マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

音無川と王子街道(その6)

2016年01月22日 | 江戸の川・東京の川
 王子より下流の音無川(現在は全て暗渠)は殆ど歩いたと書いたが、まだ訪ねていない道があった。三ノ輪橋より下流の泪橋を通過する暗渠は歩いていたが、もうひとつの、日本堤に沿って山谷堀へと続く道はまだ歩いていなかった。一昨日の120日はその山谷堀を目指した。(江戸時代の地図は最下段に)
 一昨日、勤務を終えた後、通勤時の下車駅の都電「荒川七丁目」駅から、往きとは逆方向に4駅で終点三ノ輪橋到着。昨年1220日に到達した三ノ輪橋跡を出発点に散策を開始した。出発後暫くは明治通り沿に進むが、直ぐに明治通とは別れ土手通を行く。音無川沿いに日本堤が造られ、その道が土手通。お店名に「ドテ薬局」とか「ドテ理髪店」などと”ドテ”を入れているのを面白く感じながら進む。
 途中、吉原への入口の吉原大門の地点に“見返り柳”があった。旧吉原遊郭の名所の一つで遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳あたりで遊郭を振り返ったということから“見返り柳”の名があるとか。かつては山谷堀の土手にあったが、遊郭の整理に伴いこの地に移されたとも。数代を経た柳で、現在の柳に人の目を引くような勢いはなかった。(写真:右”見返り柳”の碑。下は現在の柳)



 千束通りを越えると土手通りの左手がかつての山谷堀で、今は山谷堀公園。山谷堀を暗渠にした際、そこを普通の道路にするのではなく、緑地帯として残していた。当時、堀には隅田川まで9個の橋が架けられたが、今は橋の名前が記された柱のみが残されていた。紙洗橋・地方橋・正法寺橋などである。緑地と書いたが瑞々しい雰囲気はなく薄暗く寂し気な散歩道だ。その一角に又しても正岡子規の句碑。「牡丹載せて今戸へ歸る小舟かな」とあった。(写真:子規の句碑)





  
    (山谷堀公園)            (堀に架かっていた紙洗橋)
 

 猪牙舟で大川からこの山谷堀に入り吉原へと通ったように、山谷堀に舟が行き来していた様子が窺われる。公園は途中から浅い水路が作られていたが、冬のこの寒い時期には水は流れてはいない。
 公園の端には看板に山谷堀の謂れが書かれていた。
 『・・・隅田川へと注ぐ約700メートルにおよぶ山谷堀は、北区の音無川を源とし、飛鳥山の北側、王子権現の下を経て通じていた。当時この堀は吉原への通路のひとつであった。・・・』と。(写真:水の流れることもありそうな水路)









 山谷堀の最下流が今戸橋。音無川は王子に源を発し今戸橋を最後の橋として大川(現隅田川)に注いでいた。水門もあったはずが、今戸橋から隅田川までは現在工事中で、残念ながらそこから先は進むことが出来ず、水門を直接見ることは出来なかった。
 待乳山聖天にお詣りし、高台から隅田川や東京スカイツリーを一望して帰路に着いた。(写真:公園の外に”今戸橋”)

 中山道板橋宿を起点とし王子を経て終点隅田川への、私の旅も一区切りついた。王子街道・音無川については、いずれ次回以降でまとめたい。


  (待乳山聖天からの眺め)
 
 以下の地図写真は、ソフト「江戸東京重ね地図」安政三年度実測復元地図より。
 
  (上から右への黄色い線が日本堤。幾つかの長方形が吉原)

 
     (中央下に今戸橋。山谷堀が大川に注ぐ)


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