼が不可能時は、国による選定、つまり国選弁護人を附する事が可能となっています。
この条項自体は優れた規定の様に見受けられますが、重大な問題は被害者の立場との関係でしょう。現行憲法には被害者援護の規定が何1つ見当たりません。事件を司法の場で裁き、適切に処分を行う上で恐ろしく公平を欠き、同法第14条「法の下の平等」を脅かす危険性大です。
被告人、つまり加害者の権利が考慮されたのは終戦直後、まあ戦前の被告人への過酷な扱いへの反省と言う要素もあった事が推測されます。又当時は現代の様に、巧妙悪質な凶悪犯罪も稀でした。何よりも犯罪人を裁く上で「反省更正の可能性が常にある」とした「性善説」が幅を利かせていた事も大きかったでしょう。が、しかし・・・。
時代は大きく変わり、多くの人的被害を生じる知能犯的凶悪犯罪も激増し、前述の対応では明らかに不十分となって来たのは事実です。特に2001=平成13年の初夏、8名もの犠牲者を生じた大阪府下の小学校襲撃事件はその典型でしょう。逮捕起訴された犯人は最期まで反省の姿勢すら見せず、1審で死刑が確定し執行されています。
ここで気をつけなければならないのは、犯人を裁き、処刑しただけでは問題は解決しない事であります。遺憾極まる事件の犯人を凶行に走らせた同機や背景は何か、再犯を生じない為に何が必要かと言う事でしょう。
倫理のかけらさえ見られないこうした凶悪犯罪の背後には、我国の伝統文化やその礎たる地域社会を破壊する「放縦」の影が見え隠れします。「放縦」とは責任の裏打ちのある「自由」とは似て非なるもの。具体的には己は何をしても良い。何でもありとする利己的かつ無責任な姿勢であります。現行憲法でも第12条にて国民に対し、諸権利の保全義務と対社会責任を説いていますが、現在の状況を思うと不完全の印象は免れないですね。刑事被告人であるからと言って、その諸権利を特記的に保障するあり方は今となっては不適切だと思います。第11条の「基本的人権」の諸規定や第13条「個人の尊厳」の規定のみで十分なはずであり、わざわざ別規定にするのは疑問です。もしどうしてもと言うのなら、憲法改正を断行し「犯罪被害者の援護規定」を絶対に追加すべきです。
②日本国憲法の制定当初構想された「家族に関する規定」が見当たらない事。
①に匹敵する重大欠陥であります。
先進国を初め、多くの諸国にあって「家族及び婚姻は、社会の最小単位として最大限に尊重され、又国家の保護を受けられる」旨の規定が明記されている由。
終戦直後の我国においても、現行憲法制定に際してGHQ=連合国進駐軍の認知もあってこの規定が盛り込まれるはずでしたが、主に外務省の腰の引けた対応により、実現には至りませんでした。この事が我国の家庭の機能を低下させ、家庭及び地域社会の教育機能を弱体化させた。ひいては国家社会と言う大きなレベルでの荒廃と混乱を招いたと言えると思います。
今国会にて審議中の教育基本法の改正への動きともリンクして参りますが、「個人」に関する規定が過剰な為に、我国の固有文化の基礎たる家族や地域社会を再建する方向性が強く求められ、その為にそれに伴う欠陥は糾され、補完されて参るのは当然の事だと私は強く思います。*(日本)*