この攝津の地、正確には福原、今の神戸を首都にと最初に考えたのは平清盛で彼は商業感覚が有ったと言われ、ここから中国貿易をやろうと強引に京から遷都した。が間もなく清盛は死に都は京に戻った。その後数百年、大阪の地の価値の大きさを知る者は出なかった。戦国時代の初め、ここ、特に石山の地(大阪城の有る地)の価値を発見した者が出た。蓮如である。彼はここを拠点に親鸞の「弟子も教団も持たぬ」と言う教義に反し浄土真宗の王国を作った。絶大な組織力と政治力であった。そして精力も。八十四歳の生涯で七、八十人の子を産ませ、内二十七人を成人させ天下に布教に行かせ各地に「講」を組織し生涯無名であった親鸞を世に出した。後、こうして城塞ほどにも肥大した石山本願寺は信長、秀吉と対立するに至る。
この攝津の地、正確には福原、今の神戸を首都にと最初に考えたのは平清盛で彼は商業感覚が有ったと言われ、ここから中国貿易をやろうと強引に京から遷都した。が間もなく清盛は死に都は京に戻った。その後数百年、大阪の地の価値の大きさを知る者は出なかった。戦国時代の初め、ここ、特に石山の地(大阪城の有る地)の価値を発見した者が出た。蓮如である。彼はここを拠点に親鸞の「弟子も教団も持たぬ」と言う教義に反し浄土真宗の王国を作った。絶大な組織力と政治力であった。そして精力も。八十四歳の生涯で七、八十人の子を産ませ、内二十七人を成人させ天下に布教に行かせ各地に「講」を組織し生涯無名であった親鸞を世に出した。後、こうして城塞ほどにも肥大した石山本願寺は信長、秀吉と対立するに至る。