マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

ルービックキューブ、再び(その2)

2022年08月26日 | 闘い

 ルービックリベンジは1982年に、プロフェッサーキューブは1991年に発売された。私はどちらのキューブも発売されると直ぐに購入し、6面完成を目指して操作を始めた。ルービックリベンジと呼ばれたキューブは、多くの人にルービックキューブが完成されてしまったことへのルービック氏の“復讐”の思いを込めて名付けられたとか。理論上はルービックキューブより1,000,000倍以上の難易度のあるキューブとの触れ込みであったと記憶している。(写真はプロフェッサーキューブ)



 プロフェッサーキューブの場合、中央の9個からなる正方形を、6面全て完成してしまえば、あとはルービックキューブの解法と同じように進めれば良いのではとの推測した。(写真:中央正方形部分に注目)







 操作を繰り返し、何度も失敗を重ねたが遂に六面の色合わせが完成したのだ。やった!と大喜びした。
しかし、それは糠喜びだった。何度も繰り返すと上手く完成する場合と、あと一歩の手前で挫折という場合が半々の割合で現れるのだ、挫折の場合はあと1個1個の交換が出来ればいいのだが、それが出来なかった。(写真:完成一歩手前。当時はここから先に進めなかっいた)





 本棚の片隅に置いておいた、当時操作したキューブを見てみた。30数年前の有様がそのまま残っていた。右図はプロフェッサーキューブ完成一歩前で終わっている。この解決のため長時間を費やしたがあと一歩届かなかった。あと2個のキューブの交換が出来れば完成だが、それが出来なかった。全く忘れていたが、その無念さの思いが保存され、残されていた。(写真:当時のままのプロフェッサーキューブ)




 今回はズルをしてネット上で攻略法を学び、プロフェッサーキューブ完成させた。(当時、これ以上進まなかった状況図。現在は解決方法を学び、完成に至っている)
 
 当面の間、ブログ更新を休みます。



 

 


ルービックキューブ、再び(その1)

2022年08月19日 | パズルの世界へ

 「ルービックキューブ」と名付けられた立体パズルが日本中で大ブームとなったのは1980年頃だったろうか。電車の中でも、教室でも、公園でも、このパズルを操作している多数の人を見受けた。当時私が勤務していた向丘高校の職員室も然り。私も夢中になって六面完成を目指した一人だった。 





 パズルの考案者はハンガリー人のエルノー・ルービック氏。その彼が今年『四角六面 キューブとわたし』を著した。文京区の図書館に予約しておいた本を7月から読み始めた。彼は書くことが苦手なので、生涯で初めての著作とか。数学者だと思い込んでいたが建築家で、ルービックキューブ発明までの経緯が書かれていた。ただ、本を読み進めるよりも、キューブそのものを手に取りたくて、読み終えるのを待たずにネット購入した。







 実はキューブにはルービックキューブ以外に3種類が発売されている。2×2×2型キューブ、ルービックリベンジ(4×4×4型)、プロフェッサーキューブ(5×5×5型)。その4種類セットは予約後の翌日には届き、早速ルービックキューブを手にした。
 40年前のあの頃、時間は掛ってしまったが何とか六面の色合わせを完成させたのだが、80歳の現在どうも上手くいかない。そこで、ガイドブックとネット上の攻略法を参考にしながら完成を目指した。(写真は2×2×2型キューブ)


 ガイドを読み進んで行くうちに、40年前とは大きく変化した2つの事を知った。一つは面の色の配置が違っていた。世界標準が定められていて白面の反対側面が黄色(当時の日本は水色)になっていた。(写真は世界標準のキューブ。白面の反対側すなわち底面は黄色)
 更には最速で完成させられるLBL法と呼ばれる方法が多くの人々に採用されていることを知った。この方法はアメリカの17歳の少女ジェシー・フリドリッチによって開発された。彼女は6面完成まで17秒という最速タイムを叩き出し、スピードキューブストの世界チャンピオンに輝いたこともあるそうな。


 LBL法では面の完成順が底面→中段面→上段面となる(かつては底面→上段面→中段面という順だった)。基本的にキューブの各層を下から順に揃えていく方法である。解いている過程が分かりやすく、私もこの方法で理解し、その手順を全部覚え、ガイドに頼らずに完成させることが出来るまでになった。その手順を忘れないように毎日何度か完成させている。猛暑の日々にこれも楽しみの一つ。完成後の達成感が快感になっている。(写真は底面から中段面までが完成したもの。次は上段面の完成に向かう)


 現在は、ルービックリベンジも成功し、プロフェッサーキューブに挑戦中。(写真はルービックリベンジ)


猛暑の日々に

2022年08月12日 | 身辺雑記

 妻の体調は未だ回復せず、洗濯や炊事・買い物など、家事の多くが私に回ってきておたおたする今日この頃。時に通院時の付き添いもあり、多分、今夏は東京から脱出することなく終わるだろう。止む無く、猛暑の日々に、ご近所に出没している。

 富士神社の納涼盆踊り大会が3年振りに復活し、8月4日こそ雨で中止されたが、5日(金)~6日(土)と開催され、私も踊りの輪に加わった。何回か盆踊りに参加しているが今までに経験したことの無いような凄い人出だった。



 人と人の間の距離は超稠密で、かつて言われたソーシャルディスタンス2mなどどこ吹く風。老若男女みなこの日の来るのを期待し、待ち望んでいたのだろう。中央に建てられた櫓の舞台では浴衣姿の多くの少女達が元気よく楽し気に踊っていた。




 この盆踊り大会の主催は10ほどの町会で形成された駒込地区町会連合会で、大会の実行担当町会は回り持ちになっている。数年前、我が富士前町会が担当のときは、私も駆り出されマイクを握ったこともあった。



 5日は開会式的なものがあると聞いていたので7時前には神社に行った。区長の挨拶や来賓紹介に続いて直ぐ踊りが始まった。私はこの日は主として写真撮影に専念し、6日に少し踊った。と言っても踊れるのは“炭坑節”くらい。富士前町会の女性3人の後で見よう見真似でもう一曲踊った。来年は練習会に参加しようかな。

 6日は朝5時前に自宅から不忍池までサイクリング。久し振りに、折り畳みのサイクリング車に乗った。交通量の少ない時間帯を狙ってのサイクリング。池まで15分ほどで着いてしまった。盛りを過ぎかに見える蓮が鮮やかに咲いていた。自転車を止めて観賞用コースを歩いた。




 

 一番熱心にやっているのがラジオ体操。
 富士神社のラジオ体操への参加者は多いときには50名を超えている。小林さんと二人で参加者の立ち位置に名前を記入した一覧表を作成している。最近号には54名の方の名前が。
 盆踊り用に
櫓が組まれた境内で4日のラジオ体操は普段通りに行われた。(右写真)



  9日、今年初めてラジオ体操の“はしご”をやった。
 富士神社のラジオ体操終了後、東京ドームシティーに向かった。ラクアガーデンでの夏休みラジオ体操が3年振りに開催されたのだ。第12回を数えるこのイベントに参加したことはなかったがいずれは様子を見に行こうと思っていた。開催時間が7:25なので、富士神社の体操終了後でも間に合うと知っての参加。舞台には体操連盟1級の指導員が2名。参加者は子供たちが多く、200名ほどがリズミカルに体操を楽しんでいた。
 
 


江戸城外堀跡を歩く(その5)

2022年08月05日 | 東京散歩

 四谷駅手前にある外濠公園から上智大学真田濠グランドにかけての一帯は高台となっていため、真田濠は最大13mも地面を掘り下げて建造された。そして、掘り出された大量の土地は、周囲の谷に運ばれ、武家地や町地の造成に利用された。この工事は全て人力で行われたというから、真田濠は壮大な土木工事によって建造された。実際工事を担当した仙台藩伊達家には、5,700人の人足を動員したとの記録が残されているそうだ。(四谷門から喰違木戸までは土塁が続く)





 四谷駅から眼下に真田濠跡を眺めながら土塁上を南下すると程なく喰違木戸に至った。この木戸は外堀が造られる24年前に旧武田家家臣小幡景憲(おばたかげのり)によって縄張りされたと伝えられている。通常、江戸城の城門は、枡形門と呼ばれる石垣を巡らした形だが、ここは非常に珍しく土塁を前後に延ばした構造で、門ではなくて木戸が設けられていた。この地は外堀中高度最高地点で、二つの谷に囲まれた高台に、江戸城西側の防御の要とし構築された。(写真は『絵本江戸土産』より)

 現在は、一部土塁が削り取られているものの、その形状が保存され、往時の様子が留められている。(道路は土塁を切り抜いて造られた)







 さてここからは一気の下りとなる。ホテルニューオオタニを左手に、弁慶濠を右手眼下に眺めながらの下り。この辺一帯は「紀尾井町」と呼ばれ、かつて州徳川家中屋敷、張徳川家中屋敷、彦根伊家中屋敷などが並んでいた武家町。各家から1文字づつとって町名とした。(一番下の地図参照)









 ここを下る時に私は迷子なってしまい、大きな建物に潜り込んでしまった。そこはホテルニューオオタニの一角
だった。(写真:右はガーデンコート。下は高低差のある庭園)



 

 慌てて外に出ると弁慶濠が目の前にあった。一方の端に赤坂門が眺められ、高さにして10mはあろうかという立派な石垣だ。(写真:弁慶濠の端突き当りが赤坂御門跡。下は弁慶濠)




 見付けとも呼ばれる赤坂御門は筑前福岡藩々主黒田忠之によって築造された桝形石垣だった
。門の名前は、外側の赤坂を監視することから名付けられ、更にこの門は脇往還の一つ大山街道の出発点で、大山阿夫利神社などに参詣する人々で賑わったそうな。明治時代以降、門や石垣は撤廃されたが、地下鉄南北線建築工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見された。(右写真はその石垣)


 牛込橋から赤坂見附までは、1956(昭和31)年に江戸城外堀跡として国指定史跡に、文化財指定されていた。この日はその史跡全部を歩いて来たことになる。