マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

六阿弥陀道を行く(その2)

2020年09月30日 | 東京散歩

 9月21日(月)朝9時半、王子駅をスタート地点にして六阿弥陀道行を開始し、第1番の西福寺を目指した。王子駅から都道307号線が北東方向に伸びている。都道沿いに真っすぐ進み、明治通りを過ぎ、石神井川を右に見て直ぐを右折すると突然西福寺が現れた。丁度お彼岸とあってかお参りの人がちらほら。(写真:石神井川。隅田川はすぐそこ)




 真言宗豊山派の寺院である。まず目に入ったのが木造りの仁王門。色鮮やかな山門で、金剛力士像が安置されている。裏側には風神雷神像。これまた色彩豊かな回廊を真っすぐ進むと本堂。行基作と言われる阿弥陀様を拝むことは出来ないが、野外に祀られている、ひときわ大きい阿弥陀如来坐像にご挨拶。(写真:仁王門)

 下の写真は風神雷神像。その下は左が廻廊で右が阿弥陀仏座像





 
 

 寺を去ろうとして「彩帆観音」なるものに気が付いた。説明文を読むと、昭和46年にこちらの当時の住職さんがに彩帆(サイパン)を訪れ、旧日本軍兵士の遺骨を収集して、帰国後塔内に埋葬し、正観音像を安置し彩帆観音と銘したとあった。失礼ながら江戸時代には栄えていたが、今は寂れているかも知れないなどと想像していたお寺さんは色鮮やかで、対外的仏事にも活動・活躍されていることに驚き、感銘を受けた。







 第1番目西福寺から第2番目の延命寺に向かう道は隅田川に平行する様に小台方面へと続いている。この途中「王子自動車学校」があった。26年前運転免許を取得する為に通った自動車教習所だ。懐かしくなり、勝手知ったる建物の屋上へ上り、自動車コースを見渡した。







 第2番目の延命寺も真言宗豊山派のお寺さん。阿弥陀様は既に足立区・恵明寺に遷座されている。参拝の方が見えていたが、西福寺などと比べると静か過ぎる佇まい。お参りして隣の船方神社に寄った。不思議なことにこちらの神社の説明版に「六阿弥陀縁起」が紹介されていた。
 第3番目の無量寺をまでの道のりは遠かった。






 


六阿弥陀道を行く(その1)

2020年09月27日 | 東京散歩

 今年は8月の中旬には中山道行を諦めていた。下諏訪からスタートの予定だったが、8月頃は東京からの訪問者は全く歓迎されず、宿泊予約への熱意が湧かなかったことも断念理由の一つだった。
 その代わりという分けでもないが今年中に六阿弥陀道を歩いてみたかった。六阿弥陀とは、行基が一夜に一本の木から六体の阿弥陀仏を刻み上げたと伝えられる仏像のことで、
六阿弥陀寺とは
 一番 西福寺 北区豊島2-14-3
 二番 延命寺 北区堀船(明治時代に足立区江北にある恵明寺に移管)
 三番 無量寺 北区西ヶ原1-34-8
 四番 與楽寺 北区田端1-25-1
 五番 常楽院 上野東天紅裏に別院(昭和に調布市西つつじが丘に移転)
 六番 常光寺 江東区亀戸4-48-3 
 の六つの寺を指し、その阿弥陀のある六寺巡礼を六阿弥陀巡りといい、江戸時代中期から大流行した巡礼である。

 私は荒川区の富士見坂付近や谷中図書館前にある六阿弥陀の道しるべを見て興味を持った。更には青山文平著『逢対』に登場する主人公の友人が毎月、三と五と七のつく日に六阿弥陀巡りを続けていることを知り、その追体験をしたくて、昨年のゴールデンウイークに挑戦したのだが失敗していた。
 今年7月に田端で六阿弥陀道と書かれた道標を知ったことから、六阿弥陀道全体が見渡せるようになり、この9月の4連休を利用して再挑戦した。21日(月)が1番~3番、22日(火)が4番~6番と予定した。21日は予定通り巡れたが、22日は5番までで疲れてしまい、5番から6番へは数日後に回る予定である。(下の地図で六阿弥陀寺の凡その位置を示す)



紅葉寺から電話

2020年09月24日 | 東京散歩

 『北区の古い道とみちしるべ』に導かれるように古い道を歩いたり、寺社を訪ねたり、“みちしるべ”を探しに出掛けることが多い最近だ。9月8日に紅葉寺を訪ねた狙いは2つあった。松橋弁財天について詳しいことを知ることと、紅葉寺門前にある道標を見ること。
 松橋弁財天についてはそれなりの事を知り、9/15のブログに書いた。道標の方はしっかり見たつもりだが、目指すものは見当たらなかった。撮ってきた写真を拡大しても分からなかった。
 巻末の一覧には、目指す道標銘は「この石にはり札無用、水きよき滝野川上たつねみよ 南無阿弥陀仏と道のしるべに たきのふとう尊まきのをくハん音にこれより左江」と刻まれているとあった。後半は一部意味不明なのだが、前半の“はり札無用”とは面白く、青字で書いた部分は覚えやすく、分かりやすい和歌だった。これは是非見たいと思った次第。
 古くからの石碑に書かれた文字は読み辛く、しかもすり減っていて殆ど判読できないものもある。これはお寺さんに聞いた方が早いと合点して、9月15日(火)、再度紅葉寺を訪ねた。今回は石神井川上流からのアプローチで、音無し緑地に造られた階段を川まで下ったりした。





 お寺では奥さんが話を聞いてくれた。私が示した道標は住職不在の為その所在は分からないとのことだったが、ある冊子を用意してきてくれ、右の写真を示しながら「確かにここの寺にあることになっていますが・・・。住職が帰ってきましたら聞いてみます」とのことだった。








 翌日紅葉寺に電話すると奥さんは「その道標ここには無いとの事でした」と。万事休す。道標探しはこうして頓挫したかに見えた。しかし翌日奥さんから電話があり「住職がど忘れしていました。門前にある石碑の右から3番目がお探しの石碑とのことです」と。急いで9月18日、三度目の紅葉寺を訪ねた。






 教えて頂いた石碑はどう見ても和歌は書かれていない。そこで正面ではなく右側面をよく見ると和歌が書かれ、奥さんが見せてくれた写真からこれが目指す道標と分かった。道標探しには細心の注意が必要と改めて認識。
 奥さん曰く「頂いた電話の履歴からそちら様の電話番号がわかりました」と。有難い電話で、紅葉寺さんのご厚意に感謝。これも何かのご縁、今年の秋は滝野川の紅葉を観に行こうと妻と話している。




 さて、この道標はかつては滝野川3丁目67番地にあったとのこと。そこで古地図にその位置(B)などを記したものが下の地図。Aの紅葉寺からCの滝不動へ向かう場合、B地点にこの道しるべがあれば、“左江”に導かれ、迷うことなく左へ曲がり滝不動へと行かれる。(最下段に道標の拡大写真を3枚の上中下に分けて提示。上は“水きよき滝野川上たつねみよ” 中は“南無阿弥” 下は“陀仏と道のしるべに”と刻まれている。)



   


月下美人咲く

2020年09月21日 | 草木・花

 9月16日(水)、富士前福寿会の熊坂さんから「月下美人 本日咲きそうです。多分8時すぎです 朝にはしぼんでます」とのラインメールが入った。(写真:送られてきた写真。まだ開花していない)









 そこで夜8時半頃熊坂宅を訪れると、玄関前に置かれた鉢に月下美人は見事に咲いていた。一夜しか咲かないと言われる、この楚々とした美人を慌てて撮影。比較的満足のいく写真が撮れ、その日は彼には会わず、その場でお礼の電話をして帰ってきた。

 翌日の朝、10数人の方にラインのメールに添付して写真を送った。概ね好評だったので大変気を良くした。「まさしく名前どおりの美しいお花ですね」・「月下美人を見るのは久しぶり」・「私は、まだ咲くところを見たことがないのですが」・「素敵ですね。神秘的!」とか「一晩しか咲かないのですよね」との返信文があった。咲く瞬間を見たという人は少ないことを知った。(写真:私が撮影したもの1)
 我が家付近で月下美人の咲くところは2か所あった。吉祥寺付近と江岸寺付近。吉祥寺付近のものは消えていて、今では江岸寺付近と熊坂宅。過去も16日も熊坂さんから咲く時刻を教えて貰っていたので美人に面会出来たのだ。彼は花に興味を持ち、よ~く観察しているから咲く日時が分かるのだと思う。ともあれ私はその恩恵に浴した。
 私が見たのはもう9年も前のことだが、その頃と撮影の方法や友人への連絡方法が変化ていることに気が付いた。当時はカメラで撮影したが今回はスマホ。スマホのカメラ機能は素晴らしいので近距離ではスマホを多用するようになってきた。連絡はパソコンメールの代わりにラインを用いた。パソコンメールに比べてラインメールは気楽に写真でも動画でも送信できる点が素晴らしい。(写真:私が撮影したもの2)
 さて「香りも素晴らしいでしょう」や「香りが漂ってきそうです」とのメールもあり、月下美人の香りが素晴らしいことを知らなかった。「天ぷらを食べました」とか「ポン酢で食べました」とのメールもあって食べられることも知った。
 下は熊坂さんから送られた写真。美しく撮れている。(写真:右は朝の様子)


 


金剛寺から正受院(滝不動)へ

2020年09月18日 | 東京散歩

 9月8日、紅葉寺から正受院(しゅうじゅいん)へと回った。石神井川の右岸を寺から下流へ向かう道は右写真の如く歩道は整備され、右側は鬱蒼たる林で人影は疎ら。静かな散策に適した道だった。しかし相当下っても正受院は現れなかった。川側から寺への道は無いことに気付いた。この寺は別名滝不動とも呼ばれ、境内から“不動の滝”が眺められたから、川側から寺への道が今もあるはずと思い込んでしまっていたのだ。







 参道へのアプローチは明治通り側からだった。午後5時を回っていたこともあるが陽は陰り、境内の様子は寂しげだった。寺縁起の説明版も相当痛んでいてよく読めない。帰宅して調べると、本寺は浄土宗寺院で学仙坊という僧侶が、霊夢によって同地を訪れて開山したと伝えられ、本尊は行基の作と伝えられる阿弥陀如来像、とあった。千島列島から北海道までを探検した近藤守重(重蔵)の甲冑像も立派とは言い難いものだった。ついつい、滝不動として賑わった頃と比較してしまう。(写真:正受院本堂)

 

 王子は「王子七瀧」とも呼ばれ、石神井川左岸から流れ落ちる滝で有名だった。弁天の滝・不動の滝・権現の滝・稲荷の滝・大工の滝・見晴らしの滝・名主の滝。その中でも不動の滝はひときわ有名だったらしい。『名所江戸百景』にも「王子不動之滝」として描かれている。夏には多くの人が避暑に訪れ、茶店あり、町人の娯楽施設だったことが窺われる。不動院にも多くの人が訪れたことだろう。しかし、滝は枯れてしまった。滝見物が可能だった正受院から滝が失せてしまったのだ。(写真:『名所江戸百景』の「王子不動之滝」)
 現在、王子には名主の滝のみが残っている。ただ石神井川そのものが大きな滝となって落水していたことが『王子に生まれて』の挿絵から推測できる。

 門前にある、「不動の滝跡」と題する掲示板には次の様に書かれていた。
 「不動の滝は、泉流(せんりゅう)の滝とも称され、正受院本堂裏の峡から坂道を石神井川に下ったところにありました。『江戸名所図会』は、この地の江戸時代後期の景観を次のように説明しています。
 正受院の本堂の後、坂路を廻り下る事、数十歩にして飛泉あり、
 滔々として峭壁に趨る、此境は常に蒼樹蓊鬱として白日をささへ、
 青苔露なめらかにして人跡稀なり 」