読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

日本車もパニック買い?

2011-03-29 09:59:01 | Weblog
wsj日本語版から転載
ガソリン価格の高騰、および燃費効率が良好な多くの自動車の差し迫った供給不足を背景に、トヨタ自動車やホンダ、マツダなどのディーラーに客が殺到する可能性がある。

 3月11日の東日本大震災の被害による工場閉鎖で、トヨタの「プリウス」や「ヤリス(日本名ヴィッツ)」、ホンダの「フィット」、マツダの「マツダ2(同デミオ)」といった日本製小型車の供給に障害が発生。輸出再開の時期をめぐる不透明感が強まるなか、一部車種の重要が増大し、価格が上昇し始めた。高範囲のパニック買いにつながる可能性はまだ先のことだろうか。

 一部リポートは、それがすでに発生していると示唆している。ハイブリッド車やそのほかの燃費効率が良い車のディーラー在庫は低い水準で推移している。日本で組み立てられる車や、日本製部品を使用する車の生産を、メーカーは停止したり減らしたりしている。結果、消費者の自動車選択の幅はますます狭くなっている。

 マツダは25日、日本で組み立てられる自動車について、米ディーラーからの受注を停止した。

 業界調査会社トルーカーは先週、プリウスやホンダの「CR-Z」、「インサイト」といったハイブリッド車種の成約価格が緩やかに上昇している、と指摘した。プリウスは、過去数日間は約700ドルのディスカウントで販売されていたが、4月30日までに800ドルのプレミアムで販売される可能性があるという。

 もし、新車購入を待てるのであれば、そうするに越したことはない。ディーラーが店頭表示価格やそれ以上の金額を求め始めれば、当然買うべきではないだろう。夏季のドライブシーズンが到来し、ガソリン価格が一段と上昇すれば、こうしたことは起こり得る。

 6月か7月までに、燃費効率の悪い自動車を下取りに出し、より経済的な車を取得したい誘惑に駆られるかもしれないが、それを我慢して、慎重に計算した方がよい。なぜなら、新車購入は通常、手持ちの自動車を維持するよりも金がかかるからだ。もし、車の不必要な利用を避けるため、運転の癖を変えることができるなら、なおさらそうだ。在庫が増加して、高いインセンティブが付与される買い手市場は、時間を要するだろうが、必ず戻る。

 その間、中古自転車を購入し、近場での買い物にそれを利用した方が、暮らし向きはよいだろう。

住民基本台帳も流失すると

2011-03-27 10:55:55 | 暮らしの中で
今回の東日本震災で、住民基本台帳も流失し、行方不明者数を確定できないと
いう自治体があると言う事だ。インターネットの時代に、データをデジタル化し
てネット上に保存していなかったと言う素人でもやる危機管理が出来ていなかったと言う
事のようだ。村役場でも簡単にできることと思える。
他山の石としてこれを機会に全国の役所がやるべき事だろう。
原発の方ばかりに注意を奪われているようだが。

宮城県南三陸町から、wsj日本版

2011-03-26 20:36:17 | 新聞
【宮城県南三陸町】津波で壊滅的被害を受けたこの漁業中心の町にある志津川小学校避難所の「本部」は、体育館ステージ脇に置かれたテーブルだ。太い赤のマジックで書かれたボール紙製の看板で、そこが本部だと分かる。


宮城県南三陸町の志津川小学校避難所
 町民500人の消息を詳述したリストの脇には貸出用の老眼鏡(「使用後はご返却ください」)と、共用のつめ切り(「使い終わったらアルコールで拭いてください」)の入った箱がある。テーブルの縁には、自治会長と3名の副会長の氏名を記した手書きの看板がテープで留められている。

 日本は、常日ごろから、どんなに日常的な仕事をやるにも、細かな手続を設け、肩書や委員会をつくりたがる、ルールずくめの国だ。

 現在、数十万人の国民が避難所生活を送るなか、日本人は、3月11日の地震と津波によってずたずたにされた平常心を取り戻すべく、こうした細部へのこだわりに頼っている。

 避難者を仮設住宅に移すのは数カ月先になりそうだと当局者が見込むなか、専門家によると、避難所の秩序正しい運営は、被災者にかかる長期的な精神的・肉体的負担を軽減する上で大きな役割を果たし得るという。

 避難者が体育館と教室で暮らしている志津川小学校では、秩序が行き渡っている。約500人の避難住民は、それぞれ15名ほどの班に分けられている。

 各班は、班を代表して毎日のミーティングに出席する班長を選んでいる。ミーティングでの議題は、断水中におけるトイレの最良の流し方から、コモンスペースへのペットの持ち込みを許可するかどうか(不可と決定)にまでわたる。

 このやり方は、津波後2日目のおにぎり配給の際に、腹をすかし、いら立った避難者たちがステージに殺到して大騒動になった折りに設けられた。ほどなく、避難者一同は、避難所運営のさまざまの側面を監督する自治会長と3名の副会長を選出した。

 班長たちが5人一列で12列をなして板張りのステージに整列して座り込むなか、自治会指導陣がその日の要点を説明する。ステージ右手には壊れた時計がある。その針は、南三陸町の大部分を流し去った高さ15メートルの津波の原因になったマグニチュード9の地震が襲ってから1分後の2時47分を指したままだ。

 こうした自治会は、多数の避難所でますます大きな役割と自治を引き受けつつある。地方自治体は甚大な被害で身動きがとれず、各避難所をつぶさに管理できないためだ。

 例えば南三陸町は、依然電気がなく、水道は一から再建する必要がある。43個所の避難所には、まだ9000人以上の避難者が寝泊まりしている。南三陸町の佐藤仁町長によると、より恒久的な住宅に住民の大部分を移せるまでには数カ月かかる見込みだという。

 志津川小学校の自治会は、日常生活のさまざまの側面を監督するため、炊き出し、管理、施設・環境、配給、在庫管理、医療という6つの部門を設けている。

 俳優になる夢を断念して東京をあとにし、電気工になるため3カ月前に里帰りした後藤伸太郎さん(32)によると、日本人はルールがたくさんあったほうが安心するタイプ、という。

 後藤さんは、自宅も流されず、家族も無事だが、避難所の衛生・環境問題担当の自治会副会長として近隣の人たちの助けになれると感じる限り、避難所を出ないことにした。

 後藤さんは、毎日午前8時半と午後3時に体育館のロビーに清掃係を集める。清掃係は、各班をA、B、Cのグループに小分けする込み入った輪番制で組織される。

 後藤さんは、ゴミの分別、トイレの掃除、周辺地域の清掃、非飲料用水タンクの清掃といった作業を割り振る。

 混乱を避けるため、自治会は、清掃方法と清掃対象に関する指示書を設けた。これは、ゴミ袋の取り換え方や、リサイクル向けに紙、ペットボトル、ガラス瓶、缶を分別する際の、ペットボトルのつぶし方や、燃えるゴミ、燃えないゴミを分ける方法について事細かに詳述してある。破壊のつめあとが生々しく残るなか、果たしていつどうやってリサイクルできるかは、まだ分からない。

 班長の一人が「使用済みの電池は別にすべきではないか」と、区分の増加を求めた。自治会は電池処分用に別の容器を設けることで合意した。

 清掃とゴミ分別の監督を担当する後藤さんは、意見の相違について判断を下すよう、よく求められる。魚の骨は燃えるゴミとして捨てるべきか、燃えないゴミとして捨てるべきか。断水がまだ続くなか、トイレを流す水を入れておくのにバケツを使うべきか、ペットボトルを使うべきか。

 後者の問題についての後藤さん判断は、大でも小でもペットボトルで流すようにしよう、だった。

 オレンジ色のタオルを頭に巻いた後藤さんは、努めて辛抱強くいるようにしている。自分はかんしゃくを起こすたちだが、大変な目に遭った人たちなのだから冷静さを失わないよう自分に言い聞かせているという後藤さんを、一部の人は「環境大臣」あるいは単に「大臣」と呼ぶ。

 医師や支援関係者によると、災害後できるだけ早期に、たとえどんなに小さな仕事であれ、被災者が何らかの日常業務や責任を見つけることがきわめて大事だという。

 被災地に救援隊員を派遣した人道支援団体「ワールド・ビジョン」の広報担当者クリスティ・アレン=シャーリー氏によると、被災者に仕事を与えることは、「再建と復興のプロセスの一翼を担い、復旧の取り組みに参与しているという意識を被災者に抱かせる助けになる」という。

これは表示違反にはならない?

2011-03-26 09:53:13 | Weblog
今日の朝刊の広告を見て、おやっと思った。
小学館の国語辞典の広告に金田一京助編と書かれてあるのだ。
昔、NHKの放送で「クイズ日本人の質問」と言うクイズ番組が有った。
その中で金田一京助の息子の故金田一春彦が、このように言っていたのを
記憶している。
「親父は、辞書など一冊だって書いていませんよ。」
辞書出版に名前だけ貸しただけだったのだ。

日本が直面する本当の試練

2011-03-25 20:41:33 | 読書
ジョン・バッシー(ウォール・ストリート・ジャーナルのエグゼクティブ・ビジネス・エディター兼アシスタント・マネジング・エディター)
JST 日本版から
日本にとって、震災後の復興は比較的簡単な部分だろう。日本が今の形のままで長期的に生き残ることの方が難しい。

大阪では震災後も変わらぬ日常が続く
 生まれた時から「和」を重んじ、民族的にもほぼ単一で、社会的結束の強い国であることの利点は多い。深刻な打撃を受けても立ち上がろうとする今の日本に、それはよく表れている。

 それは前にも目にした光景だ。1995年の阪神・淡路大震災の後、第二次世界大戦で日本の都市が焦土と化した後、広島と長崎の後、そして1923年の関東大震災の後。この国は、困難を切り抜けることについては完璧な術を持っている。

 今再び、日本社会を結ぶ地域社会の助け合いの本能が呼び覚まされ、犠牲者を悼み、がれきを撤去し、家とビジネスを再建していくだろう。トヨタ自動車の米国工場やゼネラル・モーターズ(GM)、ボルボは、日本からの部品調達難で一時的な混乱に見舞われるかもしれない。しかし、過去を振り返ってみると、グローバル・サプライチェーンの日本の鎖は、大方の予想を上回る速さで修復され、改善されると思われる。

 日本は大なり小なり、これに似た経験がある。1993年、住友化学の愛媛工場で溶媒タンクが爆発して工場が損壊、コンピューター向け半導体のスポット価格が世界的に急騰した。同工場では、世界供給の60%に相当する半導体封止材が製造されていた。まさに日本が世界のサプライチェーンのボトルネックとなり、市場では品不足が懸念された。

 しかし、予想よりも早く、数カ月以内で、住友化学は製造ラインのうち一本の再開にこぎつけた。他の日本のサプライヤーも迅速に代替品の生産を増やした。一転、世界市場は、不足ではなく、過剰な供給を予測した。

 神戸が生まれ変わったのは、震災前からの主要産業である製造業と海運業の拠点としてだけではない。神戸は、震災を、将来について再考し、バイオメディカル・センターとして再生する機会として捉えた。政府は資金を出し、外国人研究者のビザなどの規制緩和を行った。この結果、国内だけでなく、米国やドイツから多くの医薬品企業が神戸に集まった。

 単一性と社会的結束は、国家にエネルギーと方向性を与えてくれるものの、その一方で、欠点もある。そして、日本は、それを驚くほど安穏として看過している。これが、日本の長期的な見通しが不確かな部分だ。

 他の文化に価値観を壊されることへの恐れから、日本は移民をほぼ閉め出している。また、厳しい規範から、会社員は夜遅くまでオフィスでの残業を強いられる。このため女性は仕事か家庭かの難しい選択を迫られ、最近は仕事を選ぶ傾向が強まっている。

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Ted Aljibe/AFP/Getty Images

マニラの「リトル・トーキョー」にある日本食レストランに置かれた震災義援金を募る募金箱
 その結果、日本の出生率では、毎年の死亡者数をカバーすることができない。また、日本の移民政策では、経済を押し上げる力となる世界の頭脳、労働力、納税者を利用することができない。日本は縮小に向かっているのだ。

 また、結束は、「島国根性」や「公的立場を利用した自己取引」と言い換えられる場合もある。ここで問題なのは、日本の巨大な官僚制度だ。数十年にわたる一党独裁が政治の発展を妨げ、官僚が国を動かすこととなってしまった。

 日本の規制当局と監督対象産業の間の「回転ドア」は、よくオイルが差されており、よく使われている。多くの場合、官僚トップは、退職後に民間セクターで有利なポストを期待できる。

 これがどんな影響をもたらすかは想像がつく。日本の銀行は1980年代から90年代にかけて、当局の手が付けられない状態だった。というのは、その頃、銀行の経営陣には、大蔵省(当時)や日銀を退官した元官僚が加わることがしばしばあり、その際、彼らの元部下が監督当局の幹部ということも少なくなかった。上下関係が尊重される日本社会では、このつながりは退職後も続く。新たな監督当局者は、銀行が傾いている時でさえ、元上司との対立を嫌った。

 この慣行は「天下り」と呼ばれている。原子力行政を規制する経済産業省の元官僚7人は、東京電力で民間部門の給料を受けていた。

 そのうちのひとりが石田徹・前資源エネルギー庁長官だ。彼は昨年退官し、数カ月後に東京電力顧問に就任した。

 東京電力は、日本の北東部に今、放射能を拡散している福島原発を運営している企業だ。福島原発には事故の歴史があり、東電は安全性のデータ改ざんの過去を持つ。東電とその監督当局は、今回の危機への対応が遅れたと批判されている。

 アジアに関する著作のある元米貿易交渉担当者、クライド・プレストウィッツ氏は、「日本にのしかかる、二つの極めて大きな問題がある」と指摘する。同氏は「ひとつは人口減少で、長期的に日本はゆっくり自殺に向かっている。二つ目は機能不全な官僚システムだ。政治家には大きな権力がない。監督当局は、国民のためではなく、自らの引退後のために規制を行っている」と言う。

 どちらの意味においても――いかに国家として長く生き延びるのか、そしていかに国家の運営方法を選ぶか――日本に残された時間は限られている。「結束」と「静止」は全く別物なのだ。

津波に襲われた町-日常と惨状を結ぶトンネル

2011-03-25 10:01:21 | 読書
wsj日本版から
【石巻】山を抜ける全長1.6キロのトンネルが、壊滅状態の漁村とその他の日本、そして世界を隔てている。牧山トンネルである。
 エンドウ・マサノブさん(47)は、17万5000人の人口を抱える宮城県石巻市の中心付近にあるそのトンネルの入口に立っていた。ここから牧山トンネルは山を通って、沿岸部に繋がっている。以前エンドウさんが妻と子供と暮らしていた、活気あふれる漁村があった場所だ。

 日本が今世紀最大級の地震に揺れ、沿岸部が津波に打ちのめされた3月11日、製鋼所に勤めるエンドウさんは家から約160キロ離れた場所で働いていた。エンドウさん宅周辺の海に面した工場で働いていた人たちは、逃げるために何百台もの車でこのトンネルに押し寄せ、そのまま津波に飲み込まれたと目撃者は言う。

 自衛隊がそのトンネルを片付けるのには数日かかった。今では徒歩でそこを通り抜けるのが、工場、魚市場、倉庫などが立ち並んでいた魚町など石巻の港湾地域へ行く限られた道の1つとなった。最初は数人だけが歩いたトンネルを、今では多くの人が絶え間なく行き来している。

 家族を探しに行くためにトンネルの前に立つエンドウさんは17日、そろそろ状況も落ち着いた頃ではないか、と話した。その先の惨状はまだあまり知らない。

 停電の影響で牧山トンネル内の一部は暗い。歩行者の通行は想定されていなかったため、歩道もない。そして、その中を冷たい風が吹き抜ける。津波で多くの車が流され、ヒッチハイクも一般的ではない日本では、大勢の人が長い距離を歩いてそのトンネルまで辿り着く。

 愛する者と再会できる人もいれば、愛する者を失った事実を知る人もいる。反対方向に歩きながら、壊滅した町から出て行くのだと言う人もいる。

 トンネルを抜けたある人は、先に見える光に辿り着くまでは驚くほど長かったと話す。

 ゴトウ・エイコさん(51)は、6時間掛けて歩いた先で唯一の姉と再会し、喜びに溢れていた。泳げない姉は、たまたまセブン・イレブンの店舗の上に流れ着いたと言う。

 ゴトウさんの少し後ろには、前後に大きなダンボールを括り付けた自転車を押すストウ・コウスケさん(26)がいた。漁師のストウさんは、唯一残ったという仕事着のゴム製胴付長靴と手袋を身に着けていた。漁に出ていたときに津波に襲われ、ボートに乗っていて助かったが、帰宅して両親の亡骸を見つけた。

 両親も住む家も失ったストウさんは、倒壊した町から離れながら行く当ては特にないと話す。東京にいる姉が少しばかりお金を貸してくれるかもしれないと期待を口にした。

 石巻は昔から牡蠣と捕鯨銛と17世紀のガレオン船の巨大復元船が有名な街だった。「漫画の帝王」と呼ばれた地元出身の漫画家の記念館があり、商店街沿いにその漫画家のキャラクターが並ぶなど、町おこしが進められていた。石巻市中心部のトンネルを抜けるとブルーカラー労働者が集まる地域が広がる。

 製鋼所で働くエンドウさんは、トンネルを抜けて目を見張った。育った町は、泥と材木と家具で埋め尽くされていた。

 高校時代の友人と遭遇し、友人の妻に、まだ家に帰ってないのか、家はどこかと険しい表情で聞かれた。

 家は海沿いの栄田にあると答えると、友人の妻は息を呑んだ。そこが最も被害が大きかった地域の1つだったからだ。

 自宅に向かう途中、エンドウさんは近所のコインランドリーの窓から突き出た小型車を目の当たりにした。通る予定だった道は家屋の屋根に塞がれ、近くのガソリンスタンドの給油ポンプは海と反対方向に向かってドミノのように倒れていた。

 その惨状の中を進みながら、毛布を被った人の体を踏みそうになった。毛布から見えていたのは、数珠を掴んだ老人の手だった。エンドウさんは歩みを速めながら、タバコを1本取り出した。

 ぬかるんだ場所を横切りながら、エンドウさんは自宅を指差した。

 どこからか流れてきた大きな青い屋根が家に倒れ掛かり、玄関を塞いでいた。その屋根の上には、銀色のミニバンが横倒しになっていた。

 エンドウさんは滑って2回転びながら屋根を駆け上がり、ガラスがなくなった横の窓から2階建ての家に入り、家族を探した。

 ゴミと泥がリビングを埋め尽くし、壁に残った跡から津波が4メートル以上の高さまであったことが分かった。よろめきながら窓から出て来るときに、また転んだ。

 ここには誰もいない、と言い、次に息子と娘が通っていた小学校に向かった。家族はそこにいるかもしれない。

 その場所、鹿妻小学校の体育館で、毛布の上に座りながらカードゲームをしている家族を見つけた。

 地震が発生したとき子供たちは学校におり、残りの家族-妻、義母、弟とその妻-は車で学校へ急いだ。学校の下に停めた車は流されたが、家族は無事だった。

 エンドウさんは18日夕方、新しい家にいた。子供たちがバスケットボールを練習した体育館の片隅だ。

 今回の震災による死亡・行方不明者が18日時点で17,503人に上り、まだ不明者として届けられていない人も大勢いるこの国で、エンドウさんは、家族を失うという最悪の事態を逃れることができた。しかし、家も車も食べ物もきれいな服も、育った町が復活するという自信もない。それが直面した現実だった。

 未来は暗いな、とエンドウさんは言った。


東日本大震災、お年寄りの胸に去来する第二次大戦の恐怖, New York Timesから

2011-03-23 09:56:53 | 新聞
ワコウ・ヒロサトさんは廃墟と化した小さな漁村を見詰めた。粉々になった骨組みだけの建物、波状にひん曲がった長い鋼鉄、鉤爪のように曲がった手をした遺体。これまでに一度だけこんな光景を見たことがある。第二次世界大戦だ。 「私は仙台空襲を生き延びた」と、ワコウさん(75歳)は言った。連合国軍による東北の最大都市への爆撃のことだ。「でも、これほどひどくはなかった」 日本の東北地方の海岸沿いの村々に暮らすお年寄りにとって、これは子供たちも知らないすべてを奪ったあの日の再現だ。日本の大半の地方と同じく、多くの若者は村を出て都市に職を求めた。村に残ったお年寄りが、荒廃と放射能汚染の可能性と向き合っている。この困難に匹敵するのはこの世代が向き合った試練だけだ。敗戦で絶望した日本は、あの時も戦争の瓦礫からの再建を迫られた。 閖上(ゆりあげ)地区での生存者の捜索は遺体の捜索になっていた。ほとんどの遺体はお年寄りだった。お年寄りだったから、津波を振り切ることができなかった。 サガ・ユウタ(21歳)さんは地震で割れたコップを拾っているときに、警報と「ツナミだ!」という叫び声を聞いた。母親の腕を掴んで、中学校に走った。周辺で最も高い建物だ。車や人の行き来で通りは混乱していた。運転していた人たちはうろたえ、衝突を繰り返した。サガさんには津波が迫ってくるのが分かった。建物の倒壊でもうもうと土煙が立ち上っていた。 サガさんと母親が学校に着いたとき、屋上への階段は多くのお年寄りたちで身動きできなかった。階段を上る力を振り絞ることもできないようだった。そこにただ座ったり横になったりしている人もいた。一階が逃げる住民でいっぱいになったとき、波が襲った。 当初、ドアは持ちこたえていた。やがて、水が隙間から注ぎ入り、部屋に流れ込んできた。屋上を求める混乱の中で、若い住民が強引に進み「急げ!」「どけ!」と叫び出した。動けない人たちを乗り越え、肘で押しのけた。 「信じられなかった」とサガさんは言った。「あの人たちはお年寄りを突き飛ばした。お年寄りは自力で逃げることができないのに」 サガさんは付け加えた。「人々は他人のことなどお構いなしだった」 やがて、ドアが破れて開くと、水がどっと流れ込んできた。たちまち腰の高さになった。サガさんはお年寄りの女性を見つけた。水の中に座り込んで、立ち上がる力や意志がないようだった。水は鼻の高さになっている。サガさんの話では、女性の背後に急いで回って、腋の下から彼女を掴んで階段へ引っぱり上げた。階段にいたもう一人が女性を掴んで持ち上げて、また別の人に渡した。人間の輪ができていた。こうしてお年寄りや数人の子供を屋上まで引き上げた。 「人々の醜い一面を見たが、良い一面も見た」と、サガさんは言った。「自分たちのことしか考えない人たちもいた。でも、他の人たちは立ち止まって救いの手を伸ばした」 サガさんの話では、一人の女性に乳児を手渡された。「せめて、この子だけは助けてください」。女性がそうすがったとき、水は胸元まで来ていた。サガさんは赤ちゃんを掴んで、階段を駆け上がった。まだ階段の下にいた人たちの多くは流された。 サガさんは建物の二階にいた約200人に加わった。母親が二階に駆け上がってきたので、その腕に赤ちゃんを返した。人々は窓から根こそぎにされた家々や波に押し流される車を見ていた。誰も話さなかった。泣きながら、一斉に「あああ!」とうめくだけだった。目の前では破壊が繰り広げられていた。サガさんは級友の一人を見つけた。彼の両親は何かを取りに家に引き返して波に襲われ、学校に戻ってくることはなかった。友人は床に座って、泣いていた。

フランス誌も絶賛

2011-03-22 09:34:23 | 新聞
COBSONLINEから転載
東北地方太平洋沖地震が起きたとき、フランスは朝の6時46分で、朝から一日中、ニュースは日本の地震の報道一色でした。
パリの日本人街と呼ばれるオペラ地区に行くと、朝10時ごろから次々とテレビやラジオ局、新聞記者が集まり、日本人を探してはインタビューをしたいと近づいてきます。

「あなたの家族は大丈夫ですか? 連絡はとれましたか?」
続々とやってくる記者たちの数に、祖国で起こった災害の大きさをあらためて実感します。
そんな中でも救いになるのが、日本人の振る舞いをたたえられたときです。

「なぜ日本人は冷静でいられるのですか?」
「どうしたら、こんなときでもほかの人を思いやれるのですか?」

フランス人の目には、みんなが一丸となって現実に向き合い、取り乱すことなく前進しようとしている日本人の振る舞いが「尊敬に値する」と映っているのです。


■自然を受け入れる大きな器を持つ日本人

日本人を取材したいとやってきたフランスの新聞「パリジャン」紙の記者、マリアンさんはこう言います。
「なによりも、日本人の冷静さに驚きました。フランス人は問題があればやたらと騒ぎます。もし、フランスで同様のことが起こったとき、受け入れるという姿勢に慣れていない私たちは、あなたたち日本人のように対応できるかどうかは疑問です」と語りました。

また、テレビ局の記者、マルティンさんは言います。

「食料不足が懸念され、スーパーに殺到する人たちの映像を見ても、みながきちんと列に並んで順番を待っている姿に驚きました。もしこれがフランスだったら、きっと押し合い、取り合いになるでしょう。
以前、取材で日本に行ったとき、交通量の激しい銀座4丁目の交差点で、一度もクラクションが鳴らずに人と車が行き交うのを見たときから、すごい国民性だと思っていました。でも、震災時にもパニックやヒステリーを起こさずに、きちんとルールを守れることは、あらためて尊敬いたします」

■子供でさえ取り乱さない冷静さ

フランスは一部の地域を除き、ほとんど地震が起きていません。周囲の人に話を聞いても、60代の人たちでさえ「一度も地震を経験したことがない」と答えます。

そのため、フランスでは地震に対する知識や備えがあまり浸透していません。親たちは、日本の子供たちの冷静な対応に驚いています。
「まだ小さな子供たちが、泣きわめきもせずに机の下に隠れたと聞いて驚きました。フランスで地震が起こったら、自分の子供はあんなふうに対応できないと思います」

日本の地震ニュースの影響で、学校で行われる避難訓練を紹介する番組も組まれています。

■身勝手な行動を慎む心

16日、放射能漏れを心配するフランス政府は、在日フランス大使館を通じて日本に滞在するフランス人は「直ちに帰国あるいは日本の南部に避難」するように勧告しました。そんな中、フランスのメディアが東京で働くサラリーマンに「どこかほかの県や国に避難しないのか」と聞いたインタビューで、
「会社をほったらかして、自分だけ一人逃げるなんて、ひきょうな気がします」
と言ったコメントが報道されて話題になりました。

会計士のマティルドは言います。
「私たちフランス人にとって、会社や仕事は日本人ほど重要なものではないのかもしれないけれど、日本人が自分の命をかけてまで仕事をしなくてはいけないという責任感のもと、働いていることに感銘を受けました。
普段から日本人は仕事に対してまじめだという認識はありますが、このような事態になって、その精神に偽りがないことを確認した気持ちです。自己の利益だけではなく、全体のつながりを大切にする心をわれわれフランス人も見習わないといけません」

不安定な生活を送りながらも、前に向かって冷静に一歩一歩進もうとする日本人。このような話を聞くたびに、自分が日本人であることを誇りに思います。


海外メディアの被災者評価

2011-03-19 14:07:21 | 新聞
あるメルマガから転載

http://www.investors.com/NewsAndAnalysis/Article/565958/201103141931/A-Saving-Grace.htm

 あるメルマガの作者が被災した日本についての外国での報道の中には、私たちをとても勇気づけてくれるものもかなり見受けられるとして、そのうちの一つを自分で和訳し紹介している。以下がその文章である。作者の希望により、この記事の発信元も示した。

 

大災害:巨大地震に加えて、恐ろしい津波、さらには原子炉のメルトダウンまでもが日本を襲った。これ以上に計り知れない災害もありうるかもしれないが、そんなものはまだ人類が経験していないものだ。それなのに、日本の人たちが見せる勇敢さと品格は、そんな凄さすら超越したものだ。

マグニチュード9.0の地震が日本の沿岸部を襲い、真っ黒い泥からなる、巨大な壁のような津波が日本の北東の海岸を何度も飲み込んだ。これを世界中が絶望的な気持ちで見ていた。

信じられない津波の映像には、巨大な船も貨物用のコンテナも家も電車も車も、まるでおもちゃのようにやすやすと振り回される様が映し出されていた。列車さえどこに行ったかわからなくなり、石油精製施設が炎上した。

さらにひどいことに、原子力発電所で爆発が起こった。日本の気の毒な被災者は、凍えるような寒さの中で、被災後ずっと、食料もなく、電気もなく、水もなく、ガソリンもないまま
に置かれている。

こうした大災害のまっただ中にありながら、日本人は希望を示しながら、これを乗り越えようとしている。

常識的に言えば、地震に備えている国が備えていない国よりもうまく対処できるはずだ。日本は単に地震に備えてきただけではなく、その点では世界最高水準の国である。だが、これほど凄まじい災害にあっては、こうした備えも役には立たなかった。

原発を巡る状況も悲惨だ。70年前、石油などのエネルギー源を確保するために、日本は戦争に打って出た。戦後に平和となった日本は原子力をエネルギー源として取り入れ、資源不足に終止符を打ったと思われた。

今やこの国は3つの原子炉での炉心溶融という事態に直面し、放射能汚染に曝されるかもしれないという恐怖のまっただ中にいる。

自然は日本の科学技術の優秀さをあざ笑っているかのようだ。

津波の中で浮いていた家にも事業所にも車にも、恐らく輝かしいハイテク装置が満載されていたのだろうが、これらは津波の泥に飲み込まれていった。

災害を扱った作品を作り出していった、日本の高名なアニメーション映画家たちにしても、今週になるまで自然がどこまでのことができるのか、想像しえなかったろう。そして、日本の優秀なカメラが世界のためにその映像を記録してくれた。

資源らしい資源がないにも関わらず、日本は世界第2位の経済大国になった。今回の自然災害のおかげで、日本は今なお資源の面では貧しいところだということを、残酷にも思い出すことになった。

今回の災害が教えてくれたまさにこの点が、日本人の持つ最も重要な様相を浮き彫りにしてくれた。日本人の持つ最も重要な様相は、彼らの頭脳が優秀だとか、彼らがお金を持っているということではない。その人格にこそあるのだ。

これ以上ない自然の猛威に対して、日本の人たちは一つの国民として力を合わせ、品位と勇敢さを備えていることを示した。被災しなかった者は救援の手を差し伸べている。被災者も暴力行為や略奪行為に手を出していない。

お店にある飲み物を無料で差し出す商店主。自己利益を優先しようと争うことはせず、我慢強く穏やかに列をなす市民たち。他に必要となる人たちのことも考えて、ガソリンの割当も分かち合っていた。そんな小さな親切が、この国には事欠かない。

このような悲劇の中で意味を持ちうるのはこうした互いを思いやる行動だけである。だからこそ、こうした行動は重要である。

無意味に大した理由もなく人を殺すことが行われているところが、この地上で最悪の場所である。アフリカ人、コロンビア人、メキシコ人に、絶望とはなにかと訊いてみればいい。日本は絶望の国ではない。

日本は想像しえないほど巨大な災害に対処しているのだろうが、人々は希望をなくしてしまったかのような行動を、なおとっていない。

そしてこれは、自然にもあざ笑えないものごとなのである。日本の示している行動は、この点でまさに賞賛に値するものだ。

米国防総省、福島原発事故調査に無人偵察機「グローバルホーク」を投入

2011-03-18 10:25:45 | 新聞
米国防総省は17日、福島原子力発電所の事故を調査するため無人偵察機「グローバルホーク」を投入するとともに、日本政府を支援するために専門家チームを派遣したことを明らかにした。

 国防総省のラパン副報道官は同機の投入は被害状況を調べるためであることを確認したが、詳細は述べなかった。米当局者は16日、日本政府や東京電力からだけの情報に頼ってはいられないことを示唆する発言をしていた。

 米原子力規制委員会(NRC)のジャッコ委員長は、委員会の情勢分析に基づいて原発から50マイル(80キロメートル)以内にいる米国人は避難するべきだとし、また、チュー・エネルギー長官は、福島原発の状況は1979年の米スリーマイル島原発事故より深刻だとの見解を示した。

 グローバルホークは昨年のハイチ地震の際にも調査のために投入されている。国防総省は同機から撮影した高解像度写真を緊急援助部隊支援のために公開するという異例の措置を取った。米空軍は最近、同機をグアム島に配備した。

 同省はまた、9人の専門家から成る「事後管理評価チーム」を派遣した。チームは間もなく日本に到着して、原発問題で日本政府と自衛隊の支援を開始する。

 同チームは地震・津波災害救援のために現在派遣されている米軍を増員すべきかどうかについても報告する。

 米軍による人道支援は続いており、7トン・トラック6台、ハンビー(高機動多目的装輪車両)11台、それに通信トラックなどから成る車両部隊が自衛隊に守られて、山形空港に作られた支援センターに向かっている。また、沖縄の基地からは食料や簡易ベッドなどを積んだKC―130J輸送機2機が厚木基地に向かった。