日露戦争が終結し、夫も戦地から無事に帰ってくると、捨松にもようやく平穏な生活が戻ってきた。
大山は、軍人は政治に関与すべきではない、という信念を貫いて、栃木県の那須野に農場を開いて、
百姓仕事にいそしんだ。「私達は『仲の良い老夫婦』となりました」と、捨松はアリスに書き送っている。
大正5(1916)年11月17日、大山巌は、大正天皇のお供をして九州福岡で行われた
陸軍特別大演習を陪観した帰りの汽車の中で倒れ、3週間後、捨松ら家族に見守られながら、
75歳の生涯を閉じた。
葬儀は国葬によって執り行われ、式の最中、捨松はうなだれたままで、
手にした扇子が小刻みに震えていたが、最後まで涙を見せなかった。
身辺がようやく落ち着いてから、捨松はアリスに手紙を出した。
私にとって主人を失うということがどのようなことかは、あなたにお話しするまでもないと思います。
私にとって大きな慰めだったことは、主人が天皇陛下にお仕えしている最中に亡くなったことです。
もう一つ、私を慰めてくれたことは、主人が孫の顔を見ることができたことです。
・・・2,3分でも赤ん坊を主人の病室に連れて行くと、とても嬉しそうにしていました。
夫の死後、捨松は公式の場から完全に身を引き、孫の相手をすることを
何よりも楽しみとして過ごした。女子留学生第一号として、大山司令官夫人として、
お国のために尽くしてきた捨松に、ようやく静かな日々が訪れたのであった。