読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

蛸薬師の事が今やっとわかった。

2011-12-02 09:59:02 | 宗教
学生時代、京都にいた。今はない市電で大学に通った。電車の窓から
電柱に地名、蛸薬師と有ったが、それが読めずその下に英語でTakoyakushi
と有って初めて読めた覚えが有る。その地名も変な市電の駅名だなと思った
きり、その後は思い出す事もなかった。
新聞で同志社女子大の山田邦和氏がそれについて解説している記事を読んで
その地名の由来に納得した。
鎌倉時代の京都に善光と言う親孝行な僧がいた。彼は病気の母親の強い願いで
蛸を飼って来たが、僧侶が生臭いものを持っている事を不審に思った群衆から
暴行をうけそうになった。そこで善光は一心に薬師如来を念じると、箱の中の
蛸はお経に変じたと言う。そして母親の病気も平癒したそうである。
京都の蛸薬師堂の由来である。蛸と薬師如来がこれで繋がった訳だ。

親鸞は妻の恵信が自分の子を身ごもったとき喜ばなかったと言う

2011-07-06 09:36:48 | 宗教
釈迦は自分の子に羅睺羅と言う名をつけた。その意味は「障り」だと言う。悟りの修行のためには子も家族も障りになると言う
意味だろうか。親鸞もそんな事を考えたのかもしれない。
その名付けの由来は諸説あるようだ。wikiペディアでは
羅睺羅は障碍や障月などと翻訳され、その意味は日食・月食など食を起こす魔神ラーフ転じて障害をなすもの)など、諸説あるが、彼の名前の由来には4つの説がある。

耶輸陀羅妃が子を産む時、月食がありラーフラと名付けたという説(『衆許摩訶帝経』巻6)。
耶輸陀羅妃の胎内に6年間障蔽されていたことによる説。
釈迦が悉多(シッダルタ)太子の頃に出家学道を志した時、懐妊した事を聞き「我が破らねばならぬ障碍(ラーフラ)ができ  た」 と 言ったことからという説。
古代のインド語では、「ラーフ」はナーガ(竜)の頭、「ケートゥ」は尻尾を意味した。そしてシャカの一族のトーテムは、他ならぬナーガであった。このことから、ラーフラとは、古代インドの言い回しで、竜の頭を意味したと考えられ、「ナーガの頭になる者」が生まれたことを歓喜した釈迦が名づけたという説。(なんとなれば、古来インドでは一族の跡継ぎがなければ、出家することはできないからである。出家を願っていた釈迦にはまたとない吉報であるといえる。また父・浄飯王もこの命名を喜んでいるが、孫に「障碍」という名がついて喜ぶのは不自然である。)

8歳の僧

2010-10-09 10:26:52 | 宗教

北海道は渡島管内森町で8歳の小さなお坊さんが法衣を着て檀家(だんか)を1人で回って仏前で読経していると言う。彼の父親が2年前に病死したため、彼は小学生ながら、来年、得度して正式に僧侶になることを目指し、将来、寺の後継者となる予定との事。
 浄土真宗の祐専寺(町内森川町)の三浦祐慧(ゆうえ)君と言い、森小3年である。小学1年の時から、祖父の祐伸さん(76)にお経や仏教のしきたりなどを学んで来た。お経は「嘆佛偈(たんぶつげ)」「正信偈(しょうしんげ)」「三誓偈(さんせいげ)」の三つをほぼ暗記し、難なく読み上げるそうだ。(私もそれは出来るが、出来るようになったのは60歳を過ぎてからだ。)
 祐慧君は、2008年に46歳で死去した祐良さんの長男。祖父の祐伸さんが8月、足の骨を折り、入院したため、盆には祐慧君が代わって何と、約40軒もの檀家を回った。その後も檀家から声がかかると、1人で法衣姿で出向いている。仏間に入ると、「お経を上げさせていただきます」と、頭を下げてあいさつし、仏前で「嘆佛偈」などのお経を流ちょうに唱え、お勤めを果たしていると言う事だ。お説教などもしているのだろうか。
 大谷派では宗祖親鸞(しんらん)が9歳で得度したことにちなみ、9歳から得度できる。祐慧君は来年1月の僧侶試験に合格し、同8月に京都・東本願寺で得度、正式に僧侶になれるよう、「勉強」に打ち込んでいる。
 祐慧君は「お経は漢字ばかりで難しいが、祖父が唱えるのを聞くうちに覚えた。頑張って試験に合格したい」と意気込む。祐伸さんは「これから少しずつ仏教を勉強してほしい」と温かく見守る。
 一方、祐専寺の檀家総代の石井美智磨さん(83)は「祐慧君が檀家を回る姿はほほ笑ましい。今後が楽しみだ」と活躍を期待していると言っている。

算数と言う語

2010-07-31 09:17:31 | 宗教
以前から不思議に思っている事がある。阿弥陀経を読んでいると、その中に「算数」と言う言葉が出て来る。読み方は「さんすう」ではなく「さんじゅ」だが、そのお経の中での意味は「数える」と言う事だ。このお経は紀元前後にサンスクリット語から中国語に訳されたものであるようだから中国語と言う事になる。
この算数という中国語を二、三の翻訳サイトで日本語にして訳して見ると意味は「確認する」とか「有効と認める」などと訳される。江戸時代の算数は算術で明治以降に算数と言われるようになったのだろうと思うが、本来の算数の意味とは違って数学の勉強の科目として算数という語が使われるようになったのは何かの経緯が有ったのだろう。阿弥陀経を仏壇の前で読んでいるとそんな事が頭を過ぎっている。

世間虚仮

2010-01-27 10:04:49 | 宗教

「世間虚仮、唯仏是真」は聖徳太子の言葉として知られている。世間は仮のもので仏のみ真実であると言うこの言葉は太子の死後、妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が主導し、作らせた太子追悼のための天寿国繍帳が織られた中に記された。後に太子の伝記である「上宮聖徳法王帝説」にも記録された。現代にも示唆を与える言葉である。虚仮とは空しくて仮のものと言う意味で、世間の金、名誉、権力など人が欲求するものは真に心を満たすものではないと言う事だが・・・。

「聖者の行進」と言う曲は

2009-12-23 10:52:51 | 宗教

Oh, when the saints go marching in,
Oh, when the saints go marching in,
Oh, Lord, I wanna be in that number,
When the saints go marching in.
「聖者の行進」と言う曲名で知られるこの歌は黒人霊歌と言うジャンルの曲で大学時代男声合唱団で歌った事がある。この歌はsaintsからサンタクロースを連想させクリスマス次期に良く聞かれると言われる。が私はこの曲からクリスマスやサンタクロースを連想したことはない。saintは聖者や聖人の他に通常複数形で、天国に行った人や死者を意味するため、もともとは葬式に使われていた曲だった。「死者が行進を始める」が原題だったそうである。にも拘わらず明るい楽しい曲になっているのは黒人達が奴隷制度の中、苦しい生活から死によって解放され、喜びに満ちた天国に生まれ変われるからである。

この世は苦であると釈迦は言ったそうだ。この世から極楽に往生する喜びを歌っている。浄土真宗にもこの曲は通じるものがあるようだ。

法名の付け方が解らない

2009-12-09 09:09:23 | 宗教

家内の母親が98才で亡くなり、最近、葬儀が有った。多くの会葬者が有り

最近、これほど多くの会葬者の有る葬儀に参列したのは久しぶりだと思った。

ところで故人の法名が温雅院釈尋開とされた。俗名がたづゑである。

普通、俗名の一部の文字が法名に使用されるが、この法名の場合は

それが見られない。俗名がひらがなであるためにそれが出来なかったと

言う事だろうか。法名の付け方にも規則が有るのだろうが良くは解らない。

たづゑを尋ねると解釈したのだろうか。尋ねるはたずねるでたづねるではない。

尋と言う漢字は右と言う漢字と左と言う漢字が合わさったものである。

神の在り処を尋ねると言う意味が本来である。

右と左の漢字を合わせた文字なので両手を左右に大きく広げ、広いと言う意味

にもなった。

良く理解出来ない法名の付け方である。

IHだから

2009-11-27 14:04:00 | 宗教

この地方の町内会は何処でも昔からやっているからか火伏せの神、秋葉神社のお札の斡旋をやっている。それぞれの町内に秋葉の神を祭る小さな祠が有るようだ。今年は私もその秋葉神社のお札の注文を取る当番に当たっており、そのお札の希望者の注文を取った。
私の息子は他の町内に入っているがそこでも矢張りお札の注文が有った。が息子は、うちはIHなので関係が無いからお札をの注文を断ったと言う。なるほどと思った。秋葉の神様はIHまでは予想しなかったに違いない。IHでは炎は立たない。

読経はやはり経本を見ながら

2009-11-07 09:59:43 | 宗教

毎日、仏壇の前でお経を唱えているとそのお経がお経の本を見なくとも読めるようになる。昨日、久しぶりにお経の本を見ながらそのお経を読んでみた。すると、何時もは、読み飛ばしている一行が有る事に気が付いた。お寺さんは毎日、法事や葬儀で読経をしているから当然お経の幾つかは経本を見なくとも読める状態になっているだろうと思う。それでもお経の本をなしで僧侶が読経しているところを見たことはない。お経は暗誦出来ていてもやはり経本を見ながら読むべきものなのだろう。

三部経のこと

2009-09-04 13:33:25 | 宗教

所謂、浄土三部経は法然が選定したものだそうだがその内「無量寿経」と「阿弥陀経」はサンスクリット本がありインドで成立したものである事が判るが「観無量寿経」は漢訳のものしかないのだそうだ。従ってこの「観無量寿経」は中国、または中央アジアで成立した可能性が高いと言う。
法然は、この三部経を基礎に「選択本願念仏集」を著した。尤も、法然は筆不精で著作と言えるものはこの「選択本願念仏集」だけで、それも法然自らが筆をとったのは冒頭の部分だけであとは弟子に口述筆記させたものなのだそうだ。それでもこの選択集は日本の仏教に大きな影響を齎した。