読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

ピストル

2008-01-31 10:32:36 | Weblog

20世紀と言う時代が最も多くの人たちが殺されたときだと言う。大量殺戮の兵器が発達したためだった。そうした武器を各国が競って持ったのがこの世紀の特徴だった。「この世紀だけで一億人は十分に殺している。スターリンによる政治的、思想的殺害だけでも二千万人を超えている。」と堀田善衛氏と司馬遼太郎が「時代の風音」(ユーピーユー出版)で話している。ルネッサンスの時代は個人の殺害は毒殺と言う方法だったが16世紀中頃、イタリアのPistoiaでピストルが発明され毒殺と言う方法は意識されなくなったそうだ。

続古本の街

2008-01-30 10:42:03 | Weblog

江戸時代、神田に塾が多く、自然本屋も多くなった。本屋はもともと古本屋を言うのが普通で本を買うと言う慣習はなく、本は借りて読み、貨幣のように街中を回し読みされるものと言う考え方だったようだ。神田の古本屋街は塾と共に発展した。明治期、法律学校が多く神田に出来た。後の明治大学はそれらの一つである。

豊玉発句集

2008-01-29 14:13:39 | Weblog

豊玉発句集は司馬遼太郎に言わせれば無名の俳人の「おっそろしく下手な句帳」だそうだ。豊玉とは土方義豊と言う新撰組隊士の俳号である。文久三年、京都に来て慶応三年京を去り、明治二年、函館、五稜郭の戦でこの世を去った土方歳三のことだ。この句集には彼が四度も京の冬を過ごしていながら冬の句は無く春と夏のものばかりだそうだ。
公用に出てゆく道や春の月。
年礼に出てゆく空やとんびたこ。
今日も今日もたこのうなりや夕焼けせん。
年々に折られて梅の姿かな。
上手いのか下手なのか俳句も短歌もやらない私には解らないが。

地蔵祭り

2008-01-27 14:23:44 | Weblog

大阪の初秋、地域の年中行事に地蔵盆というのが有ったそうだ。「京から伝わった風習」だそうだ。今でも有るのかも知れない。私の地域では夏に行われる。夜の子供のまつりである点で大阪のものと共通している。地蔵尊の命日は24日で、この命日は平安期の終わり頃、成立した今昔物語にも24日が命日であると出て来るから地蔵信仰はそれ以前から有ったのだろう。この物語には確か23話ほどの地蔵さんに救われたと言う説話が有ったと記憶している。

ばかなまち

2008-01-26 12:32:30 | Weblog

司馬遼太郎は戦後七年、京都のある新聞社の支社に居た。神社、大学が担当であったと言っている。その年中行事を記事にしていた。京都人はこの暦を繰り返して暮らしていた。自分は若かったから、ばかな町だと思っていたと書いている。毎月21日は南に向かう電車が満員になる。弘法さんの命日で東寺に向かう人たちである。25日は今度は北に向かう人たちで電車が一杯になる。北野天満宮に向かう人たちだ。天神さんの日だ。祇園祭には街中が人で一杯になる。これは大学時代、夏休みだったとき私も経験した。司馬はこの祭りを六度記事にしたとき大阪へ転勤になった。正直ホットしたそうである。京を味わうには若すぎたとも。

解脱

2008-01-25 15:28:38 | Weblog

本来、仏教の目的は解脱に有った。衆生を救うなどと言う考えはなかった。解脱とは煩悩から解放される事であり、煩悩とは人も畢竟、動物である限り生命を永らえ、子孫を残さねばならない本能が遺伝子として組み込まれているものだと言っていい。暑さ、寒さを感じ、痛みを、辛さを、寂しさを、空腹を感じることも煩悩だとすれば解脱は人が生きることを否定する事になる。そんな筈はない、と親鸞は考えたに違いないと司馬遼太郎が推察する。大乗仏教はここに極楽浄土という逃避界を設定した。形而上の世界である。阿弥陀如来の称号を唱え煩悩の世から脱出を図るのだ。それを解脱とは言えないが。

古本の街

2008-01-24 13:59:18 | Weblog

江戸期、朝鮮からの通信使が大阪に上陸したときその街に本屋が多かった事を紀行誌に書き残している。心斎橋筋に古本屋が多かった。露天の本屋も有った。司馬遼太郎は大阪生まれで本屋を巡るのは大阪の日本橋で戦前、古本屋が長く軒を並べていたと書いている。そこが戦災で焼けたあと、それらの古本屋が疎開先から戻らなかったため電機屋が並ぶ街筋に変わったと言う。京都は河原町通りに本屋が多かったと書いている。私は学生時代、京都にいたが40数年前、本屋が河原町筋に多かったと言う記憶がない。丸善書店が有り、専門書や洋書が多かった記憶が有る。他は大学の近くに二軒ほど古本屋が有って、余り人気のない専門書が多く並んでいたのを覚えている。

文章の思い出

2008-01-23 10:23:02 | Weblog

昔、沢村貞子と言う女優がいた。映画やテレビドラマでは憎まれ役が多かったが、彼女が中日新聞の夕刊にコラムを連載していた。その文が流れるような滑らかな文章で読んでいて心地が良かった事を覚えている。後で彼女が大宅荘一賞を受賞している事が解ったが図書館で彼女の本を数冊見つけたので読んで見たが昔、新聞で読んだ文の流れるようなものは感じられなかった。新聞のコラムに連載されていたあの文を納めた彼女の本がどこかに有る筈だがまだ見つかっていない。

啄木のこと

2008-01-22 10:11:03 | Weblog

今月の21日は啄木が釧路の駅に降り立ってから100年目にあたるそうだ。啄木の名を聞くたびに思い出す話が有る。啄木が一時、アイヌ語の研究で有名な金田一京助の家に居候していた頃、多くの借金を京助にしていた。啄木は京助の家から勤めに出ていたが給料を貰うと借金を返す事もせず、すぐに女を買いに行ってしまったと言う。そんな話を京助の息子で言語学者の金田一春彦が子供だった頃見た啄木の事をタモリのテレビ番組で話していた。その折、春彦はそんな啄木を見て、「子供ながらに本当に嫌な奴だと思った。」とタモリに話していた事を思い出すのだ。そんな金田一春彦も今は亡い。

司馬遼太郎の見た富士

2008-01-19 13:25:47 | Weblog

最近、銀座をぶらついているのは中国人が多いそうだ。司馬遼太郎は大阪の出で心斎橋はよく知っているが大学時代途中で戦争に採られた頃、銀座は良いところかなどと友人に聞いた事がよくあったそうだ。それほど東京などは行った事がなかったそうだ。そんな頃、中国人や蒙古人から銀座について聞かれたが行ったことがなかったため知らないと答えるほかは無かったそうだ。復員してから新聞社に入ってからも更に忙しくなり、銀座も東京も行く機会はなかったそうだ。昭和27年に初めて東京に行ったが仕事で宗教が受け持ちだったため二箇所ほど寺を回っただけで大阪に帰ったと言う。32年に上京した時、初めて富士を見て横山大観の富士より山下清の富士に似ていると感じたそうだ。