読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

知る楽選

2008-04-30 11:12:56 | Weblog

「知る楽選、漢字巨人」と言う番組名が新聞のNHK総合の欄に有った。漢字には興味が有ったのでビデオに撮り、後で見た。その番組はNHK教育放送で以前に放送されたもので確か「人物伝」と題された番組で有ったと記憶している。4回ほどのシリーズで第1回は見逃したのでこのNHK総合での再放送は嬉しかった。新聞の番組欄には「再放送」の表示は無かったがその番組の司会役は以前放送されたものと同じ人物である。内容は一昨年十月に亡くなられた白川静さんの漢字の画期的な研究を紹介するものであった。幾度も見たいと思わせる数少ない番組である。

オリンピックは国際調和に役立つか?

2008-04-27 17:29:29 | Weblog

各地でオリンピック聖火のリレーが妨害されている。近代オリンピックはスポーツ競技を通じて国際社会の融和をはかろうと ピエールドクーベルタン 男爵によって 1894年始まった。が1972年のミュンヘン五輪でイスラエル選手団11人のアスリートたちが、パレスチナのゲリラ組織に殺害された事件が有った。事も有ろうにその事件の実行計画に後にノーベル平和賞を受賞したあのアラファト議長が深く関わっていた事を確信したとその当時中東で取材活動をしていた元NHKの記者で現在は評論家の木村太郎が新聞に書いていた。オリンピックやその他のスポーツイベントが本当に平和な世界建設に役立つのか昔から疑問に思っている。

続・象形文字の方法

2008-04-26 10:56:34 | Weblog

岩波新書「漢字」白川静著から
文字が象形で表される場合は目に見える形の有るものに限られる。観念的、抽象的な概念は象形では表現し得ない。がそれら象形の文字の音や形だけを本来の意を無視して使う仮借と言う方法を使用する事によって抽象的な対象を文字にする事が可能となった。実は自分自身と言う対象も眼に見えるがその代名詞を示す「我」と言う文字もこの仮借によっている。我と言う文字はもとは鋸(のこぎり)を形にしたものであるが自分を示す言葉の音と同じである為、のこぎりの意味を意識する事なく自我の我として使われているのである。我が鋸である事は犠牲の犠や義が羊の肉を鋸で切っている事を表現した文字である事から判るのである。

象形文字の方法

2008-04-25 14:18:28 | Weblog

甲骨文は絵を描く方法で書かれていて象形文字と言われるが絵で書かれるものは形の有るものに限られる。象を狩猟出来るか否かを占った甲骨文が有る。岩波新書「漢字」白川静著10頁で雨、夕、象はその形の絵が描かれているが捕獲する意の「獲」は隹(とり)を捕らえる形の文字であって象などの獣を捕獲する意に用いるのはこの文字の意を拡大した用法である。隹と又、又は手の形で獲はそれらの形をたし合わせた会意と言う造字法で成立している。他に不、其、之、允、今などはそれぞれの形象の意を示す文字であるが、例えば不は花の花びらの付いている元の部分を意味したものであり、其は塵取りの形であるがこれらは夫々の音だけを用いた仮借と言う本来の意味を離れた方法で文字が書かれている。方角の東と言う文字も元は物を包みその両端を結んだ形であるが音だけが利用され方角を意味する文字として利用されている。

卜辞

2008-04-24 14:31:20 | Weblog

古代中国殷周の時代、卜いに獣骨や亀の腹の甲羅を使った。甲橋を切り開き左右に肯定、否定の辞を刻し、その裏に縦に溝を彫り、その横にすり鉢型の穴を彫り、それを火で焼いた。すると縦や横に割れ目の線が出来る。その割れ目により卜いが行われた。その割れ目の形から「卜」と言う文字が出来た。こうした卜いは巫祝長としての一族の王が行い、その卜いの内容が正しいものとして記録され残された。重要なものは赤い染料が塗りこまれたりもし、卜いの神聖さが保持される目的も有った。文字はこうして生まれた。

続々・佐賀藩

2008-04-23 11:08:08 | Weblog

1808年文化五年のフェートン号事件当時の佐賀藩主は鍋島閑叟の父、鍋島斉直でイギリスに屈辱的な思いをさせられた幕府は斉直を強く譴責した。閑叟はこの恥辱に激昂した。直ちに富国強兵、近代化に乗り出した。その一つの方法が教育恐怖政治とも言うべき藩の教育方針であった。藩士を全て藩校弘道館へ入学させ成績不振の者はその家禄の多くの部分を没収すると言う全藩を挙げての教育体制を敷いた。結果、反射炉を独自に作り、製鉄を始め、造船し、アームストロング銃さえ作ろうとした。この技術はオーストリアやフランスさえ凌駕していたと言う事である。こうして佐賀藩はペリー来航以前に産業革命を終えていたのである。しかし藩校弘道館での教育は葉隠れ的で人を鋳型に入れ込むやり方であったらしく、この方法に反感を持った者も居た。彼は弘道館の学制改革のような運動を始め藩校を退学処分になる。後に副島種臣と脱藩までした。大隈重信である。総理大臣まで勤めた彼の早稲田大学の校歌に「学の独立」と言う語があるが国の政治からの独立でなく佐賀藩からの独立であるような気がする。

買いたい本

2008-04-22 09:28:46 | Weblog

現在、図書館で借りて読んでいる本に「漢字の世界1.2」(東洋文庫 白川静著)の二冊がある。この本は図書館が寄贈を受けたものらしく、その本の最後に「某氏様 寄贈」と言う判が押され定価1000円、1981年第6刷発行となっている。現在はこの本の価格が1400円余となっている。「漢字の世界2」に至っては2400円以上である。

続・佐賀藩

2008-04-19 09:10:20 | Weblog

1808年文化五年、ペリーが浦賀に現れる四十五年前の事である。イギリス船フェートン号が長崎に侵入し、オランダ商館を襲い食料などを奪った事件である。その頃、イギリスとオランダは戦争状態に有った。イギリスのフェートン号ははオランダの重要拠点である長崎を襲撃するためオランダの国旗を掲げオランダ船になりすまし長崎湾に侵入した。勿論、これは重大は国際法違反であるが幕府はイギリスのこの不法行為に対し為す術がなかった。フェートン号の武装は高度に強力なものであり戦いになれば幕府の負けは眼に見えていたからである。それどころかその時の長崎奉行松平康英はイギリスの要求を呑み物資を与え、退去させる他はなかった。後、責任を取り切腹した。そしてこの長崎の警備の責任に有ったのが他ならぬ佐賀藩だったのである。この事件は後、佐賀藩にとってトラウマとして残る事となった。

佐賀藩

2008-04-18 10:14:50 | Weblog

幕末、佐賀藩からの志士が少なかったのは理由が有った。藩主鍋島閑叟が藩士が志士化することを極端に嫌ったからである。佐賀藩は日本国内で藩の鎖国を行い、藩外への人の出入りを禁じた。教育と言う事がその大きな理由と目的に有った。藩は上級武士であろうと下級の者であろうと必ず藩校弘道館に入れる事を強制した。他の藩では上士だけが藩校に入れるのみであった。そしてこの藩では教育した生徒の学業の不振の者からその領地を召し上げる事までした教育恐怖政治を行ったのである。それにもまた理由が有った。それは黒船来航の四十五年前の文化五年(1808)年のフェートン号事件にまで遡る。

船中八策

2008-04-17 09:12:09 | Weblog

1867年(慶応三年)6月、海援隊の坂本竜馬は土佐の後藤象二郎を船に乗せ長崎から兵庫に向かっていた。その船中で竜馬は今後、日本の採るべき政策を纏めた八ケ条からなる案を後藤に渡した。所謂、船中八策である。
1、政権を幕府から朝廷に返還し、朝廷により日本が統一されるべきこと
2、議院を設置し全て議員の協議により決せらるべきこと
3、人材を広く求め無用の官を廃すること
4、外国と対等の条約を締結すること
5、憲法を作ること
6、海軍の増強ははかる
7、近衛兵を置き帝都を守ること
8、外国との交換レートを定め不平等のないようにすること
である。
実は竜馬はこの前に勝海舟や幕臣の大久保一翁から平和裡に政権交替の実現のための「大政奉還」の考えの有る事を教えられていた。竜馬をそれを実現するための策を考え、後藤象二郎を通して土佐藩主山内容堂から幕府に献策して貰おうと考えてこの八策となったのである。容堂はこの献策を将軍慶喜に受け入れさせ大政奉還は実現した。