読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

「話」と言う漢字

2009-05-31 14:25:41 | 漢字

白川文字学によると「話」と言う漢字の言の部分は甲骨文ではサイと言う祝詞などを入れる容器に取っ手のついた剣を突き刺した形に描かれており、その漢字の舌と言う部分甲骨文では同じくサイと言う祝詞を入れた容器に刃物をつき立てた形に書かれていると言う。つまり、「話」と言う漢字は、人を中傷するような両刃の剣のような意味の文字なのだそうだ。

日本の近代に優れた作品は生まれなかった

2009-05-30 11:02:36 | 読書

デニス・キーン著「忘れられた国 ニッポン」講談社から
著者は二十年ほど日本女子大学で教鞭を取った事のある、詩人で翻訳家である。多くの日本の文学書などを翻訳している。その彼が日本の近代には優れた文学が生まれなかったと言う、あの川端康成のノーベル賞さえ政治的なものであったと言う。明治期の漱石、鴎外なども同様、優れたものではないと言う。江戸期以前の伝統のある文学は優れていたとするのである。なぜ明治期以降、日本の文学はダメになったのかについて著者は言う。
明治になって日本はそれ以前の伝統を棄て西洋化したからだと説くのである。「文化の豊かさは言葉の豊かさ」であり日本語はそれを失ったと言う。昔の日本語は今の日本語に比べ明らかに語彙が豊富で文法的に複雑で表現力に富んでいた。文語体は時制もはっきりしているしその特徴として複雑な敬語の文法も充実していたと批判している。日本語が英語化され僕、私、彼、彼女が頻出し不恰好な日本語になってしまったと言う批判でその結果優れた文学が生まれなくなったと批判しているのである。
私には文学などは理解出来ないが日本語批判については、なるほどと思えた内容の本であった。

「新宿医科大学」ぼくが医者をやめた理由、永井明著から,その2

2009-05-29 14:56:33 | 読書

大学医学部で臨床講義が始ると医学生のあいだに病気が増えるのだそうだ。講義や実習のスケジュールがハードでストレスが溜まり病気になる・・・のではないと言う。思い込みによる病気が増えるのだ。皮膚科で悪性黒色腫の講義を聴いた医学生の何人かは足のほくろを見つけ出してきて「これはきっとマリグナント・メラノーマ(悪性黒色腫)だ。講義で聞いたのと同じだ。」などと言い深刻な顔で悩みはじめると言う。消化器系の講義では思い込みの胃がんの学生が増え、血液疾患の講義では白血病患者が増え間もなく治療なしで治ってしまうのだそうだ。「吐き気が続き、ひょっとして悪阻(つわり)か」などと言う男子医学生もいるそうだ。

木鶏たりえず

2009-05-28 09:14:04 | 読書

今場所、白鵬が琴欧州に負け、連勝を33で止めたとき、報道陣に「いまだ、木鶏たりえず。かな」と語ったと言う。「いまだ、木鶏たりえず」の逸話は中国の「荘子」に出ている。
昔、中国に紀渻子(きせいし)と言う闘鶏を訓練する名人が居た。ある日、彼は王から一羽の鶏の訓練を依頼された。十日後、王が催促すると紀渻子は答えた。「まだでございます。殺気立って、しきりに敵を求めるばかりでございます。」さらに四十日後、王が催促すると紀渻子は答えた。「もう大丈夫です。ほかのどんな鶏が鳴いても挑んでも動ずるところが有りません。見たところまるで木彫りの鶏のようです。これは徳に満ちている証で、他の鶏はその姿を見ただけで逃げて行きます。」と語ったと言う話である。
不世出の横綱、双葉山は稽古場に「木鶏」と大書した額を掲げて稽古に励んだと言う。そして彼の連勝が69で止まったとき、尊敬する先輩に「ワレイマダモクケイタリエズ」と電報を打ったそうである。

風変わりな作家達

2009-05-27 11:06:28 | 読書

満州事変の勃発した昭和六年の頃は経済不況と言う事も有って世間には「エロ・グロ・ナンセンス」と言った小説や映画が流行した。
薩摩藩のお由羅騒動を中心にした激動の維新期を小説にした「南国太平記」の作家、直木三十五はこれがベストセラーとなり流行作家となったが彼はペンネームを年齢とともに変え続けたそうだし、「丹下左膳」を作者、林不忘は他に谷譲次、牧逸馬と三つのペンネームを持っていた。映画も昭和八年から音声が出るようになり丹下左膳を演じた大河内伝次郎はそのトーキーとなった映画のなかで声を発し「シェイはタンゲ、ニャはシャゼン」と言う強烈な訛りで聴衆を驚かせたと言う。後年、藤田まことなどが彼の物まねをよくやっていた。

エラーが発生したので

2009-05-26 13:57:16 | Weblog

比較的長い文章のブログを書いたがまた「エラーが発生したのでこのプログラムを中止します。エラーを報告しますか。」と言う表示が出た。こうなると折角書いたブログ文が保存されないまま消えてしまう。時折、こんな事が発生する。大抵の場合は辛抱強くまた同じ文を書くのだが、今日は止める事にした。

「新宿医科大学」ぼくが医者をやめた理由、永井明著から

2009-05-24 15:25:26 | 読書

少し前、肩甲骨の間の筋肉に激痛が有り救急車で運ばれた事が有った。夜で、休日でも有った為、そして往診を依頼した医院では夜の遅い時刻で有った事も有って「もう酒を飲んでしまったので」と言う理由で往診はしてもらえなかったが、その時、私の症状をその医師に家内が話したところ背中が痛いのは心臓が悪いのではないかと言われたと言う事だった。「新宿医科大学」(ぼくが医者をやめた理由)、永井明著を読んでいたら「激烈かつ拍動性の疼痛が胸骨下、肩甲骨間に感じられるときは大動脈瘤を疑い・・・」と言う記述を見つけた。救急車で運ばれた病院でも胸骨のレントゲンを、と言われた。結果は両方とも異常は無かったが肩甲骨間の痛みは心臓に原因が有る事が有ると云う知識が偶然だが身に付いた。

サラ川

2009-05-23 10:59:44 | 新聞

サラリーマン川柳、略して「サラ川」と言うそうだ。
今年も保険会社、第一生命が募集し、その内の入選作百首がネットで公表された。それに投票された十万四千票を集計しベストテンが新聞紙上に掲載された。何れの句も厳しい世相を反映したものが多かったそうだ。中に「やせたのは 一緒に歩いた 犬の方」と言う句が面白かった。余談だが私も歩き始めて17年になるが一時間ほど歩いて歩数にして7000から8000歩と言うところでそれだけでは痩せなかった。ここ半年ほどで一万歩以上に目標を定めたら痩せ始めた。

続・島津斉彬の事

2009-05-22 14:01:08 | 歴史

島津斉彬の父、斉興が子、斉彬に藩主の座を譲りたがらなかった原因は斉彬を可愛がり薫陶した曽祖父の重豪(しげひで)に有った。西洋文化好きの重豪はその派手な生活も有って薩摩藩の財政を危機に陥らせていた。文政十年(1827)で五百万両の債務を藩は抱えていたと言う。その危機を斉興の下で調所広郷(ずしょひろさと)は藩政改革を行い、十九年後には五十万両と言う貯蓄さえ成し遂げたのである。奄美での砂糖の専売と琉球での貿易での巨額の利益がそれを可能にした。こうして藩の財政は立て治ったが西洋文化に旺盛な興味を持っていた斉彬が藩主の座に就く事によってまた財政が危機に陥るのではないかと言う強い懸念が斉興と広郷を襲ったのである。これが斉彬の藩主就任を遅らせた原因だった。司馬遼太郎の「街道をゆく」のなかでは斉興の西洋嫌いだけが強調されていた記憶が有ったので斉彬の事について意外な新知識だった。

島津斉彬の事

2009-05-21 17:41:35 | 歴史

幕末の三賢侯の一人、島津斉彬は幼少の頃から曽祖父重豪(しげひで)の薫陶を受けた。斉彬は、洋学を学んで世界的な視野を持った優れた人物として幕府や多くの大名の注目を集めた。曽祖父重豪は外国の文物に強い関心を持ち、自分で中国語の辞書を作ったりローマ字を覚えたり、斉彬を伴い医師シーボルトにさえ逢って西洋文明の吸収に努め、斉彬を教育し強い影響を与えた。彼は重豪から受け継いだその旺盛な知識欲で西洋の知識と技術を薩摩に持ち込もうとした。が斉彬の資質を父の斉興(なりおき)とその一派が嫌いつづけ斉彬は四十歳を過ぎても藩主の座には就けなかった。原因は重豪に有った。