マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

森鴎外著『ぢいさんばあさん』を読み、歌舞伎を観る(その2)

2021年12月31日 | 映画・美術・芝居・落語

 12月22日(水)、歌舞伎座で「十二月大歌舞伎」第二部を観て来た。14時30分開演の16時36分終演という短時間のプログラム構成で、コロナの影響か、今月同様、新春1月も3部での上演予定とのこと
 最後に歌舞伎座を訪れたのは3年以上前だった。コロナ禍もあるが、自前でチケットを用意しなければならなくなってからは足が遠のいていた。今回は観たい作品が上演されると知って気合が入り、珍しくチケットを購入した。妻がここの会員となっているので、その線でネット予約。座席は1階のやや後方ながら中央の観やすい席だった。
 暫く振りに訪れた歌舞伎座の座席を見て驚いた。概ね4割ほどの座席にロープが張られ、但し書きは何も無かったが、当然そこは着席禁止というコロナ対策で、二人で、又は一人で観劇するように座席が作られていた。

 二部の出し物は前半が『男女(めおと)道成寺』で後半が『ぢいさんばあさん』。『道成寺』で白拍子花子を演じ、『ぢいさんばあさん』ではぢいさん・伊織役の中村勘九郎が二部の中心を担っていた。
 『ぢいさんばあさん』は作・演出が宇野信夫で3幕構成。
 序幕は江戸番町美濃部伊織の屋敷
 二幕は京都鴨川口に近い料亭
 大詰も序幕と同じ美濃部伊織の屋敷
 
さて観る前に読んだ『ぢいさんばあさん』がどの様に上演されるかに非常に興味があった。原作と演出は細かい点で幾つかの相違はあったが、大きな筋立はほぼ同じ。原作はぢいさんとばあさんが仲良く暮らすに至った、波乱万丈な経過が物語られていたが、舞台では二人が再会する場面が最大の見せ場になっていた。再会までに37年という長い年月が経っていたことを、序幕と大詰の場面の対比で見事に表現していた。
 序幕 夫婦となった伊織(勘九郎)とるん(尾上菊之助)には正月に子供が生まれ、幸せに暮らしていた矢先、伊織は京都へ出立せねばならなくなってしまった。来年は植えて間もない桜が咲くのを一緒に見ようと約束する二人。
 二幕 ここで伊織は下嶋甚右衛門(坂東彦三郎)を殺めてしまう。
 大詰 離れ離れになってから37年経ったた今日、罪を許され再会の日に約束より早く着いてしまった伊織は見事に咲いた桜を感慨深く眺めていた。そこへ駕籠でやってきたるんは大きく様変わりしてしまった伊織を我が夫とは分からない。しかし昔から鼻を抑える癖のあった夫が今又鼻を抑えている動作を見て漸く夫と気付き、駆け寄って肩を抱き合うだった。







 私は
泣けてくるのではなく、ほのぼのとしてきた。二人の姿の大きな変わりようと桜の花の咲き様の差で37年という長い歳月の経過が語られていた。
 この舞台、何回も歌舞伎座で演じられ、2010年には仁左衛門の伊織と玉三郎のるんで上演されていた。残念ながら私は観ていなかった。
 又、先日義父中村吉右衛門が亡くなられた際のインタビューで号泣していた菊之助が懸命に努める舞台でもあった。
 今年はこれで。皆さま、良いお年をお迎えください。 


森鴎外著『ぢいさんばあさん』を読み、歌舞伎を観る(その1)

2021年12月24日 | 闘い

 確か8月の毎日新聞に載ったと思うが、作家・中島京子が副題を“意志的な女性の幸福な晩年”として、森鴎外の作品『ぢいさんばあさん』を紹介していた。副題が魅力的であったのみならず、作品名に漢字の入らない鴎外作品があることを初めて知って、『ぢいさんばあさん』を読んでみた。晩年を仲良く暮らした夫婦の物語で、読後感が爽やかで心地よかった。
 11月に入って、歌舞伎座の公演でこの作品が上演されることを知り、是非見物に行こうと思い、ネット予約をし、12月22日(水)に十二月大歌舞伎公演第二部を観劇してきた。
 歌舞伎座の舞台については次回にして、著作の方は高校の国語教材にも採用されていたので、内容を知っている方も多いかと思うが、今回は敢えて作品内容ついて綴ることとする。

 時は文化6(1809)年、麻布龍土町にある三河国奥殿の領主松平乗羨内の、修復された空き家に髪が真白な、姿が立派な爺さんが住み始めた。二三日立つと、そこへ婆さんが一人来て同居した。爺さんに負けず品格が好い。この翁媼二人の仲の好いことは無類で、あの二人は兄妹だろうか、夫婦だろうかと近所の噂になっていった。
 二人の噂をするものもなくなったころ、将軍家斉の命が伝えられた。「永年遠国に罷在候夫の為、貞節を尽候趣聞召され、厚き思召を以て褒美として銀十枚下し置かる」という口上であった。これがために翁媼二人は一時江戸で名高くなった。爺さんは美濃部伊織と云い、婆さんは伊織の妻るんと云った。
 (ここまで読んできて上手い導入だなと思う。どうして二人は日を違えて入居し、夫は遠国に在り、更に何故将軍から金十両など頂けたのかと、ご近所の人のみならず、読者の私も不思議に思うのである。その謎解きが後半部分である)

 長年女中奉公に上がっていたるんはその為婚期が遅れたが、人の紹介で会った、美形の伊織に惚れて嫁となり、幸せな生活が続いていた。ただ伊織にはひとつ癇癪持ちという欠点があった。京都在任中その欠点ゆえに人を殺めてしまった。
 判決によって知行地は召放され、伊織は有馬家へ、永の御預となった。残された妻るんは祖母と病の息子をみとった後、筑前国福岡の領主黒田家の女中として31年間勤め、四代の奥方に仕え、表使格にまで進んだ
 その後伊織は許されて江戸に帰ることになった。それを聞いたるんは喜んで安房から江戸え来て、二人はなんと37年ぶりに再会したのであった。るんが長き年を貞節に過ごしたことに褒美が与えられたのであった。

 読み終えて物語の起承転結を知り、再度物語の前半を読むと、改めて二人の幸福な老後にほのぼのとする。この物語は実際に起こったことをベースにして創作されたとのこと。るんはどんな思いで31年間を働き、過ごしたかは書かれていない。読者の想像に委ねられている。私は、るんは夫の帰りをただひたすら待つだけでなく、働くことが面白く生き甲斐さえ感じていたのだろうと想像している。


「東京水辺ライン」で両国から小豆沢へ

2021年12月17日 | 江戸の川・東京の川

 12月12日(日)、「東京水辺ライン」の水上バスに乗船し両国リバーセンターから小豆沢までの船旅を楽しんできた。
 「源氏の会」はこの11月に再開した。この間1年以上ものブランク期間があった。妻は、1度だけ読み合わせた『和泉式部日記』を最初から再度語るよりも、新たな題材に変更しようと考え、『おくのほそ道』を選び、既に2回ほど会を開いて来た。

 “弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かにみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゅと云う所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて・・・” とあるように、芭蕉と曾良は深川から千住までは舟を利用し、千住から歩みを始めたのだった。
 「源氏の会」のメンバーもその船旅を体験しようと、私が下調べを始め、「東京水辺ライン」があることを思い出した。この「東京水辺ライン」の主な行先は両国から隅田川を下り、葛西臨海公園や浜離宮庭園などへ向かうのが中心で、隅田川を遡る本数は少なかった。(写真:この船“こすもす”に乗船)
 コロナ禍故か、現在千住に停まる便はなくなっていた。それでも不定期ながら月に1便の「特別ゆらぶら便」があり、両国リバーセンターを出発点にして、小豆沢まで至り、そこから引き返し、岩淵水門から荒川に入り、東京湾に至る便だった。千住は止まらないものの傍を通過するので、私はこれに試乗船することにした。

 丁度1ヶ月前に予約して、12日に乗船してきた。この日は元同僚の菅原さんと大江戸線両国駅で待ち合わせ、8時50分にリバーセンターをスタート。天気予報通り比較的暖かい日だったので、甲板に出て川沿いの景色を眺めた。

 以下にその景色の写真と一口メモ。
①両国リバーセンター
 本船のスタート地点は両国国技館の直ぐ傍にあり、高速道路「向島線」の真下。7年前にも「東京水辺ライン」でここから浜離宮へ行ったことがあったが、その時とは様子が違う。受付は新築ビルの中の2階に移動していた。乗船者は全部で約50名ほど。




②厩橋
 乗船して、直ぐデッキに移動した。蔵前橋を過ぎて目に入って来たのが厩橋。橋名は西岸にあった「御厩河岸(蔵前の米蔵の荷駄馬用の厩)」にちなむとか。馴染み深い春日通りがここを通っている。

 

 



③乗船場「浅草二天門」
 右手に東京スカイツリーを見ながら進むと、最初の乗船場が「墨田区役所前」で、次いで「浅草二天門」へ。どちらの乗船場でも、乗船者や下船者がいなくても接岸していた。浅草寺東側に建てられている二天門から延びる東参道の突き当りが乗船場。


 


④白髭橋遠望
 かって、柳沢吉保の孫信鴻が書き綴った『宴遊日記』に触発されて、六義園からこの白髭橋まで歩いたことがあり、橋の中ほどで引き返したが懐かしい橋。明治通りはここを通っている。

 




⑤こすもす
船内
 どの橋だったか確かな記憶はないが、デッキにいると低い橋桁に頭をぶつける可能性がありますからと、甲板から船室へ移動を告げられた。現在は船室での飲酒は禁止だったが食事は“黙食”なら可とのこと。


 

⑥「千住乗船場」
 ここは千住汐入大橋付近。現在船の発着場にはなっていないが、少し前の地図では水上バスの発着場となっている。コロナ禍終われば再開されるだろうと期待したい。
 壁には旅立ちの地として「千じゅと云所にて、船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがれて、幻のちまたに離別の泪をヽぐ」と書かれている。万一、私が“おくのほそ道”行などを始めるならば、この地点付近から歩き始めるだろう。

⑦荒川区立5中 
 菅原さんが突然「あの建物荒川区立第五中学て書いてあるよ」と言った。数年前、私がボランティア教員として勤めた中学だ。慌ててシャッターを切った。勤務していた頃より、建物は綺麗に見えたのが不思議。こちらの先生とは今もライングループを形成しメール交換をしている。




⑧尾竹橋
 以前はこの様な形ではなかった。リホーム進行中なのだろうか?

 

 



 

⑨あらかわ遊園地
 ゴンドラは動いていなかった。確か現在改築中のはず。ゴンドラに乗ったことはないが、数回ここを訪れたことがあった。福寿会々長小林さんがお孫さんを連れて度々ここへ遊びにいっていた。

 

 



⑩岩淵水門
 何度も見た青水門。小豆沢を折り返した船はこの門を潜り荒川に出て東京湾へと下る。次回は赤門も見てみたい。




⑪新河岸川
 水門を過ぎ、こちらの川に入ってくると、隅田川と比較して流路の幅は狭くなる。川越藩主松平信綱が改修工事を実施し、江戸と川越を結ぶ舟運ルートが完成した。その運航が復活されればと思う。

 

⑫小豆沢発着所
 この日はここで下船した。10時40分着で約2時間の乗船の運賃は1,850円。下船者は私達を含め僅か3名。20名ほどの乗船者があったが、葛西臨海公園やお台場海浜公園へ遊びに行くのだろう。


 ここから三田線本蓮沼駅に至り、駅付近「うしのすけ」でランチを食し帰途についた。
 帰宅後調べたことだが、深川から千住までで、芭蕉が目にしただろう橋は僅か2本で、
両国橋(万治三年の1660年架橋)と新大橋(元禄六年の1693年架橋)と思われる。

 

 

 

 

 






玉川上水を歩く(その4)

2021年12月10日 | 江戸の川・東京の川

 今日のブログは2度目に玉川上水を歩いた11月24日(水)の後半部分を綴る。     
 久我山1丁目からの行程をやや詳しく記すと、
 久我山1丁目(高速道路との分岐点)→岩崎橋→牟礼橋→宮下橋→井の頭橋→明星学園前→井の頭公園→萬助橋→太宰治写真→むらさき橋→風の散歩道→三鷹駅

 そこまで頭上を覆うかのようだった中央高速道路とは久我山1丁目で“さよなら”。上水が右北西に向かうに反し、高速道路はここから大きく左にカーブし一時南下する。両者の接点を探したがなかなか発見出来なかったが、漸く草藪のなかに右写真の如き箇所を発見。この地点から下流は暗渠となるのだった。





 ここから先の上流は小川沿いの心地よい、晩秋の散策となった。所々には紅葉も残っていたが、主役は橋となる。開渠に架かる橋は水を跨ぐという本来役割を今も担っていて、橋の名に書かれた掲示板を見ながら次に現れる橋を目指した。




 

 岩崎橋を過ぎ、上水が人見街道と交差する地点に架かる橋が牟礼橋。弥次喜多道中はいつしか23区を過ぎ三鷹市牟礼に入っていた。この辺の地形は進行方向右肩下がりで神田川は右手を流れている。地図を見ると、上水と神田川との距離が最短で300mほどに接近している。玉川上水は尾根筋を通り、神田川は谷筋を流れているのだ。上水側から神田川へと通じる自動車道路が下り坂なのがよく分かる。(写真:牟礼橋)



 


 法政大高・中校や明星学園校などを過ぎると井の頭公園で、ここで一休みした。水を補給しお菓で糖分補給。親子で遊ぶ景色があちこちで見られた。400mのトラックでジョギングしている姿も。武蔵野を味わえる素晴らしい公園だ。井の頭池や「三鷹の森ジブリ美術館」に回る時間的余裕はなかったが、再度訪れたいと思いながらここをあとにした。








 「風の散歩道」沿いのビルの壁に太宰の作品『乞食学生』の一節が書かれ、川岸で憩う彼の写真が添えられていた。
 「四月なかば ひるごろの事である。頭を挙げてみると玉川上水は深くゆるゆると流れ、両岸の桜は、もう葉桜になっていて、真青に茂り合い青い枝葉が両側から覆い、若葉のトンネルのようである」とある。
 写真の下には次の一文も
 「1948年(昭和23年)6月、太宰治は近くの玉川上水で、自らその39年の生涯を終えた」

  三鷹駅到着13時半。駅付近のお寿司屋「三崎丸」でランチ。生ビールで乾杯した。


玉川上水を歩く(その3)

2021年12月03日 | 江戸の川・東京の川

 11月24日(水)、快晴の下、京王線笹塚駅から中央線三鷹駅までの玉川上水路を歩いて来た。歩数約22,000歩。最近再会した元同僚・菅原さんに同行のお誘いすると、是非ご一緒にということで、10時に笹塚駅集合となり、“弥次喜多”道中は次の様に辿った。
 笹塚駅→玉川上水緑道→代田橋駅→和泉給水所→明治大学和泉キャンパス→玉川上水第二・第三公園→上北沢駅入口→(中央自動車道下)→久我山1丁目→井の頭公園→三鷹駅

 久我山1丁目から先は次回に。
 玉川上水の水路は真っすぐに造られているという先入観があったがとんでもない。水路が曲がりくねっつている箇所があることを笹塚駅付近で実感することとになった。右の図は安政時代の地図で、上水が曲がりくねっているのが一目で分かる。水路の勾配を出来るだけ緩やかにする目的からこの様になったのだろう。この地図から三田上水との分流点もよく分かる。

 今回のコース、久我山1丁目までは高速道路付近か真下の暗渠部分を進み、久我山1丁目で漸く高速道路とは別れ、その先の上流が開渠の解放的な散策となった。
 暗渠部分の大部分は緑道や公園となっていて、ブランコや滑り台が設置されていて幼稚園児や保育園児たちが嬉々として遊んでいた。暗渠が有効活用されていることを目の当りにしたのだった。
 久我山1丁目で中央高速道路と別れては先は開渠で、そこまでは殆どが暗渠
。その暗渠が代田橋付近でほんの数十メートルだけ開渠となり、代田橋駅ホームの下を微かな水が流れる風景はやや深山幽谷の面影が残り何故か印象深かった。24日に撮影した写真は満足のいくものではなく、28日(日)に再度出かけた。(写真:代田橋付近の玉川上水路。上に架かるのは京王線代田橋ホーム。写真下は駅手前の「ゆずり橋」) 




 歩く前から一番観察したかったのが「和泉給水所」(現在名は和泉水圧調整所)だ。現在は大きなタンクが造られていて、かつての玉川上水は真下を流れていたが、このタンクの場所には江戸時代には和田堀水衛所があった。明治になって淀橋浄水場ができると、ここから玉川上水の水を直接浄水場に送る水路が造られた。すなわち、明治31(1898)年にここから淀橋浄水場まで、約4キロメートルの「新水路」が築造されたのだ。

 
 笹塚駅手前で「玉川上水水路」とうい表示を見て、“旧”という文字が疑問だった。その謎が解けたのだ。新水路が建設され、和田町下流の玉川上水は導水路としての役目を終え、の文字を冠されるようになった。その後、新水路も暗渠化され水道道路と呼ばれた自動車道路は井の頭道路と名称変更され現在に至っている。(写真はいずれもいずれも「和泉水圧調整所」内のタンク)