読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

巍巍としている

2007-03-31 15:38:03 | Weblog

浄土真宗の三部経の中に仏説無量寿経と言う経典が有る。その中に光顔巍巍と言う語句が幾度か出てくる。宗教用語で意味もよく分からず気にも止めなかったが、その後、暫くして鴎外の小説「雁」に「巍巍としている。」と言う表現が出て来た。この語は熟語で日本語として使われているのかと初めて気が付いた。

焼香

2007-03-30 10:40:47 | Weblog

葬儀やお墓で使われる「しきび」とか「しきみ」言われる植物が有る。葉、茎、根、花、実などの全てに毒が有り、悪しき実の「あ」だけが取れてしきみとかしきびとか言われるようになったと言う事だ。この植物は燃やすと独特の臭いがして昔、遺体を焼くときにこれを使い火葬の悪臭を消したと聞いている。後にこの植物から末香が作られた。焼香の煙で身を清めると説明された住職もいたが、本来、仏教は葬式とはどんな関係も無かったから身を清めるなどの考えは仏教には無かった筈だ。そして線香と言う形になったのは江戸時代後半だったと聞いた事がある。これは私の想像だが葬儀や法事で焼香するのは火葬のときの悪臭を消すためにこのしきびを共に燃やした事の名残ではないかと思っている。

政治家蓮如

2007-03-29 16:36:21 | Weblog
蓮如は宗教家と言うよりは政治家であると司馬遼太郎が言っている。私の知り合いの仏壇屋さんもそう言う。浄土真宗の祖、親鸞は生涯を通じて無名の人で有った。後継者争いのなかで一時は絶えてしまったときも有ったようだ。それを真宗の八代、蓮如はその政治力で現在の浄土真宗にまで守り立て、真宗の中興の祖と言われる。複数の妻を持ち、子を各地の寺に送り込んだのである。今、中日新聞に連載中の宮城谷昌光の「新三河物語」にも蓮如が西三河に有った幾つかの真宗高田派の寺を瞬く間に本願寺派に変えてしまったとある。唯円の筆になると言われる「歎異抄」も蓮如は誤解される怖れが有ると言う口実で本願寺奥深く隠してしまった。教団を持たない筈の真宗が大宗教団体になったのである。歎異抄が世に知られるようになるのは明治の清沢満之まで待たねばならない。

仏教用語

2007-03-28 21:11:31 | Weblog

数年前、京都の大谷大学が毎日新聞から出した「仏教が生んだ日本語」と言う本を読んだ。大学が宗教用語をテーマに毎日新聞に連載したコラムを纏めて本にしたものと推察する。多くの、今は宗教用語だなどとは知らずに使っている語が日常で、しかもまるで反対の意味で使われている語が多く有る事に驚いた。
例えば、「無学」と言う語はもともとは宗教の事を全て学び尽くし、もう学ぶ事が何も無い状態を言うのだそうだ。この語も今は反対の意で使われている。

位牌

2007-03-27 15:19:02 | Weblog

母の葬儀のときも父のときも浄土真宗では魂や霊魂などというものは考えないので位牌なども作らないと言う話を聞いた。浄土真宗に限らず仏教は位牌を使う習慣などは無く、位牌はもともとは儒教から来ているらしく儒者は葬儀屋だったと言う事だ。井沢元彦氏の本の説明では魂は有る事になっていて輪廻転生が仏教の考えで儒教ではその魂は不滅で輪廻転生はせず死者の魂もその個性を残したまま存在すると言う事になっている。その魂が位牌の中に存在すると言う考えをするようだ。中国では位牌とは言わず木主と言うのだそうだがその儒礼による葬儀の仕方が仏教に入り込んで来たと言う事だ。そして魂が樹などに降りると言う神道の思想とも重なって仏教の葬儀に位牌が使われるようになったものと見える。

読書と言う趣味

2007-03-25 20:44:39 | Weblog

読書が本当に趣味と言えるようになったのは多寡だかここ4年ほどに過ぎない。それ以前にも本は読んではいたがパソコンソフトのマニュアルばかりを多数読んでいた。それでも結構楽しんでいたような気がする。中学生の頃から本を読んで何か発見が有ると僅かに快感が有った事は記憶が有る。しかし高校、大学とは余り受験勉強や大学の年度末の試験のとき以外は本は読んでいない。最近テレビも見る番組は無く英字新聞やTIMEを読むために30年ほど毎日、辞書ばかり引いて暮らしていた。読書と言っても歴史、宗教、言語についての本に興味が集中している。小説は歴史小説以外は殆ど読まない。しかし英語には興味が有って、小説は英文のものには興味が向き、読んでいる。ところが英文の小説など図書館では手に入らない。そこで多少の面倒が必要になるが・・・。

国語辞典

2007-03-24 18:31:34 | Weblog
掃除をしていたら三省堂の古い国語辞典が出て来た。昭和34年の改訂版で380円となっていて、私が高校と大学で使ったらしく裏表紙に自分の名と大学の名が書いてある。監修が金田一京助で編集に息子の金田一春彦の名もある。金田一京助の名は中学校だったか国語の教科書にアイヌ語の研究の話が載っていて記憶が有った。そこで思い出したのが息子の春彦の話だ。昔、NHKのクイズ番組で「日本人の質問」と言うのがあった。その番組でクイズの答えとして春彦が解説しながら「親父は字引なんて一冊も書いていませんよ。」と言っていたのを記憶している。この国語辞典は京助が名前だけを貸して作られていたと言う事だったのだ。

「硫黄島からの手紙」から

2007-03-22 17:12:15 | Weblog

守田比呂也のブログが目に付いた。どこかで聞いた事の有る名だと思った。昔、NHKの人気ドラマ「事件記者」の登場人物である。元日本海軍兵だと聞いて驚いた。そのブログの中に旧軍人の会が有り、その時の話が記されている。「栗林中将が硫黄島の司令官として赴任した時、軍服に満艦飾の如く勲章をぶらさげていた。」「全員玉砕の最前線へ行く司令官があんなに勲章を飾りたてるかね?」「しかも、参謀肩章をつけていたぞ。」「硫黄島の日本軍にジープがあるわけないだろう!」などである。そう言えば私の知り合いにも若いが旧日本軍、自衛隊、警察官など制服組の人事や階級、はては給料体系にまで詳しい人がいて、その人も言っていた。二人の憲兵が住民に夜、犬がうるさいのでその犬を殺すように指示する場面がその映画の中に出てくる。ところがその憲兵の内の一人が憲兵の腕章を付けているのは間違っていると指摘したのだ。この映画の監督がクリント・イーストウッドで日本軍の体制、システムまで詳細までは知りえないだろうと思った。


「父親達の星条旗」から

2007-03-21 15:45:26 | Weblog

太平洋戦争中、日本には配給制度が有った。国民に少ない物資、食料を分割配給し、その配給システムにより日本国民は戦争中でも飢えずに済んだと言う事である。その制度は業種毎に有り原材料物資が各企業に効率良く配分された。それらの配給制度は後に経団連や日経連などになったと評論家の立花隆が本に書いていた。ところで、アメリカにも戦争中にそうした配給制度が有ったばかりか「欲しがりません、勝つまでは。」や「贅沢は敵だ。」と言った日本の標語に当たる「使い切れ、最後まで着よ、間に合わせよ、なしで済ませよ。」と言う標語が有ったそうだ。またガソリンを無駄に消費しない時速35マイルの速度で走る「勝利速度」と言うものが有ったり家庭で野菜を作る「勝利菜園」なども有ったと言う話が「父親たちの星条旗」に出てくる。

中日新聞「くらしの作文」から

2007-03-20 11:37:01 | Weblog

「娘の卒業」と題した作文のなかの38才のママの言葉が眼に止まった。「いつも、おなじ繰り返しのように思える毎日は、当たり前のようにやってくるわけではないのです。」と言うもので小学校を卒業することになった娘さんが三年のとき入院した事が有って、そのときの暮らしの中で学び取られた言わば人生訓であろうと推測する。不平、不満、愚痴、悪口の毎日になり勝ちだがこのママは毎日を幸せと感じ、感謝をしながら暮らしておられるようだ。