読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

席を同じうせず

2010-08-31 09:33:38 | 読書
「男女七歳にして席を同じうせず」は儒学の由緒ある正しい文献にある文章だが、これを男女別学の理論的根拠をするのは誤りなのだそうだ。この文章は「六歳になったら子供に数と方角の名(東西南北)を教えよ」と言う文に続くものなのだ。そして八歳になったら小学校に入れなさいと続く。男女が学校で別々の席で勉強すると言う意味ではない。「席」の意味が誤解されているのだ。日本では座席の意味で使われているが、「席」は「敷物、ゴザ」を意味する言葉だった。ここでは「ふとん」と言う意味で使われているのだそうだ。七歳になったら別々の布団を用意してやりなさいと言う意味だと言う事だ。
阿辻哲次「漢字逍遥」角川書店から

富永仲基のこと

2010-08-29 13:38:52 | 歴史
明治二十年代、内藤湖南は無名の学者で大阪朝日の論説委員の助手的な立場で入社した。
そこで彼は大阪の江戸時代の独創的な思想家を発掘すると言う仕事をした。
そうして見つかった人物に富永仲基がいた。富永は醤油問屋の息子だった。三十歳で亡くなったが、近代的な文献学を駆使して仏典を調査し、大乗仏教の仏典、阿弥陀経や法華経など全部が釈迦の言った事ではなく、四世紀から五世紀に書かれたものだと言う事を証明した。これに本願寺が驚愕し、敦煌へ調査団を派遣するに到った。この富永の証明に今のところ反論した者はいないと司馬遼太郎が書いている。

伝えずには居られない話

2010-08-28 09:10:21 | Weblog
或るメルマガで英会話を指導している人が紹介している話
いい話なので、まるまる転載させて貰った。
月刊『致知』2005年12月号より。

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その先生が5年生の担任になった時、一人、服装が汚くだらしなく、
どうしても好きになれない少年がいた。
中間記録に先生は少年の悪いところばかりを
記入するようになっていた。

ある時、少年の1年生からの記録が目に止まった。
「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。
勉強もよくでき、将来が楽しみ」とある。
間違いだ。他の子の記録に違いない。先生はそう思った。

2年生になると、
「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」と書かれていた。
3年生では
「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りする」
後半の記録には「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」とあり、
4年生になると
「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子どもに暴力をふるう」

先生の胸に激しい痛みが走った。ダメと決めつけていた子が突然、
深い悲しみを生き抜いている生身の人間として
自分の前に立ち現れてきたのだ。先生にとって目を開かれた瞬間であった。

放課後、先生は少年に声をかけた。
「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない? 
 分からないところは教えてあげるから」
少年は初めて笑顔を見せた。

それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。
授業で少年が初めて手をあげた時、先生に大きな喜びがわき起こった。
少年は自信を持ち始めていた。

クリスマスの午後だった。少年が小さな包みを先生の胸に押しつけてきた。
あとで開けてみると、香水の瓶だった。
亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。
先生はその一滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねた。

雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は、
気がつくと飛んできて、先生の胸に顔を埋めて叫んだ。
「ああ、お母さんの匂い! きょうはすてきなクリスマスだ」

6年生では先生は少年の担任ではなくなった。
卒業の時、先生に少年から一枚のカードが届いた。
「先生は僕のお母さんのようです。
そして、いままで出会った中で一番すばらしい先生でした」

それから6年。またカードが届いた。
「明日は高校の卒業式です。僕は5年生で先生に担当してもらって、
 とても幸せでした。おかげで奨学金をもらって
 医学部に進学することができます」

10年を経て、またカードがきた。
そこには先生と出会えたことへの感謝と父親に叩かれた体験があるから
患者の痛みが分かる医者になれると記され、こう締めくくられていた。

「僕はよく5年生の時の先生を思い出します。
 あのままだめになってしまう僕を救ってくださった先生を、
 神様のように感じます。大人になり、医者になった僕にとって
 最高の先生は、5年生の時に担任してくださった先生です」

そして1年。届いたカードは結婚式の招待状だった。
「母の席に座ってください」と一行、書き添えられていた。

たった1年間の担任の先生との縁。
その縁に少年は無限の光を見出し、それを拠り所として、
それからの人生を生きた。ここにこの少年の素晴らしさがある。

人は誰でも無数の縁の中に生きている。
無数の縁に育まれ、人はその人生を開花させていく。
大事なのは、与えられた縁をどう生かすかである。 

秋山好古の或る感

2010-08-27 09:19:33 | 読書
司馬遼太郎の「坂の上の雲」の登場人物の一人、秋山好古は、ロシアは社会主義になるだろうと言う感を持っていたと言う。理由は日露戦争の頃のロシア軍は世界最大であったが日本のような小国に敗れたからだと言う。そのロシアの世界最大の陸軍は皇帝の私有物に過ぎず、その軍が外国に負けたても人民の誇りは少しも傷つくことはない。皇帝のみが傷つき、それにより皇帝の権威が失墜し、革命が起こるかも知れないという事であるらしい。好古の頭脳の中では日本軍は天皇の軍と言うより、国民の軍であると言う考え方の方が強かったらしい。
ナポレオンはフランス史上初めての国民軍を率いていたから強かったのだとも言っていたらしい。

一銭斬り

2010-08-26 09:26:29 | 歴史
信長が尾張一国の領主になったとき、一銭斬りと言う法律を施行した。
人からたとえ一銭でも盗んだ者は死刑にすると言う厳格な法である。
当時は野盗や追剥ぎの類は珍しくなく、治安は乱れていた。と言うより
治安などは無かった。そう言う者から領民を守り、治安を維持するには
強行な措置が必要だった。
結果は大成功で戦乱の巷で信長の領地だけは女一人だけでも夜旅が出来たし
道端に荷物を忘れても盗まれないと言う稀有の治安状態が維持されたと言う
事だ。

6階から転落老婆、無傷で帰宅(但し中国での話し)

2010-08-25 09:23:33 | 新聞
高いビルやマンションから転落したものの、落下地点の何かがクッションの役割を果たし、命を落とさずに済んだという話はときどき聞かれる。先日、中国でも84歳のおばあさんがマンションの6階から転落し、奇跡的に命拾いをしたのだが、このおばあさん、入院することなくアッという間に病院を後にしたため、周囲を驚かしているそうだ。

中国紙長江商報によると、この事故が起きたのは武漢市漢口にあるマンションで、転落したのは84歳の王淑明さん。目撃者の話では事故発生時、王さんは6階の部屋の窓際に立っていたものの、体勢を崩したのか窓台の上から転落してしまった。

幸い落下途中にあった雨除けや物干し竿、瓦屋根が身体への衝撃を和らげ、王さんは奇跡的に命拾い。それどころか意識はとてもハッキリしており、現場ではしきりに息子の名前を叫んでいたそうだ。

王さんはすぐさま病院に運び込まれて検査を受けたが、結果は「軽度の骨折」だった。担当医は高齢であることを考慮し、しばらくの間は入院するよう勧めたが、王さんは頑なにそれを拒否。医師を説き伏せ、アッという間に家へ帰ってしまった。

なお、王さんは認知症を患っていたとのこと。そのため、心配した3人の子どもたちは家政婦を雇って面倒を見てもらおうとしていたが、王さんは家政婦とソリが合わず、子どもたちの家を転々とする生活を送っていたそうだ。事故が起きたときは息子の家に滞在しており、家の中には息子もその嫁もいたが、2人が気付かないうちに誤って窓から転落してしまったという

生類憐みの令余話

2010-08-24 13:42:47 | 歴史
徳川五代将軍綱吉が出した生類憐れみの令では綱吉が犬公方と呼ばれたように、最も大切にされたのは犬だった。庶民はその犬を叩いたり、蹴ったりするだけで厳罰に処せられた為、犬を恐れ、犬を飼わなくなった。餌をやることも無くなり犬は飢えた。そこで幕府は、江戸のはずれの中野に犬小屋を作り犬を保護した。その犬小屋は十六万坪と言う広大なものであった。大久保にもその犬小屋は作られ、最も多いときで八万二千匹の犬が飼われていたと言う。その時代、犬に避妊手術など行われなかったから犬の数は更に増えたであろう。これに係る費用は十万両に登ったと言い、税として江戸の町民に課せられたのである。
綱吉はこの令を死ぬまでやめなかった。それどころか遺言で次代の将軍にも続けさせようとした。それはさすがに無視され、続けられることは無かったが。

乃木神話の存在が

2010-08-22 10:17:33 | 読書
司馬遼太郎は「坂の上の雲」第四巻で旅順の部分を書く際、多少、乃木神話の存在が煩わしかったと言う。その神話は今も有り、その神話の信奉者から多くの意見が有ったそうだ。が、そうした発言については個々には対応して来なかったと言っている。乃木希典については「殉死」に書かれてあるが、司馬の乃木に対する評価は高くない。「乃木と言うこの戦略も戦術も無かった将軍は・・・」と言うような表現が司馬の他の歴史に関する本に有った記憶がある。
ドイツに乃木が行ったときにも彼の研究の眼は軍備や戦略、戦術の事ではなく軍人の制服についてであったと言う事だ。

茶器「抛頭巾肩衝」

2010-08-21 09:26:04 | 歴史
「抛頭巾肩衝」(なげづきんかたつき)は千利休の娘婿で秀吉の茶頭でもあった万代屋宗安の所有する茶道具の名器である。秀吉はこの茶入れが喉から手が出るほど欲しかった。この茶入れは茶の湯の大成者、村田珠光伝来のものだった。珠光は利休が秀吉の不興を買い切腹を命ぜられた際、この茶器を秀吉に献上して利休を救おうとしたが叶わなかった。結局、この茶入れは利休の嫡男、道安の赦免の際、秀吉に献上された。この茶器は後、秀頼、家康、秀忠、家光と伝わり、あの明暦の大火(1657)で江戸城とともに焼失した。

氷川清話のこと

2010-08-20 08:58:35 | 読書
勝海舟は明治32年まで生きて、西郷・大久保が倒れ、帝国議会が生まれ、日本が日清戦争に勝って三国干渉で屈辱に身にあった頃までを目撃していた。
 晩年は赤坂に寓居した。明治5年に静岡から戻って以来、25年ほどをそこに住居したことになる。そこに氷川神社が有った。以後77歳で亡くなるまで居た。
 幕末維新のすべてを見聞し、自由な隠居の身で好きなことを喋れる男は海舟しかいなかった。司馬遼太郎も勝は文章より話の人であったと書いている。その氷川の寓居には、東京朝日の池辺三山、国民新聞の人見一太郎、東京毎日の島田三郎らが頻繁に訪れ、海舟の談話を聞き書きした。それが「氷川清話」であると言う事だ。