マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

隅田川七福神を巡る

2022年01月28日 | 東京散歩

 新春の1月5日(水)、ラジオ体操仲間の中村さんに誘われて、隅田川七福神を巡ってきた。参加する前には何も調べていなかったので、どこが出発点でどこをどう回るかも知らなかった。
 駒込駅→(山手線)→日暮里駅→(常磐線)→北千住駅→(東武スカイツリーライン)→堀切駅 と電車を乗り継いで下車した駅は堀切駅。初めて下車する駅で、実にローカルな雰囲気が良い。



 下車して直ぐにそこが荒川土手付近だと分かった。ただ跨線橋から見えた細い川は私の知らない川だった。帰宅後調べると旧綾瀬川。かつては隅田川に注いでいた綾瀬川は荒川放水路の切削に伴い、分断され、残されたのが旧綾瀬川。七福神へ向かう前に面白い風景が見られたのだった。



 さて七福神は、多聞寺→白髭神社→向島百花園→長命寺→弘福寺→三囲神社と回った。七福神の多くは隅田川と並行して走る墨堤通り沿いにあり、隅田川上流から下流へ向かっての散策だった。以下に一口メモを添える。

 ①多聞寺(毘沙門天)・・・多聞寺はその昔、墨田堤の外側、水神森近くにあったが、四百年ほど前、徳川氏が江戸に移った直後、今の場所に移された。本尊の毘沙門天は、弘法大師の作と伝えられる。またの名を多聞天とも云うとのこと。なるほどそれで多聞寺かと納得。




 榎本武揚像・・・白髭神社に向かう途中に武揚の立像が建てられていた。佐々木譲著『武揚伝』を読んで間もなかったのでその前に立ちたかったが、道路反対側を進んでいたので写真撮影に留めた。
 彼は、晩年、向島の風光に魅かれ、向島須崎村(現・向島五丁目)で暮らしたが、その中でも向島百花園は特に気に入っていた。墨堤の桜の歴史を残すための「墨堤植桜碑」に揮毫するなど、向島の地に大きく貢献し、馬で木母寺(現・梅若公園)あたりまで散歩したことにちなんで、公園に銅像が建っているそうな。

 ②白髭神社(寿老神)・・・七福神は多聞寺とここ白髭神社の間の距離が一番長い。およそ1100年前、近江国の白髭大明神の分霊をここに祀ったのが起源とされる。隅田川七福神誕生の際、最後までこの地に寿老人が見つからず、白髭大明神の名前から白い髭を生やした神様を連想させるとし白羽の矢が立った。ここでは「寿老神」と呼ばれているそうな。境内には下の写真の、立派な神輿が置かれていた。



 ③向島百花園(福禄寿)・・・何故百花園の中に七福神の一つがあるか不思議だったが、説明文を読んでその謎が解けた。
 文化元年(1804)向島百花園が開園してからここに集まる文人墨客たちが、園主佐原鞠塢(きくう)が福禄寿を祭っていることを知り、隅田川東岸にも七福神が揃わないものかと考え、七福神にそれぞれ縁故を持つ神社仏閣を探し出したという故事があるそうな。この福禄寿が隅田川七福神発祥の出発点だった。


 ④長命寺(弁財天)・・・三代将軍家光が鷹狩の途中で腹痛をおこしたときこの寺で休息。境内の井戸水で薬を飲むと快癒し、喜んだ家光が井戸に「長命水」の名を与えたことが長命寺の由来とか。家光は多くの所に鷹狩に行ったなと思う。ここの弁財天は琵琶湖の弁財天の分身で通称「老女弁天」と呼ばれているそうな。そのお姿は拝見しなかった。それよりも「長命寺の桜もち」が気にかかり「山本や」へと急いでしまった。
 

 ⑤弘福寺(布袋様)・・・実に立派な山門と風格のある本堂だった。唐風建築様式とか。このお寺さんが今回の七福神の巡りのなかで一番印象に残った。







 ⑥三囲神社(恵比寿神・大国神)・・・この神社を訪れたのは4・5年前のことだったろうか。石像のライオンの印象が強い。ここに七福神が祀られていることは知らなかった。しかし何故2つも祀られているのか?日本橋の三越との縁が深く、そこより恵比寿神と大国神の二つを贈られたかららしい。 




 



ブースターワクチン接種等など

2022年01月21日 | 医療

 昨年の12月から今年の1月にかけて、新型コロナワクチン接種後の抗体量検査とPCR検査の2つの検査を受け、明日がブースターワクチン接種となった。
 まず受けたのが抗体量検査。11月段階では残存量の大小に応じて3回目のワクチン接種をするか否かを判断しようと考えていた。しかし、オミクロン株に対しては今までのワクチン2回接種の有効性の確率が落ちてきていると報じられ、3回目のワクチン接種は受けようと考えを変えた。それでは抗体量検査は不要とも思えたが、こんな経験は今後無いだろうから(?)一度検査を受けて見ようと、かかりつけの医院で検査を受けた。
 結果は426AU/ml で、ドクター曰く「やはりかなり落ちていますね」とのこと。6ヶ月後の標準値を知りたかったが、「一概には言えません」との事。
 1月には無料PCR検査を受けた。自覚症状など全く無いがオミクロン株に感染している可能性はゼロではなかろう。検査が無料ならば受けて見ようと考え、ご近所の「ウエルシア薬局」で検査を受けた。検査官が来て鼻などから検体を採取するのではなく、薬局から渡された容器にその場で自分の唾液を入れる方法だった(2021/5/28のブログに書いた方法と同じ)。3日後にはスマホに検査結果が届き“陰性”との事。予めそうだろうと予測していたが、まずは一安心。
 さて3回目のワクチン接種。文京区の当初予定では、2回目接種後8ヶ月経過した者が対象で、接種予定日は2月20日との事前指定の通知が来ていた。しかし、方針転換が図られ7か月経過後の前倒し接種が可能となった。14日からはコールセンターの予約サイトでも予約変更可能とのことだったので、14日朝9時過ぎにネット予約した。第1回目の予約時には大変に苦労したが、今回は簡単に予約が出来、明日の22日にシビック25階でファイザー社のワクチン接種を受けることが決まった。
 オミクロン株への感染がピークを増す以前に3回目のワクチン接種を受けていることが望ましいだろう。接種率が国民全体で50%越えている国が多々あるなかで、日本はまだ1%台(世界101ヵ国中94位。OECDの中では最下位)。この点でも日本政府の対応は後手後手に回っている。


玉川上水を歩く(その6)

2022年01月14日 | 江戸の川・東京の川

 12月20日(月)に第3回目となる玉川上水散策をしてきた。今回は小金井堤より上流の多摩都市モノレール「玉川上水駅」までを綴る。
 ⑪八左衛門橋
 この橋の説明文には玉川上水に輸送船が運航されたと記されていた。
 「小平市喜平町(旧小川新田)の旧家で、組頭をつとめた滝島八左衛門が架けたので、この名がつけられました。滝島家は、明治初年(3年~5年)に玉川上水に通船されたとき、小平の船持5軒のうちの1軒で、物資の輸送に当たるとともに、「八左衛門橋」のたもとに茶店を設け、上水舟行の船頭たちの休息場所を提供していました。架設年度は不明ですが、上水通船の開始の時期に近いころと言われています。」とあった。


 ⑫西武国分寺線
 私はこの辺りの鉄道に不案内である。帰宅後調べると、この線は西武線東村山駅と国分寺駅を結ぶ、5駅路線距離7.8kmという、非常に短い路線で、上水は鷹の台駅付近で路線と交差していた。開業は1894年とあるから、開通後既に100年以上経過していた(西武線最も歴史の古い路線)。そういえば中央線国分寺駅で黄色この鉄道を何度も見たことはあった。








 ⑬新堀用水
 小平橋を過ぎた辺りから、進行方向右手に玉川上水に平行する様に流れる細い水路に気が付いた。私達は上水と細い水路の間を進んだ。その水路は多分玉川上水の分流と思われたが、立川通りに架かる小川橋近辺まで続いていた。5kmほど長さだろうか。分水点は見つけられなかったが、この流れは「新堀上水」と知った。白鷺が泳ぐほどの清流であった。







 ⑭清流の復活
 実は私達が見て来た上水は羽村から流れて来た源水流ではない。昭和年代に上水は通水を停止し、多分流れに沿った付近は荒れていたことだろう。そこで清流を復活させようとの試みがなされていた。案内版には
 「ここの水は昭島市にある「多摩川上流水再生センター」(最下段に地図を載せた)からの再生水です。これによって水の無くなった「玉川上水」に水がよみがえりました。わが国の清流復活の先駆けとして全国の「蘇る水100選」に選ばれました。」と書かれていた。
 散歩道から上水が流れる地点まで下りることが出来て、ここで初めて「玉川上水」の水に直に触ることが出来た。


 ⑮多摩都市モノレール
 このモノレールに一度は乗ってみたかった。今回旅の終点に「玉川上水駅」を選んで良かった。中央高速道路で蓼科方面へ向かうときは、何度もこの下を通過したが、開業が1998年とのことで、既に23年が経過していた。ここから「立川北駅」まで乗車。遥か遠く富士山も眺められた。




 ⑯付け足し・・・陣屋橋 
 前回書き忘れてしまった橋があった。小金井公園手前にあった「陣屋橋」がそれで、橋の由来に玉川上水が新田開発にも活用されたと書かれていた。
 玉川上水完成後武蔵野の原野の開発が急速に進み、享保年間には82か村の新田村が誕生した。この新田開発には玉川上水からの分水が大きな役割を果たしたと書かれている。
 南武蔵野の開発を推進した幕府の陣屋が置かれていたことから上水に架かる橋は「陣屋橋」と呼ばれたとも。

 この日は休息するようなベンチに巡り合えずほとんど歩きっぱなしでへとへとに疲れた。帰りは立川駅の一角にあるお寿司やさんで昼食。何年ぶりかで見る立川駅付近はすっかり様変わりしていた。




 


玉川上水を歩く(その5)

2022年01月07日 | 江戸の川・東京の川

  12月20日(月)、3回目となる玉川上水沿い散策をしてきた。9時20分三鷹駅をスタートし、14時丁度多摩都市モノレール「玉川上水駅」着。4時間20分間の散策で、距離にして14.5km、歩数にして約3万歩。(写真は玉川上水と千川上水の分水地点に建てられた碑)









 この日は快晴で、中央線高架区間からは富士山がはっきりと見えた。朝の気温は低かったが、歩くにつれてやや汗ばんでくるような陽気に。上流に向かうにつれて上水は地上よりかなり低きを流れるようになり、武蔵野の雰囲気は増してきた。江戸時代開削の玉川上水を歩くと、明治時代や大正時代の遺跡や歴史に触れる事になるのが面白かった。今回は小金井橋までの、印象に残った8カ所を綴る。(写真:水澄むところには鯉も泳ぐ)






 ①境浄水場
 三鷹駅から上流の玉川上水は三鷹市と武蔵野市の市境を流れている。歩くこと800m先の、上水右手に境浄水場があった。広大な敷地を有する浄水所。1924年の通水で、原水は村山貯水池と山口貯水池から引き入れている。緩速濾過方式とかいう方式の浄水場で日本最大規模だそうな。千代田区・渋谷区・港区・目黒区の一部に給水している。玉川上水に平行する様に造られ、かつては上水の水を引水しているかと思ったが、上水との関係は分からなかった。

 ②桜橋
 説明版には
 「明治22年に甲武鉄道(現JR中央線)が開通して境(現武蔵境)駅が出来ると、駅前から田無に至る道が開かれ、玉川上水に架けられたのが桜橋である。明治31年に国木田独歩が書いた『武蔵野』にこの橋は登場する。・・・」と書かれている。
 現在、JR武蔵境駅と西武池袋線田無駅を結ぶ道路は「独歩道」と呼ばれている。


 ③国木田独歩の木碑
 桜橋の傍らに「国木田独歩」の碑が立っていた。代表作『武蔵野』の6章に桜橋が登場する。
 「・・・自分は或友と市中の寓居を出て三崎町の停車場から境まで乗り、此処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある。それを渡ると一軒の掛茶屋がある、・・・」とあり、
 更には「・・・茶屋を出て、自分等は、そろそろ小金井の堤を、水上の方へとのぼり始めた。あゝ其日がどんなに楽しかったろう。成程小金井は桜の名所、・・・」と続く。
 独歩にとってこの散策が実に楽しかったのだ。



 
 ④千川上水との分水点
 かつて、巣鴨を起点として千川上水を遡り、玉川上水の分水点まで歩いたことがあったからここは見覚えのある景色だった。ただその時は分水の様子を見た記憶がない。今回はその風景をばっちり撮影したのが右と下の写真。(右の写真は玉川上水。下の写真が千川上水への流水部分)。  
 



 五日市街道
 桜橋を更に進むと上水は五日市街道とT字路交差し、その後はこの街道に沿う様に一橋大学小平キャンパスまで続く。
 


 





 ⑥小金井公園手前
 この付近の散歩道と上水。
 前回見られた紅葉はあらかた散っていて、落ち葉の上を歩くことが多かった。
 
 




 ⑦小金井公園
 ここは小金井公園の入口のひとつ。まだ訪れたことのない都立公園。面積を知って驚いた。何と80.2ha(=802000平方メートル)で、東京ドーム17倍の広さ。(写真:公園入口はこの奥)
 







 

 ⑧小金井桜
 上水沿いに立てられた案内版には以下の様に書かれていた。
 小金井堤の桜は、元文二(1717)年頃、八代将軍徳川吉宗の時代、幕府の命により川崎平右衛門が吉野などの桜の名所から種苗を取り寄せ、小金井橋を中心に玉川上水両岸の六キロメートルにわたり植えたもの。
 戦後、小金井桜は年々衰えていったが、平成十五年八月玉川上水が史跡に指定されたことを契機に山桜の苗が補植され、名勝小金井の桜並木の再生・復活が図られている、と。
 小金井市の前に“花”が付けられ花小金井市となった理由が分かる気がしている。思えば、飛鳥山の桜も隅田川沿いの桜も吉宗の時代に植えられたのだった。
(写真は案内板から)