読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

徳川第十四代将軍家茂の事

2008-03-30 10:13:30 | Weblog

家茂は随分魅力の有った人物だったようで彼を将軍に推した井伊直弼は勿論だが一橋派の松平春嶽さえ「この君の為なら死んでも」とか「この君の為に泣かぬは木石にも等しく」などと絶賛し忠誠を誓っている。また勝海舟も「真に英主の御風あり」と言っている。天璋院篤子も同様に魅力に取り付かれた一人だった。

漢字のルーツ

2008-03-29 15:42:28 | Weblog

「白川さんに学ぶ漢字は怖い」小山鉄郎著 共同通信社から
漢字のルーツは今から3200年前に出来た甲骨文字である。現在の中国河南省安陽に都が有った殷の時代に甲骨文字が出現した。殷の都はその前は鄭州にあり、そこからはトいに使った亀の甲羅や動物の骨は出て来るがそれには文字は刻まれていないそうである。殷が安陽に都を移した武丁と言う王の頃に文字の原型が出来たと言う事のようだ。この時期、いっきに四千数百もの文字が出来た。王は神にその文字を駆使し、占い、神に意思を通じさせる能力の有る事を文字で示し、神意と一致する自分の権威を文字を使って示し残した。そこに文字、漢字が誕生した。

圀と言う文字

2008-03-28 13:59:39 | Weblog

白川静著 「漢字百話」中公文庫から
中国に則天武后(623~705)と言う女帝がいた。夫の高宗は心体共に弱かったため普通幼帝に対して皇太后などが行う垂簾政治を敷き、恐怖政治を行った。科挙の制度は有ったが合格した者は低い地位でしかなかった。周と言う国号を起こした後、15年で10回もの改元をしている。また文字政策にも介入した。所謂、則天文字なるものを創った。十九文字が伝わっているそうである。例えば国(國)と言う文字は地域が限定された概念が有るとして口の中に八方と言う文字を入れ、圀と言う文字を創った。が自国では定着せず日本に渡って水戸光圀の名の文字に残るのみである。則天武后の本名は武照だが照の代わりに空に日と月を置き、曌なる文字を創りそれを使ったことも有った。

陶淵明のこと

2008-03-27 10:51:45 | Weblog

陶淵明(365~427)は李白、杜甫と並ぶ詩人であるが彼の生前と死後の暫くの間は余り世に知られない存在だった。同時代の詩人に比べほぼ全作品が伝わっているのも珍しいそうである。彼の時代の文学は貴族主義的な修辞の華麗だが難解な文学の傾向の中にあった。が陶淵明の詩だけは平易だったと言う。役所を40代始めで辞し郷里に帰った。「帰りなんいざ田園まさに蕪れなんとす」と言う詩は余りにも有名でこの後多くの詩文を残した。彼の詩文は三百年後、白居易などの唐の詩人に高く評価された。岩波新書「中国名文選」興膳 宏著から

「五感で楽しむ東京散歩」岩波書店 山下 柚実著

2008-03-26 11:20:25 | Weblog

江戸日本橋は東海道、中山道など所謂、五街道の出発点である。およそ400年前の江戸の誕生と同時にこの橋は掛けられ、後19回の改修が繰り返された。現在の石橋は1911年明治11年に替えられたものである。その昔この橋の上からの景色は絶景だったそうである。北に浅草、上野、南に富士山、西はお城、東には海辺が見えた。がその後ビルが建ち、空気が汚れそうした風景は見られなくなった。昭和39年東京オリンピックの際、この日本橋の上に首都高速道路が出来て日本橋そのものも見えなくなった。

続「歴史の不思議」さのひとつ

2008-03-25 11:08:51 | Weblog

「遷都の地は浪華に如くべからず。」と大久保利通は維新後、日本の首都を大阪にほぼ決定していた。その京都の石薬師東入ルの町屋に住んでいた大久保に一通の無記名の投書が有った。そう言う投書に碌な物は無いと思っていたがそれには理路整然と首都は江戸でなければならない事が主張されており、大久保は繰り返しそれを読み検証して見たと言う。その述べるところは先ず戦略的に関東と奥羽はまだ鎮まっていない事、人民は王政を疑っている事、大阪を首都にすれば北海道は更に僻地となる事、首都を江戸にすれば役所の建物は既存のものを使える事などが有った。この最後の部分が大久保の考えを翻させ首都は東京になった。後、大久保が参議になり若い者達と歓談した折、話題がこの遷都の経緯に及びその無記名の投書の事に大久保が触れたそのとき「その投書は私が出しました。」と言った者が居た。郵便制度を創設した前島密である。ついでながら郵便と言う語も彼が作った語である。

これも「歴史の不思議」さのひとつ

2008-03-23 17:47:52 | Weblog

司馬遼太郎「歴史を紀行する」から
豊臣政権後の江戸期も大阪は経済の中心であった。家康もこの経済の中心と言う機能を江戸には移さなかった。が維新を迎え大阪は銀本位であったために金を欲しがった外国商人に信用されず大阪経済は衰退した。大阪の町人の人口は元禄期で七十万、江戸の五十万を凌駕していたが明治初期には四十万にまでなった。ここを日本の首都にし、再興しようとした人物がいた。大久保利通である。この時まだ幼かった明治天皇に大阪行幸を願い挙げ大阪はほぼ首都に決定されようとしていたが京都に居住していた大久保の屋敷に一通の無記名の手紙が投げ込まれ大久保の大阪遷都を覆す事になった。

中国の史書

2008-03-21 14:50:34 | Weblog

岩波新書「中国名文選」興膳 宏著より
中国の史書で孔子が編纂に携った春秋時代の「春秋」は史書の歴史上、最も古いものだと言う。その「春秋」に基づき春秋時代を編年体で記した「春秋左氏伝」(左伝)やその時期の夫々の国別の史書の「国語」や戦国時代史を国別に書いた「戦国索」などが出来た。それらの史書を総合しながら中国史を大規模に描いたのが司馬遷の「史記」百三十巻だそうである。紀伝体と言う「本紀」と「列伝」を中心にした史書の構成であった。本紀とは帝王の伝記であり、その支配した時代の歴史を記したものであり、列伝とはその時代の歴史に影響を与えた人物の伝記を言う。この司馬遷の歴史構成法は後の二千年に亘る歴代王朝の歴史記述法に踏襲されたと言う事である。

猫と杓子

2008-03-20 14:24:45 | Weblog

「猫も杓子も」と言う語は一休禅師の狂歌「生まれては死ぬるなりけり おしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も」から来ていると言う。何故、猫と杓子なのかについては諸説が有るらしいがこの点は岩波新書「ことばの由来」堀井令以知著を読んでもはっきりしない。一休は禅宗の師である事を思うと、仏弟子を釈子と言い、神主の位の下の者を禰宜(ねぎ)と言い、禰宜の子孫を禰子(ねこ)と言ったところから「猫も杓子も」は元は「禰子も釈子も」であった考えられると言う説が首肯できそうだ。釈迦の弟子も、神の弟子も、皆一緒と言うことのようだ。たしかに日本では昔、寺も神社も同じ場所に有ったし僧が神社に篭って修行をしたと言う事も有った。そこで仏教、神道どちらの信者も民衆は皆おしなべてと言う意味のようだ。



束の間

2008-03-19 15:08:34 | Weblog

「ことばの由来」堀井令以知著 岩波新書から
もともとツカは昔、指四本分の幅、つまり握りこぶしの長さの事を意味したのだそうだ。「十束のつるぎ」などと刀剣の長さを言った言い方が有った。「つかむ」と言う動詞、刀の「柄」も同じ語源だそうだ。そう言えばと、遅ればせながら気が付いた。一束ほどの短い時間から「束の間」と言う語が生まれ、万葉集にその語を使った歌が有る。「夏野ゆく 牡鹿の角の 束の間も 妹が心を 忘れて思へや」