マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

「東京歴史散歩」を終えて

2018年10月29日 | 東京散歩

 10月27日(土)の「東京歴史散歩」は無事終了した。晴天だった。
 前夜までの天気予報は雨。又もや雨かと些か気落ちしがら当日5時にスマホの天気予報を見ると、雨マークが朝8時からは☁に変わり、10時からはマーク。私がこのイベントを担当してから7年目を迎えていたが、快晴の記憶は一度もない。有り難くもない”雨男”とまで言われて来た。
 思えば2012年に退職者会の幹事となり、「歴史散歩」を担当・企画して7回目となっていた。過去を振り返ると
 2012年 「巻石通りから神田川」 参加者8名 
 2014年 「東京歴史散歩 野川」 参加者9名
 2015年 「やねせん 味な散歩」 参加者12名
 2016年 「殿様の散歩道を歩く」 参加者9名
 2017年 「上野のお山の知られざる旧跡散歩」 参加者12名
 2018年 「四谷界隈を歩く」 参加者10名
 2013年は雨で中止したのかも知れない。毎年の懇親会の場所とその雰囲気は鮮明に覚えているのだが・・・。
 今回の参加者の内訳は、一般参加2 幹事4 向丘4(私はこちらに分類)

 自己紹介を終え、9時45分頃新宿御苑新宿門をスタート。御苑外周部の、大木戸門までは玉川上水が暗渠となったところで、皆さんここを歩くのは初めてとのこと。歩きながらの感想は、「夏の暑い時でも涼しいだろうな」、「紅葉は綺麗だろうね」など。
 四谷三丁目からは寺町歩き。お岩稲荷・戒行寺(長谷川平蔵墓)・須賀神社・愛染院(塙保己一墓)と、寺町の雰囲気濃厚な地を巡った。鮫河に沿っての散策なので坂を上ったり下ったりで草臥れた方が出るほど。鮫河に架かっていた鮫河橋付近は貧民窟と称されたこともあったが、今ではその痕跡もない。「みなみもと公園」には警察官が見張りの為か立っていた。何を見張っているのですかなどの聞く御仁あり。「要人のお宅を見張っている」そうで、そう言えばそこから100mも直進すると迎賓館だ。(写真:須賀神社で。傘を持参する人あり)
 その脇の鮫河坂を上り切ると朝日橋。私が「御所トンネル」を説明したことは言うまでもない。こちら側の台地にも鉄砲坂などの坂があり、坂を上り切ると漸くにして西念寺。ここには服部半蔵の墓と岡崎信康の供養塔があり、悲しい物語が残されていた。半蔵の墓前でも真中さんに説明してもらった。
 岡崎信康は武田方に内通の疑いありとして信長から切腹を申し渡され、介錯を命じられたのが半蔵。その役目を果たせず、彼は後年出家し、信康の供養塔を建てたとか。
 「わかば」のたい焼き屋には多数の行列。2名の方は最後尾に並んだが本体8名は「源源飯店」へ直行。丸テーブルを囲み高層ビル群を望みながらビールで乾杯。皆さんの満足度は高かった様だ。
飲んで定食を食して一人3300円。(写真:源源飯店で)
 皆さん都心を歩くことは全くなかったそうで、この会が都心散歩に切っ掛けになればと思いつつ会を終えた



 今日の一葉:穴八幡宮の本殿(28日撮影)
  

  

 

 


 

 


御所トンネル

2018年10月26日 | 東京散歩

 「東京歴史散歩」での私の役割は場所の選定とルート案内で、自称”道先案内人”。見学先のお寺などでは、そこの謂れの書かれた掲示板まで案内し、説明文を読んで頂くだけで説明はしない。説明出来ないとも言える。今回はこの辺に詳しい真中さんが参加されるので、所々では彼がその役割を担ってくれることだろう。(写真:朝日橋からの眺め。右端が旧御所トンネル)

 ただ「御所トンネル」の掲示板はない。私が概略の説明をする積りで、自分なりに内容を纏めてみた。今日のブログはその話である。

 中央線や中央緩行線(以下総武線)で、新宿や代々木からお茶の水方面へ向かう場合、信濃町を過ぎ、四谷駅手前でトンネルに入る。「歴史散歩」の散策途上では、朝日橋上からその風景を眺めることとなる。その景色は、右側に一本のトンネルがあり、少し離れた左側に3本のトンネル。この4本のトンネルは、反対側のJR四谷駅からも、地下鉄丸の内線四谷駅ホームからも眺められる。こちらから眺めると右側の3本のコンクリートのトンネルと、少し離れて左側にレンガ造りの1本のトンネル。1本のトンネルは総武線の下りが走行していて、「旧御所トンネル」と呼ばれている。4本が2と2に分かれるのではなく1と3に分かれているのが不思議である。(朝日橋から見る新御所トンネルは3路線の構成)
 最初に完成したのは、1本の方で、今でいう旧御所トンネルだった。明治27(1894)年のことで、中央線の前身、甲武鉄道として新宿⇔牛込(現在の飯田橋)間が開通した際に開削された。複線で蒸気機関車が走ったらしい。長さは317mで、あまり広くない幅のトンネルで、上下線が通ったとは、なんとも不思議なのだが、上りと下りの2本の線が通ったらしい。軌道は1m少々で現在より狭いから可能だったと思う。(写真:こちらが旧御所トンネル。現在は1本の路線構成)
 東宮御所の一部の下を通過する。それ故「御所トンネル」と呼ばれた。民間の鉄道が、“恐れ多くも”御所の地下を通れるわけがない。風雲急を告げる世相の中、軍部のごり押しがあったと伝えられている。日清戦争の年にあたる。

 それから35年後、昭和4(1929)年、新たに3本のトンネルが完成し、中央線は複々線となった。二本は中央線の上り下りが走り、もう一本は、御所トンネルを通っていた上りがこちらに引っ越して来た(その為に3本のトンネルが必要だった)。御所トンネルと呼ばれていたトンネルは「旧御所トンネル」と呼ばれ、新たに出来た3本のトンネルは「新御所トンネル」と呼ばれる様になった。その様な名称が書かれた札がトンネルの入り口に貼られている。旧御所トンネルはレンガ造りで明治が感じられる。明治時代に建造されたトンネルが124年後の現在も使用されているのだ。(写真:こちらは丸の内線四谷駅ホームから撮影した新御所トンネル)
  
 ここで個人的な思い出を付け加えておきたい。御所トンネルについて調べているうちに思い出したことがあった。私は小学生のころから巨人ファンで、中学生になると後楽園球場に一人で観戦に出掛けるようになった。目黒から山手線外回りで代々木へ。そこで総武線に乗り換え水道橋へ。改札を抜け、多くの人波に揉まれるようにして球場まで行った。総武線に乗っていると途中で何故か一時外が見えなくなり、暗くなった。それが凄く残念で、何か不安にもなった記憶がある。今思えば電車が新御所トンネルを潜っていたのだ。もう60年以上も前の思い出である。

 今日の一葉:ご近所の医院玄関に咲くゼラニウム
 


「東京歴史散歩」で四谷へ実踏

2018年10月23日 | 東京散歩

 今年の、都高教退職者会主催「東京歴史散歩」は、週末の27日に”四谷界隈を歩く”を実施する。イベント担当の私は、6月頃から今年はどこにしようかと思案し始め、迷った末に、2度ほど散策したことのある四谷と決めた。上野勝さん著『江戸と東京の坂』に触発されて、坂を中心に四谷近辺を散策したのは6年前の3月26日のこと(2012/3/314/2のブログに)。面白さが凝縮された街だった。
 ただ、随分前のことで、歩いたルートを忘れかけていたので、4度ほど実踏に出掛け、20日が最後の実踏となった。





 今回のルートの概略を記すと、
 新宿御苑新宿門→玉川上水暗渠→大木戸門→須賀神社(三十三歌仙絵)→愛染院(塙保己一墓)→戒行寺→朝日橋(新御所トンネル)→西念寺(服部半蔵墓)→「わかば」(たい焼き)→懇親会(源源飯店)
となる。(写真:新宿門と大木戸門の間で)



 実踏で行った所・行ったこと
 ①玉川上水暗渠・・・新宿門から大木戸門の間の、新宿御苑外周部をかつては玉川上水が流れていたが今は暗渠。露天掘りの上水はここからは石樋で江戸市中へ給水され、飲料水等に利用された。現在はそれを記念して清流が流れている。大木戸門脇には記念碑が建てられている。
 ②塙保己一等の墓・・・幾つかの寺を巡るが、歴史上の人物の眠るお墓のある場所は知らなかった。その在処を実踏で知った。服部半蔵の墓を訪ねるとその隣に家康の長男岡崎信康の供養塔があった。塙保己一の墓に詣でたときにはお線香を購入しその場所をお聞きした。(写真:岡崎信康供養塔)
 ③地図を手に入れた・・・「新宿歴史博物館」と「鶴巻図書館」で”四谷”の地図を合計13部ほど頂いた。






 ④親睦会・・・2週間前の土曜日に出掛けたのが「源源飯店」。土曜日は客がまばらで、8階からの眺めが素晴らしく、速断でここと決め8名の予約をした。(写真:店主曰く・・・この様な風景が望めるときもあります)






 退職者会のニュースで「歴史散歩」を知った、元向丘同僚の真中さんから電話があり、「資料を用意しましょうか」とのこと。ご厚意を有難くお受けし、送られて来た資料5部を印刷し綴じ終えた。所々で彼に解説して貰う積りだ。
 あとは好天を祈るばかりだ。

 今日の二葉:晴天の21日、上は朝6時に撮影の富士。下はその1分後の富士。




再び、孫誕生

2018年10月20日 | 身辺雑記

 10月11日(木)、息子夫婦にとっての第2子誕生、姫だった。私達にとっても二人目の孫。出産予定を12日と思い込んでいたから、11日に急に「みてね」に送られて来た孫の写真に驚くと同時に、安心と嬉しさが同時にやって来た。2年前までは、孫ある身になろうとは想定していなかったし、その孫が二人になるとは想像を遥かに超えている。
 五体満足で生を受けた孫は体重3200gほどで、誕生時で比較すると、姉さんよりも大きいようだ。
初孫はまだ2歳と4ヶ月だが、弥生ちゃんがミルクを飲ませるのを手伝う写真を見る、既にお姉さんの雰囲気が漂う。2歳違いの姉妹。すくすくと仲良く育てと願う。
 母親も元気で、数日前に無事退院し、送られてくる映像は家族4人が揃った和やかな風景。遠くにいて直ぐには会いに行けないジジ・ババは今のところそれでも充分に満足。家族が4人に増える事に備え、8月末には引っ越ししていた。新居は2階建ての、180もある一軒家とのこと。
 孫も新居も早く見に行きたいと思いつつも、11月に入ってからお出でよとのことで、11月10日から帯広へ行く予定。当初は帯広のホテルに宿泊予定だったが、新しい家は広いから宿泊可能と言われ、宿泊+航空券はキャンセルし、新たに航空券を予約した。

 今日の一葉:知り合いのお宅の玄関先で。エンジェル・トランぺットか?
 


最後のクラス会

2018年10月17日 | 身辺雑記

 10月15日(月)は、目黒3中昭和32年度卒3年E組の最後のクラス会だった。最近は身体の調子が悪くなる級友が続出。クラス会参加者は激減し、10名を切っていた。この辺が潮時かと判断し、幹事で相談のうえ、今回を最後にクラス会を閉じることにした。



 その旨の往復葉書を出したが、それでも参加希望者は10名。実施直前には2名の方から、やはり体調悪しの連絡が入り、結局8名での開催となった。場所は吉池食堂の個室。
 このクラス会、石井君・馬場さんと私の3名が常任幹事だった。幹事持ち回りでも良かったのだが、そうするとその様な役が苦手の方の処でクラス会が中断される、とはよく聞く話。そうはならない常任幹事方式で良かったかなと思っている。(上と同じ様な写真だが・・・)

 中学卒業後初めてのクラス会は母校で。校庭で撮影した写真を今でも保存しているのは馬場さん。クラス会に持参され、それを眺めて皆懐かしがった。その第1回クラス会から数えて16回目のクラス会だった。
 第12回のクラス会の案内文がパソコンに保存されていて、その会は2008年11月に「東京ガス青山クラブ」とあったので、今回が16回目のクラス会と分かった。
 開催場所は、最初の頃は目黒駅が中心で上海料理店「香港園」などはまだ営業している。中目黒の「すし文」もあった。東京ガスのクラブでは2回、最近は目黒駅から下る権之助途中の蕎麦「やまきた」で2回。
 ミニクラス会と称して何回も旅行に出掛けた。京都・大阪・勝浦・沢渡温泉などがあった。我が別荘でやったこともあった。それらを加えれば20回以上になる。その全てに参加した皆勤者がいるかも知れないと思いを巡らせた。常任幹事だった私は当然のことで、ひょっとして馬場さんも皆勤かと思い、会の一興に「皆勤賞」の賞状を用意しておいた。
 
今回は初めての正午開催。福岡からは遠路はるばる長(おさ)さん、大阪からは吉田さんが参加。必ず火曜日には避けられない用事のある吉田さんは、月曜のうちに帰宅せねばならなかった。その辺の事情も考慮したのだが、平日の正午開催で不都合な方は誰もいなかった。2時間半の時間を惜しむかのように皆よく喋った。クラス会にありがちな自慢話をとうとうと語る御仁は誰もいない。和気藹藹がこのクラスの最大の特徴で、であるから長続きしたのだと思う。

 会半ば、一興を実行に移した。「このクラス会に皆勤者はいますか」と聞けば、やはり馬場さんの手が挙がった。そこで右賞状の授与。今は亡き、担任だった大谷先生名の賞状を、僭越ながら私からお渡しした。他にも可能性のある𠮷原さんと宮本さんがいたので書状はその二人分も用意しておいたが、皆勤ではないらしく、その分は座ったままで手渡しでお渡しした。
 会を終え、駒師北田君と東京ガスの大野君は帰っていった。6名で風月堂へ。今後は「仲良し会」を毎年やりましょうとなって会を終えた。