読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

続・大阪の地

2008-02-29 15:15:59 | Weblog

この攝津の地、正確には福原、今の神戸を首都にと最初に考えたのは平清盛で彼は商業感覚が有ったと言われ、ここから中国貿易をやろうと強引に京から遷都した。が間もなく清盛は死に都は京に戻った。その後数百年、大阪の地の価値の大きさを知る者は出なかった。戦国時代の初め、ここ、特に石山の地(大阪城の有る地)の価値を発見した者が出た。蓮如である。彼はここを拠点に親鸞の「弟子も教団も持たぬ」と言う教義に反し浄土真宗の王国を作った。絶大な組織力と政治力であった。そして精力も。八十四歳の生涯で七、八十人の子を産ませ、内二十七人を成人させ天下に布教に行かせ各地に「講」を組織し生涯無名であった親鸞を世に出した。後、こうして城塞ほどにも肥大した石山本願寺は信長、秀吉と対立するに至る。

『ことばの由来』堀井令以知(岩波新書)の練木繁夫インディアナ州立大学ピアニストの書評から

2008-02-28 14:42:05 | Weblog

野球用語で左ピッチャーのことを「サウスポー」と言うがその理由は知らなかった。「Southpaw」と書き、直訳は「南にある手」である。日常生活で「Paw」を人の手として使うことはない。レッスン中に弟子の手を指して「Your left paw doesn’t move well.」などと言ったら、ハラスメントの罠にかかり訴えられるのは間違いないと練木氏は書いている。これが何故ハラスメントになるのかも解らない。字引を調べるとpawは「不器用な人の手」とある。そのためなのかそれでもよく分からない。「南にある手」とは左投手がマウンドでバッターと向かうとき、手の甲が南を向くからである。諸説が有るようだが野球場は、午後の日差しがバッティングの妨げにならぬよう、バッターからピッチャーを向く方向が東北東になるよう設計されるのが一般的であったそうで、したがってピッチャーは西南西に向かって投球することになり、投げ終えたとき、左投手の左足は南側になることから、左投手はサウスポーと呼ばれるようになったという説が主流である。この言葉が出来た19世紀後半、アメリカにはセンターを東、ホームベースを西に向けて作られた球場が多かったのであろう。現在でも、大体の球場が西方向を指している。スポーツ記者のチャールズ・シーモアが使い始めた言葉だそうである。

大阪と言う地

2008-02-27 13:51:47 | Weblog

大阪の地ほど他の都市と比べて立地条件の良いところはないと司馬遼太郎が書いている。列島のやや西に位置し琵琶湖と言う貯水池を持ち、淀川と言うその下流で数百万もの人口を養い得るパイプを持ち肥沃な平野が有り、さらに大阪湾と瀬戸内海が有り、そこから世界に開けている。誰が見ても日本の首都は大阪であるべきであったと。がここに地政学上の価値を見出した者は数少なく、そこが首都になり得なかった事情に歴史が煮詰まっていると言うのである。

道という漢字

2008-02-26 14:57:31 | Weblog

梅原猛氏が白川静氏に尋ねている。「道と言う漢字は生首を持って道を進んで行くところから出来た文字だそうですが本当ですか。びっくりしました。」と。道路は外部の世界に繋がる危険な場所であった。道とは恐るべき文字で異族の首を携えて行く事を意味する。金文では道と言う文字は導の形に書かれている。道の下の寸は手を意味し導の文字は従って首を手に持つ象形である。敵地の道を行くとき異族の神の禍を避けるため異族の首を掲げて進んだのである。白川静氏はそう説明した。

ゴッサン

2008-02-24 10:55:04 | Weblog

江戸期の京の公家たちは貧乏だった。彼等は京の町民からゴッサンと呼ばれていた。意味は判らない。ご馳走さんが短くなったものか。貧窮のあまりゴッサン達は売れ残りの腐りかけの魚を買わざるを得なかった。幕末の孝明天皇も魚は臭いもの、酒は酢になりかけの液だと思い込んでいたと言う。この江戸時代、大阪の博打場は軒下に菊の御紋章入りの提灯を掲げ博打場を開いていた。京の宮様に冥加金を納めてである。公家はその収入をあてにしていた。博打うちが紋章入りの提灯を掲げ冥加金を納めている以上、宮様の家来という肩書きが有る事になり町奉行の支配外でも有った。岩倉具視も屋敷を賭場に貸していた事が有ったそうだ。

魚の目はなみだ

2008-02-23 15:08:16 | Weblog

芭蕉の句の「行く春や鳥鳴き魚の目はなみだ」というのが有るが意味が今でも良く解らない。鳥はともかく何故、魚でそれがなみだなのだろうと不思議に思っている。別れを悲しんだ句で、池の魚もなみだすると言うフレーズは陶淵明や西遊記の中にも出てくる。芭蕉は恐らくそうした陶淵明の詩に思いを及ばせたのだろうが、それでも魚のなみだは西遊記や陶淵明の時代以前に遡って何故なのか解らない。最近、鰥と言う文字についての成り立ちを白川静著「漢字百話」中公文庫のなかに見た。鰥は「かん」と読み、妻を亡くした男の意味であると言う。眔の部分は「とう」と読み目から涙の出ている象形である。魚は古代中国で女性を意味すると言う。そう言えば人魚は女で、釣った魚に餌はやらないと言う言い方はこれから来ているのかと思った。何れにせよ妻と死別した事から「魚の目に涙」が来て、別れを表現する句に用いられるようになったのかなどと思った。

日光例幣使

2008-02-22 10:56:04 | Weblog

家康は死後、神として日光に祭られた。一方、天皇は皇祖が天照大神として伊勢に祭られている。この天照に向こうを張って家康を東照の宮とした。幕府は朝廷にこの東照宮に参拝することを義務付け、幕府の朝廷に対する優位を顕示しようとした。朝廷には屈辱であったに違いない。が公家はこの日光例幣使と言う東照宮参拝の役を喜んで買って出たと言う。事情は前にもブログに書いた江戸期の京都の公家の貧窮状態に有った。公家はこの例幣使の役に当たると出入りの京の商人を従者に仕立て上げ、江戸への道中、商売をさせその上前をはね、収入とした。公家たちの旅費は道中の宿場が出したからただで済んだのだった。

尹氏の夢

2008-02-21 15:19:07 | Weblog

昔、中国の地、周に尹と言う金持ちがいた。その家の使用人たちは終日、働かされ休む暇もなかった。その中に一人の年老いた召使いが居た。彼は昼は老体に鞭打たれるように働かされ、夜は泥のように眠った。しかしその老召使いは夜は夢の中で王となり宮殿で贅を尽くして暮らし楽しんだ。そして朝にはまた労苦の身に戻った。一方、金持ちの尹は自己の財が強盗に遭わないかなどの心労で心が休まらず毎夜、他人の使用人となりこき使われる悪夢にうなされたと言う。人の生は「数の常」、収支を合わせようとする大自然の摂理が働いていると言う寓話である。中公文庫「漢文力」加藤 徹 著から 

紫衣事件の背景

2008-02-20 14:38:06 | Weblog
徳川三代将軍家光が天皇に与えた石高は二万余石で天皇はこの二万余石で百七十軒ほどの御所近くに住む公家を扶持して行かなければならなかった。この時期の最下位の大名の石高に過ぎなかった。公家たちの生活は当然、貧窮した。結果、彼等はカルタの絵を描いたり大名や僧侶に位を与える際の僅かな手数料や遊芸の免許料を取るバイトをせざるを得なかった。最も位の高い僧侶は紫の衣を着る事になっていて、天皇はこれを許可する権利を持っていてその許可料も僅かながら天皇の収入になっていた。が幕府はこの権利を取り上げようとしてあの紫衣事件が起きた。

句に感じる暖かさ

2008-02-19 11:14:35 | Weblog

この冬一番の寒気団が・・・と毎日のように予報で聞く。「一雫(しずく)こぼして延びる木の芽かな」と言う句を新聞で見た。何かホットする句だと思った。「梅一りん一りんほどの暖かさ」と言う句にも同じものを感じる。