読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

戦を学ばず

2013-12-09 11:09:35 | 歴史
昨夜、NHKの大河ドラマを見ていた。
同志社大学の臨時総長をしてた山本覚馬が卒業生に
聖書からの言葉を引用しながらスピーチをしていた。
その中に「戦を学ばず」と言う言葉が出てきた。
50年以上前、大学の合唱団で歌っていた曲を思い出した。
「Down by the riverside」と言う黒人霊歌だ。この曲の
中に「study war no more」と言う言葉が出てくる。大学
時代、この言葉を考えもしないで歌っていたが長年この
言葉の意味がわからないでいた。
が、この山本覚馬のスピーチでこの曲のこの言葉が聖書から
の言葉であることがやっと判った。

中国朝鮮半島関係史

2013-03-21 10:15:56 | 歴史
朝鮮半島の『三国時代』

 北朝鮮をめぐる問題の『キーパーソン』は、やはり中国。

中国と朝鮮半島との関係は、紀元前2世紀に、前漢王朝による朝鮮半島北
部に置かれた楽浪郡に始まる。

 朝鮮半島の歴史には『三国』という時代が有った。

 中国の『三国時代』は、魏、蜀、呉、朝鮮半島では、新羅、百済、
そして高句麗でである。

 百済は日本との関係が深く、仏教も百済から日本へ伝えられた。

 百済滅亡時に、多くの百済人が日本に渡来し、日本の文化に貢献したこと
は、歴史に記すとおり。


 高句麗は、『三国』の中では、最も広大な領域を国土としていた。

 そして、その多くの領域が、現在の中国東北部にあった。

 『三国』の抗争の後、新羅が当時の超大国である唐の援助により、朝鮮半
島を統一した。

 新羅の後の高麗は、モンゴル族の元朝に従属を余儀なくされた。

 そして、フビライの命によって発進する日本遠征軍に加わり、日本の領土
に進攻している。

 朝鮮半島の国家は、『外敵』による軍事進攻に対しては、自力では対処で
きず、中国の支援によって、その独立を守ってきた。

 それは、16世紀末の秀吉の朝鮮出兵、20世紀の朝鮮戦争である。

 秀吉の朝鮮進攻では、明朝の正規軍により、朝鮮戦争では、前年に成立し
た中華人民共和国の毛沢東が派遣した『抗米援朝義勇軍』により、救われた。

 明朝は、この援軍派遣による財政難により、滅亡が早まったといわれている。

「新島八重のことがマンガで3時間でわかる本」  津田 太愚著 明日香出版社 (2012/10/16)

2013-01-17 09:03:54 | 歴史
ある読書好きのメルマガから。
2013年NHK大河ドラマ「八重の桜」の主役、幕末に生き
た会津の女、新島八重。結婚祝いにもらった銃で
戊辰戦争を戦ったという女傑。

八重が生まれたのは江戸時代の最末期。誕生の翌年に、
浦賀にアメリカの船が現れたという時であった。

会津藩の砲術師範の家柄。兄の覚馬が江戸で洋式砲術を学んで
おり、八重は彼から銃の扱い方を習ったと言う。

裁縫など、女性らしいことは苦手だったらしい。体格はよく、
米俵を持ち上げることもできたらしい。これはドラマのなか
にも描かれてあった。

二十歳の折、兄の紹介で一度目の結婚をする。夫は川崎尚之助と
いい、丹波(兵庫県)の出身だった。このとき、八重は兄から七
連発のウィンチェスター銃を贈られている。

八重二十三歳、戊辰戦争が勃発し、会津のお城は薩長の官軍に囲
まれる。八重は京都で亡くなった弟の着物を着て参戦し、結婚祝
いの銃を片手に大奮闘した。

夜間の奇襲に自ら参加し、不発弾についての講義を領主の前で
行った。運び込まれる傷病兵の看護にもあたったという。

しかし、会津は敗れた。男は捕らえられ、蝦夷や江戸
に送られた。八重は夫の尚之助と別れ、残った女たちと力を合わ
せて自給自足の生活に励む。暮らしは厳しかった。

そんな八重たちのもとに、京都からの手紙が届く。差出人は兄覚
馬だった。覚馬も、弟とともに鳥羽伏見で死んだと思われていた
のに。彼は目を負傷し、薩摩藩に囚われて生きていたのだった。

八重の人生に転機が訪れた。兄に呼ばれて京都へ旅立つことになった。
ここで女性たちが集う学校に入り、二人目の伴侶となる新島襄と出会う
こととなった。

新島襄についても触れられている。幼名を七五三太(しめた)と言った
幕末、アメリカに密出国した。安中藩(群馬県)の藩士の子
として生まれた彼だが、ジョン万次郎と出会ったことで、アメリ
カに魅せられてしまう。

何故か、パスポートを出してもらえることになり、やがて留学生の扱いとなり、
帰国後にキリスト教の学校を作るまでになった。

そのとき、学校のために土地と資金を提供したのが八重の兄、覚
馬であったということだ。京都に有った薩摩藩邸の有った土地
を安く手に入れていた。現在の同志社大学と有る地である。

八重は生き残った。
生き残り、「日本の女性らしからぬハンサムレディ」と呼ばれて
新島襄に愛され、キリスト教者となり、やがて看護師にもなった。

中国朝鮮関係小史2

2012-11-28 08:53:42 | 歴史
中国朝鮮関係小史1からの続き

●朝鮮戦争出兵による影響

 この論争は、彭徳懐の失脚となるが、朝鮮戦争への参戦は、のちの毛
澤東の経済政策である『大躍進』の失敗と重なり、中国の経済に深刻な影響
を与える事となった。

 毛澤東は、この失敗により、国家主席の地位を劉少奇(リュウショウキ)
に譲った。

 柔軟な考えをもつ劉少奇は、これまでの政策を改めた。
 それは、毛澤東の目には、共産主義の否定を意味する。

 これ以後の毛澤東の闘争が、やがて『文化大革命』となる。

 『文化大革命』は文化を名目にしているが、実態は『政治闘争』であった。

 中国全土に、多くの損失、損害、打撃、悲劇、混乱、喪失、破壊、荒廃を
もたらし、中国の発展を10年は遅らせたと言われる。

 一説では、抗日戦争の人的、物的損失にも匹敵するといわれてもいる。

 
●大国のエゴ

 中国は、多くの犠牲を払いながら、朝鮮半島北部、つまり自国と国境を接
する地域に、共産主義の国家を存続することができた。

 では、なぜ、中国は、共産主義の国家を存続させようとしたのか。

 自分勝手なことだが、大国は、他の大国と境を接したくないのだ。

 歴史上の例を見てみよう。


●アフガニスタンの『ワハン回廊』

 世界地図で、中央アジアのアフガニスタンを見よう。

 アフガニスタンの国土が、パキスタンとタジキスタンをかきわけて、中国
に伸びている。

 この細長い地域を『ワハン回廊』と言う。

 この『ワッヘン回廊』の成り立ちは、いまから130年以上前に遡る。

 現在のインド、パキスタン、バングラディシュが、『インド帝国』として、
イギリスの統治下にあった時代である。

 同時に、帝政ロシアも伝統的な『南下政策』により、インドへの進出を図
っていた。

 イギリスとロシアの勢力が衝突する場所が、アフガニスタンである。

 大国は、表面では『対決』を呼号していますが、裏面では『話し合い』を
している。

 おそらく、この『ワハン回廊』も、イギリスとロシアの密約により、出来
上がったものだと考えられる。


●中国から見た北朝鮮の存在価値

 話を戻して、なぜ、中国が北朝鮮を残したかという問題。

 第一は、北朝鮮を自国防衛の防壁にすること。

 もし、朝鮮半島全体が韓国により統一されれば、国境の鴨緑江の対岸に
『星条旗』を見ることになる。

 鴨緑江で見るよりは、38度線で見るほうが、気分的には良いに違いない。

 核ミサイルがどんなに発達しても、『距離は最大の安全保障』と言える。
 第二が、直接にアメリカ、およびアメリカの影響力が及ぶ国と国境を接し
たくないという、大国の心理。


この心理を乱すものに対しては、中国は、いかなる手段も取る。

 その相手が、北朝鮮であってもである。

中国と朝鮮半島の関係小史1

2012-11-25 08:55:55 | 歴史
朝鮮半島の『三国時代』

 北朝鮮をめぐる問題の『キーパーソン』は中国である。

中国と朝鮮半島との関係は、紀元前2世紀に、前漢王朝による朝鮮半島北
部に置かれた楽浪郡に始まる。

 朝鮮半島の歴史には『三国』という時代があった。

 中国の『三国時代』は、魏、蜀、呉であるが、朝鮮半島では、新羅、百済、
そして高句麗である。

 百済は日本との関係が深く、仏教も百済から日本へ伝えられた。

 百済滅亡時に、多くの百済人が日本に渡来し、日本の文化に貢献した。


 高句麗は、三国では、最も広大な領域を国土としていた。

 その多くの領域が、現在の中国東北部にあった。

 三国の抗争の後、新羅が当時の超大国である唐の援助により、朝鮮半島を
統一した。

 新羅の後の高麗は、モンゴル族の元朝に従属を余儀なくされた。

 そして、フビライの命によって発進する日本遠征軍に加わり、日本の領土
に進攻した。

 朝鮮半島の国家は、『外敵』による軍事進攻に対しては、自力では対処で
きず、中国の支援によって、その独立を守ってきた。

 それは、16世紀末の秀吉の朝鮮出兵、20世紀の朝鮮戦争であった。

 秀吉の朝鮮進攻では、明朝の正規軍により、朝鮮戦争では、前年に成立し
た中華人民共和国の毛沢東が派遣した『抗米援朝義勇軍』により、救われた。

 明朝は、この援軍派遣による財政難により、滅亡が早まったといわれている。


●『抗米援朝』による朝鮮出兵

 『抗米援朝』は、美(中国語によるアメリカの略語)に対抗し、朝(北朝
鮮)を援助するという意味。

 名称は『義勇軍』ですが、実態は正規軍。

 朝鮮戦争で、朝鮮半島に派遣された『義勇軍』の指揮官は、1945年ま
で戦った日本軍とは、質量ともに桁違いに圧倒的なアメリカ軍の戦力を、い
やというほど見せられた。

 もはや、ゲリラを主体とする人民戦争の時代ではない、そう主張する代表
が、国防部長(国防相)の彭徳懐だった。

 この主張は、毛澤東の考えを否定するものだったため、共産主義中国の支配
体制の亀裂、崩壊にもつながるものだった。

現代中国インドシナ関係小史2

2012-11-23 09:20:56 | 歴史

●北ベトナムに中国軍!

 この『北爆期』に、北ベトナムには、外国である中国の軍隊が駐留していた。

 これらの中国軍は、防空部隊として、対空ミサイル、高射砲により、アメ
リカ軍機を迎え撃っていた。

 中国軍の将兵は、北ベトナム正規軍の軍服を着用していた。

 北ベトナム国民や外国人の目から、中国軍の存在を隠すためであった。

 戦時下の北ベトナムに負担をかけないため、そして中国軍将兵と北ベトナ
ム国民を接触させないため、必要物資は、すべて中国から送っていた。


戦場でない後方の防空戦闘でも、死傷者も出ていたはずである。

 しかし、『戦死者』の記録には、『北ベトナムで戦死』の文字はないであろう。

数は少ないながら、中国もベトナム戦争では、犠牲をだしている。


●戦い終わって、新たな戦い

 ベトナム戦争が終わり、共通の敵がなくなると、かつての盟友同士が争い
を始めた。

 最初は、ベトナムとカンボジアである。

 両国の仲の悪さは、数百年の歴史が示している。

 そのカンボジアの背後には、中国が存在する。

 ベトナムはそれに対抗するため、ソ連に接近した。

 インドシナ半島では、ベトナムとカンボジアによる、ソ連と中国の代理戦
争がやがて始まる。

 統一されたベトナム国内では、経済の実権を握っている、中国系国民の迫
害が始まり、多くの難民が発生した。


1978年12月、ベトナムは、反ベトナム政策のポルポト政権を打倒す
るため、カンボジアへ侵攻した。

 翌1979年1月、親ベトナムのヘン・サムリン政権が、プノンペンに成
立した。

 ポルポト政権は、タイ国境に移転し、ベトナム軍との戦闘を続けた。

 カンボジア国民の苦難は、終らなかったのである。

 この状況を見た中国は、『ベトナムに教訓を与える』を名目にした『ベト
ナム懲罰』の軍事行動を起こした。

  いわゆる『中越戦争』です。

 当時、ベトナム軍の精鋭部隊はカンボジアに向けられており、中国との国
境には、ニ級の正規軍と地方軍だけが駐留していた。

 ところが、中国軍は、それらのベトナム軍の抵抗のため、甚大な損害をだ
して、作戦を終了していた。

 この教訓が、以後の中国の『四つの現代化』政策の中の『軍の現代化』に
つながるのである。

現代中国インドシナ半島関係小史1

2012-11-16 08:54:49 | 歴史

 中国の外洋制圧の野心は尖閣諸島だけでなく、南シナ海にも及んでいる。

 むしろ、この方面への関心、力の入れ方が上回っていると言える。

 南シナ海を取り巻く諸国との軋轢も高まっている。

 その中でも、最も中国に対抗意識を強めているのがベトナムである。


●二つの主張(宣伝)

ベトナム戦争当時、ハノイに首都を置くベトナム民主共和国(以下、北ベ
トナム)は、下記の主張をしていた。

  1.南ベトナムには、北ベトナムの正規軍はいない

  2.北ベトナムには、外国軍隊はいない

 主戦場であったベトナム共和国(以下、南ベトナム)の領土内では、南ベ
トナム民族解放戦線(以下、解放戦線)の部隊が活動していたが、主力
は北ベトナムの正規軍であった。

 北ベトナム、解放戦線の相手は、アメリカ軍、南ベトナム政府軍、および
アメリカの要請に応じて派兵した韓国軍などでだった。

 量はともかく、質に問題のある南ベトナム政府軍を含めて、いずれも『正
規軍』だった。

 当時の最新兵器で装備し、軍人としての訓練を受けた『正規軍』であった。

 農民出身者を母体として、ゲリラ戦を主体とする解放戦線にとっては、強
敵である。

 解放戦線の戦力だけでは、1975年4月に、『ベトナム戦争』が終結し
たかは疑問である。

 現実に、1968年1月の『テト(旧正月)攻勢』では、解放戦線は軍事
的には、多くの損害を受けてる。

 南ベトナムを解放(征服)し、全ベトナムを統一するためには、南ベトナ
ム領内での北ベトナム軍の軍事行動は、欠かせないものだった。

 そのため、北ベトナムは、できるだけ多くの青年を徴兵、訓練し、南ベト
ナムに送らなければならなかった。

 そうした場合、北ベトナム本土の防衛力は低下する。

●『ホーチミンルート』の戦い

 『ベトナム戦争』の戦場は、南ベトナムだけでなく、隣国のカンボジア、
ラオスにも広がっていた。

 他には、アメリカ空軍が北ベトナムの空爆、いわゆる『北爆』を行っていた。


 それだけでなく、北ベトナムから南ベトナム領内の北ベトナム軍、解放戦
線への軍需物資を輸送する『ホーチミンルート』への空爆も激しいものだった。

 北ベトナムと南ベトナムの境界線であるベンハイ川は渡れず、ラ
オス、カンボジアを迂回して、軍需物資を送っていた。

 ラオスは、ベトナム戦争については中立国でしたが、北ベトナムもアメリ
カも、まったく配慮しなかった。


●ソ連、中国の援助

 北ベトナムへの軍需物資は、ソ連(当時)、中国から送られていました。

 ソ連の援助は10億ドル(年間)、中国は5億ドル(年間)と推定されて
いる。

 それらの物資は、中国は、中国本土から陸路で北ベトナムへ送っていた。

 ソ連は、船舶で、ハノイ東南のトンキン湾に面したハイフォン港へ陸揚げ
していた。

 いずれの場合も、北ベトナムを中継している。

 その北ベトナムの中継機能を破壊すれば、南ベトナムの北ベトナム軍、解
放戦線の息の根を止められる。

 そのための北ベトナムへの空爆を『北爆』と呼んでいる。

 1964年3月から1973年1月まで(停止期間はあったが)に、北ベトナム
に投下された爆弾の量は、太平洋戦争において、日本本土に投下された量の
数倍と言われている。

 この『北爆』に対する北ベトナムの対空戦闘も激しく、アメリカ空軍の航
空機、人員の損失も莫大なものとなった。

家康の始まり

2012-10-11 09:38:08 | 歴史
桶狭間の合戦は、東海道の名門であり、最大の勢力であった今川義元を
戦場から消し、今川氏は将を失い崩れた。松平元康(後の家康)は今川勢が
岡崎から引き上げた後、岡崎城内に入った。この戦いにより松平氏は
旧領を復活した。この後、松平氏は今川と組み、織田と対抗するか、織田と
和睦し、国内の統治に当たるか、岐路に立っていた。元康は後者を選択した。
永禄四年(1561)信長と講和を成立させ元康は今川義元の元の字を捨て
家康と改めた。何故、家の字を用いたかは不明だと言う。新しく一歩を
踏み出した家康であったが、この直後、自らの家臣が加わった一向一揆と言う
最大の危機に最初に遭遇することになった。

戦争が生んだ文化

2012-09-07 08:41:41 | 歴史
戦争が生んだ文化にはコンピューターや枯葉剤(除草剤)
そして古くは血液型の発見などは知っていたが
こんな物も戦争が生んだ文化らしい。
*時計

 腕時計は19世紀末のボーア戦争の産物といわれている。

 ボーア戦争とは現在の南アフリカ共和国の領域の支配権をめぐって、その
地のオランダ系入植者とイギリスとの戦いだった。

 そのオランダ系入植者をボーア人と呼んだ。

 ボーアとは『農民』を意味するオランダ語の『ブール』の英語読みだそうだ。


 イギリスは勝利を収めたが、ボーア人のゲリラ戦術に悩まされた。

 第二次世界大戦でイギリスを勝利に導いたウィンストン・チャーチルは従
軍記者として、南アフリカの戦場を訪れている。

 当時の男性は、『懐中時計』を上着のポケットにいれておき、それを取り
出して時刻を確認していた。

 戦闘中に、いちいち懐中時計を取り出すのが面倒になったイギリス軍の指
揮官が、鎖や革のベルトで腕に巻付けたのが始りと言う。

*ライター

 1914年(大正3年)から始まった第一次世界大戦は、初めて防御兵器
が攻撃兵器を圧倒した戦いだった。

 

 1914年(大正3年)年9月、マルヌの会戦でドイツ軍の進撃が頓挫す
ると、数百キロにおよぶ塹壕(ざんごう)陣地が出現した。

 その塹壕では将兵は劣悪な環境に苦しめられた。

雨が降り続くと雨水が塹壕にたまって、湿気が充満した。

 兵士にとって辛かったことのひとつに、わずかな時間に煙草を吸っての一
服ができなかったことがあった。

 湿気のため、マッチでは火がつきにくかったのである。

 そのため、ライターが考案された。

 

16.日本女子留学事始

2012-06-06 09:21:33 | 歴史

 日露戦争が終結し、夫も戦地から無事に帰ってくると、捨松にもようやく平穏な生活が戻ってきた。
大山は、軍人は政治に関与すべきではない、という信念を貫いて、栃木県の那須野に農場を開いて、
百姓仕事にいそしんだ。「私達は『仲の良い老夫婦』となりました」と、捨松はアリスに書き送っている。

 大正5(1916)年11月17日、大山巌は、大正天皇のお供をして九州福岡で行われた
陸軍特別大演習を陪観した帰りの汽車の中で倒れ、3週間後、捨松ら家族に見守られながら、
75歳の生涯を閉じた。

 葬儀は国葬によって執り行われ、式の最中、捨松はうなだれたままで、
手にした扇子が小刻みに震えていたが、最後まで涙を見せなかった。

 身辺がようやく落ち着いてから、捨松はアリスに手紙を出した。

 私にとって主人を失うということがどのようなことかは、あなたにお話しするまでもないと思います。
私にとって大きな慰めだったことは、主人が天皇陛下にお仕えしている最中に亡くなったことです。

 もう一つ、私を慰めてくれたことは、主人が孫の顔を見ることができたことです。
・・・2,3分でも赤ん坊を主人の病室に連れて行くと、とても嬉しそうにしていました。

 夫の死後、捨松は公式の場から完全に身を引き、孫の相手をすることを
何よりも楽しみとして過ごした。女子留学生第一号として、大山司令官夫人として、
お国のために尽くしてきた捨松に、ようやく静かな日々が訪れたのであった。