読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

「歌」と言う漢字

2009-09-30 09:32:33 | 漢字
白川静さんの出演するNHKの番組をビデオに撮っておいた。随分と時間が経ってからそのビデオを見た。「可」と「欠」とに依る「歌」と言う漢字の成り立ちについての説明が有った。
「可」は、「口」と言う漢字が有り、これはものを喋ったり、食べたりする口の事ではなく「サイ」と言う祝詞(のりと)を入れる入れ物を意味している。「丁」の部分は木の枝を表わす。「可」は、このサイと言う入れ物を木の枝で叩いている様子を表す文字である。つまり、その入れ物の中の祝辞(のりと)の願い事の実現を神に強制する事を意味する文字なのである。この願い事を聞き容れる可し、と願い事を強制するのである。これを二つ重ねて書いたのが「哥」である。「欠」は人が声をあげて何かを言い、歌い、叫んでいる様子を表した文字である。この祝詞(のりと)を入れたサイを枝で叩くだけでなく、抑揚をつけて声に出し、強調し、神に向かって願い事を主張している様子を表した文字が「歌」と言う漢字であると説明されていた。

本のリサイクルがある日が

2009-09-29 10:29:23 | 読書

来月下旬、読書週間が始まる。このとき楽しみなのはこの地域の図書館で本のリサイクルも有ると言う事だ。リサイクルで出される本の中に思わぬ掘り出し物の本が見つけられるときが有るのだ。ところが今年はそのリサイクル最初の日が市の行事の日と重なっていて、私は町内の当番が当たっているためにその行事に出なければならない。本のリサイクルの方に行きたい。

関東と関西の始まり

2009-09-26 15:53:58 | 歴史

1221年(承久三年)の承久の乱に勝利した鎌倉幕府は後鳥羽上皇を隠岐に順徳天皇を佐渡に流し京都王朝の権威は低落した。後、出家していた後鳥羽の兄を還俗させ後高倉上皇とし、これを「治天の君」としてその子を後堀河天皇として即位させた。この乱に関わった貴族を全て処刑し、幕府の支配下におかれた朝廷では将軍の親族で東国側と親密な関係を持った西園寺公経や九条道家を中心に編成された。後鳥羽の多くの荘園は幕府が没収し後高倉上皇に寄進すると言う形をとり、京都朝廷は幕府の規制の下に置かれた。北条泰時も時房も在京し続け六波羅に住し六波羅探題と言われ朝廷の監視をする事になった。
この後、京都朝廷側から従来、東国鎌倉を「関東」と呼称して来た名称を鎌倉幕府は自らの呼称として常用し、鎌倉側からは京都を含む西国を「関西」と呼ぶようになった。
岩波新書、網野善彦著「日本社会の歴史(中)」より

消える言語

2009-09-25 09:50:11 | 新聞

世界に有る六千種の言語の半数近くが絶滅の危機にあると言う。ある高校生が新聞への投書でその危機が何故問題になっているのか解らないと言っている。世界に一種の言語しかなければ言葉の壁などと言うものは無くなるのではないかと言う。言語は自分の属している国、民族、文化の重要な、そして畢竟、自分と言う個性のアイデンティティを主張し表現するものなのだ。言語も文字も他の文化、政治、権力に支配されたときに消える。古代エジプトのヒエログリフ、楔形文字など言葉だけでなく、消えた文字、使われなくなり今は研究の対象にしかなっていない文字もある。生き延びているのは漢字だけである。「初めに言葉ありき」と言うように言葉には魂があると考えられ、信仰されそれぞれの文明が生まれたのだ。

名詞+する

2009-09-23 14:14:40 | 読書

昔、「週刊朝日」が「日本語相談」と言うコラムを連載していたそうだ。
掃除する、洗濯する、とは言うが買物する、とは言わない。(今は普通に言われていると思うけど。)採用する、は言うが文法するは言わない。最近はお茶するなどは時々聞く。
何れにせよ、何か基準は有るかと言う質問がこのコラムに有ったと言う。その質問に作家の井上ひさし氏が答えている。「サ行変格活用という独特の活用変化をするこの「する」は、ご飯粒のようにほとんどあらゆる名詞にくっつき、貼りつき、その名詞を動詞に変えてしまいます。相手が名詞ならサット擦り寄り、ぱっとくっつく。女性とみれば必ず声をかけたと言う、あのカサノバ氏のような動詞なのです。」と解説し、結局、「基準と言うものはなさそうで使い込まれているうちに定着するし、そうでないものは忘れ去られただけのことでしょう。」とその基準ははっきりしない。この話は私も井上ひさし氏の「私家版日本語文法」で私も読み、ブログに書いた事がある。基準が有るせよ、ないにせよ、日本語はこの技で多くの漢語を日本語化して来た。基準など必要なく、こうして日本語はしたたかに生きてきた訳だが、この点、言語学者の大野晋氏なら何とか説明してくれそうな気がしている。言葉が先、文法は後の筈だから、この説明に文法はまだ少し時間が要るのかも知れない。

栗崎道有の手記

2009-09-19 10:20:27 | 歴史

吉良上野介を江戸城は松の廊下で浅野内匠頭が襲った原因ははっきりしないが、この時、吉良側は浅野内匠頭の乱心を主張し、一時は幕閣にそれが受け入れられた事を裏付ける信頼できる資料が有るそうだ。それが栗崎道有の手記と言うものである。栗崎道有とは幕府御用の外科医だった人物で、松の廊下で刃傷事件が有ったとき吉良上野介の傷の手当てをし、出血をピタリと止めた名医だと言う事だ。以来吉良家とは親密な関係になったと言う事だ。後に赤穂浪士の討ち入りで吉良の首が打たれたときも首と胴体とを繋ぐ手術もしているそうだ。

「忠臣蔵」は徳川批判

2009-09-16 13:16:18 | 歴史

「仮名手本忠臣蔵」は大阪初演の芝居である。大阪は当然豊臣に身びいきな地である。
が徳川批判の芝居は当然許されなかったから難波戦記などが書かれる場合は時代を鎌倉時代や北条の時代に取り、その時代の著名人を使い徳川批判の芝居が上演され、書かれたりした。佐々木盛綱を真田信幸の代わりに、同高綱を幸村の代わりに、源頼家を豊臣秀頼の代わりに、北条時政は徳川家康の代用だった。江戸幕府は江戸時代に直接に関わった人物の実名を使わせなかったのでこのように鎌倉時代や足利時代の人物に置き換えたのである。こうした芝居を見るとき江戸時代の大衆はこの置き換えを百も承知だったと言う事だ。義太夫で「近江源氏先陣館」の中の盛綱陣屋の場へ登場する北条時政を語るとき
義太夫は「♪一陽の春を待つ、平の時政・・・♪」と言う部分の語りで「待つ」と「平の」を一息に語るように口伝が有ると言う。「待つ」と「平の」を一気に語れば家康の旧姓、「松平」と言う発音に近づくのである。こうして徳川政治を批判したのである。

仮名手本忠臣蔵の事

2009-09-15 13:10:29 | 歴史

「仮名手本忠臣蔵」は赤穂浪士の討ち入りの四十七年後に大阪で初演された芝居である。
最初は人形浄瑠璃として上演されたが後に歌舞伎化され大阪でも江戸でも空前のヒットとなった。江戸城松の廊下での刃傷事件と吉良邸討ち入りを併せて赤穂事件と言い、以前にはこの事件をモデルにした芝居は幾つかあった。近松門左衛門の「碁盤太平記」や紀海音の「鬼鹿毛無佐志鐙(おにかげむさしあぶみ)」など。が「仮名手本忠臣蔵」が決定版となり他の作品は忘れ去られた。これにより赤穂事件は「忠臣蔵」と言い慣わすようになった。井沢元彦著、小説「忠臣蔵元禄十五年の反逆」新潮社から。

神と言う漢字

2009-09-13 10:16:45 | Weblog

「読み解き 古事記」坂田安弘著、産経新聞出版を読んでいた。神の語源は「カクレミ」であると書かれていた。疑問に思ったのでネットでも調べてみたら色々な事が書いてあって定説はないようだった。
そこで神の漢字について調べてみた。
神の元の字は「申」でこれは図の①のように金文では稲妻の形に書かれている。紀元前1400年頃の古代中国では稲妻は天の神の威光の現れと考えられていた。金文では「申」を「かみ」の意味で使っており、この申が神の元の字である。のちにこの申が「もうす」の意味に使われるようになったため、祭りに使う卓を表す「示」を加えるようになった。
図の②と③は共にその篆文である。

これも読書?

2009-09-12 09:27:16 | 読書

やっと平仮名だけを読めるようになった4歳の孫が何かぶつぶつと一文字一文字を読んでいる。じっと聞いていても何を読んでいるのか判らない。そばに行って見てみると阿弥陀経と言うお経の本だった。そのお経に書いてある振り仮名を一つ一つ読んでいたのだった。解らない筈だ。知らないあいだに仏壇から持って来たようだ。