マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

東京に、又雪が降る

2012年02月29日 | 

 今日の未明から又雪になった。今日は本来ならば、家人と目黒雅叙園の百段階段を観にいく予定だった。友人宛てのメールにもそう書いたら、雪の坂にお気をつけとの返信メールを頂いていた。
 それなのにである。早朝のラジオ体操にも出掛け、その気になっている私に反し、寒さに弱い家人は躊躇いがちで、結局後日に延期した。そこで出たがり屋の私は、雪の六義園から鐙坂・曙坂と巡ってきた。今日のブログはその写真展。


 ①富士神社社務所でのラジオ体操に出掛けると、Sさんから1枚の写真を渡された。10数年前の雪が降った日の朝、ある方が雪ダルマならぬ雪狛犬を作成、Sさんはそれを写真に撮影したとのこと。10数年前の富士神社の様子が分かる貴重な写真なので借りてきてコピーした。(写真① 10数年前の富士神社








 ②の数枚は久し振りの雪の六義園。訪れる人は疎らだけれど、皆写真撮影に精を出していた。(写真②:雪の六義園 以下同じ)


















 



 ③は鐙坂。実は1月28日の朝日新聞夕刊に”坂を歩けば江戸情緒”と題して登場し、「日本坂道学会」を形成する上野勝さんが「江戸情緒がたっぷり残る一押しの坂」として紹介していた。私は「菊水湯」を訪ねた時にこの坂を発見し、私のお気に入りの坂でもある。掲示板には馬につける鐙に似ているところからその名が付いたと書かれている。晴れた日の鐙坂は3度ほど観ているが雪の鐙坂は初めてで、
たいし撮影もしたくて敢えてここを訪れたが雪はかなり消えていた。(写真③ 鐙坂


 ④曙坂。文京区立誠之小学校付近の坂。坂と言うよりは階段。結局今日は百段階段を観る代わりに四十段ほどの階段を昇る事となってしまった。(写真④ 曙坂)











⑤おまけ。早朝、我が家から見た屋根屋根屋根。

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再びの宝登山

2012年02月27日 | 山旅

 昨日の2月26日(日)、福寿会健脚3人組で、宝登山(ほどさん)の蠟梅を観に出掛けて来ました。実は2月の中旬までにはここへ出掛けたかったのですが、私のマレーシア行があったり皆さんの日程の都合がつかなかったりで、2月の最終日曜日の観梅となってしまいました。今年は蝋梅の見頃を逸してしまうだろうと予想していたのですが、昨日観て来た率直な感想は、漸く”見頃”を迎えたばかりで、満開には程遠く、関係の方の話では「今年は1ヵ月は遅い」とのことでした。


 今年のアプローチは昨年と全く同じで、8時05分池袋発の「快速急行」は
長瀞到着10時17分。昨年と違い今年は宝登山神社にお参りをして登山の安全を祈願しました。(写真:宝登山神社本殿)










 その折り神社の由来を読むと
 『当神社は約1900年前の昔、日本武尊が東北地方平定のみぎり、宝登山々頂に皇祖神武天皇・山の神・火の神をお祀りされたのがはじめと伝えられ』とあり、更には『又、日本武尊が登山の途中火事の為進退きわまった時、多くの巨犬が現れ火を消し止め、尊をお助けしたことから、古くは火止山(ほどさん)と表し、後世宝登山と改称した』そうです。神話の世界の話しかも知れませんが、1900年前まで遡る由来に驚かされます。宝登山をこのときまで”ほとさん”と呼んでいましたが、この由来を読んで、発音を改めました。(写真:山頂にある奥宮)


 神社から登ること1時間弱で山頂到着。蠟梅の咲き具合を観ました。残念ながら昨年の様な盛りのときの勢いはありません。咲き始めて間もないようで、長瀞駅で語られていた「漸く咲きました」を実感します。山頂は冷たい風が強く、風のあまり通らないベンチで昼食。味噌汁で暖まるも陽の射さないこの日は寒さが身に滲み、やや早めの下山開始。(写真:蠟梅園にて)





 登山路を歩きながら感じる事は、この山の素晴らしさは蠟梅だけでは無いということ。秩父の山々や秩父盆地の絶好の展望台でもあります。流石に奥秩父の山々の展望は出来ませんでしたが、秩父盆地を眺めながらの下山となりました。ただ、残念なことは、来る時の車中から見えた武甲山無残な姿です。その姿は宝登山からも遠望出来、残念でなりません。セメント原料の採掘の為、山が年々切り取られ、ノコギリ状態になっているのです。(写真:蠟梅の向うに微かに見える武甲山)


         (写真:武甲山の姿)

 下山後、水嵩少ない長瀞峡を眺め、長瀞グリーンホテルのラドン湯に急ぎました。

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民藝「静かな落日」を観る

2012年02月25日 | 映画・美術・芝居・落語


 マレーシアから帰国した翌々日の2月14日(火)、新宿サザンシアターで民藝公演「静かな落日」を観て来ました。辛うじて千秋楽に間に合いました。”静かな落日”は作家広津和郎の穏やかな死を象徴しています。
 広津和郎は松川事件の被告たちの文集「真実は壁を通して」を読み、ペン一本で被告全員の無罪を勝ち取る為、裁判闘争を闘いぬいた作家。後世、彼の活動無しに松川事件の無罪判決はなかったとまで言われています。





 作者は吉永仁郎。歴史jの、忘却の彼方にうずもれていた人々の思いを掬いあげ、作品の中に蘇らせる、反骨精神旺盛の戯曲家として有名で、私が観た作品には、噺家円遊を主人公とする「すててこてこてこ」がありました。
 この「静かな落日」は、初演の2001年以来地方巡業を続けてきていました。作品の副題が”広津家三代”とあるように、”松川事件”からの視点の物語では無く、広津家三代にわたる物語ですが、私には、
和郎の娘桃子から見た和郎像、あるいは桃子と和郎の葛藤の物語と思える舞台内容です。


 舞台は、父和郎(伊藤孝雄)亡き後、山積された書物の傍らで本に視線を落とす桃子(樫山文江)を、和郎の友人志賀直也(水谷貞雄)が訪れるところから幕が空きます。和郎は志賀直也とも親交があったのかと、まずは驚かされます。
 戦前、中国との戦雲がきざしてくると、和郎は”散文精神”を説き、時流に流されまいと何も執筆しないばかりか、麻雀や骨董品あさりに明けくれ、母とは別居し家を出て行ってしまいます。娘から見て決して褒められた姿ではない父親です。 
 しかし戦後、松川裁判をペン一本で粘り強く闘う父のうしろ姿に、桃子はだんだんと父への理解と愛情を深めていきます。桃子の思いの変化が丹念に演出され、この芝居の見どころ。この父と娘のおかしくもせつない家族の物語。桃子は病身の父を最後まで支え続けたのでした。


 戦後最大の冤罪事件松川事件については一幕で触れられるだけです。松川事件を”政治闘争”としてではなく、あくまで刑事事件として闘うおうとする姿勢を通じて、和郎の聡明さも浮き彫りにされますが、父と娘の物語を主軸としたことで、味わい舞台となりました。観終わってのほのぼのとした余韻を感じました。男の色気漂う伊藤孝雄と娘らしさが匂う樫山文江。「好きよ、お父さんが好き・・」で幕となりました。民藝の両看板俳優の演技が光る名舞台でした。
 広津家の墓所は谷中霊園内にあるそうで、近々に、散歩の足を少し延ばし訪れて見たいと思います。

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立川談春「天災」を聴く

2012年02月23日 | 映画・美術・芝居・落語

 昨日の2月22日(水)、家人とふたりシビックセンター小ホールで立川談春の「天災」と「包丁」を聴いてきました。談春は先ごろ亡くなられた立川談志師匠の弟子にして、公演のチケットは即日完売を連発するため、”最もチケットが取れない落語家”と呼ばれているようです。文京区の区報に載ったこの文句に惹かれ、チケット抽選の申し込みしておいたところ、抽選に当たり、12月中にチケット購入に行くと、前から4番目のD席。その日の来るのを楽しみにしていました。
 シビックセンターへは輪投げ大会への2日間を含め、この3日間連続の通いです。三田線を千石で乗車し、春日下車。僅か二駅での到着ですから、非常に楽に行けます。小ホールは定員371名ほどの収容人数。特別の椅子も用意されぎっしり満員です。前座に続いて、大きな拍手に迎えられ談春登場。私は初めて聴く落語家にして、この夜語られた「天災」も「包丁」も初めて聴く演題です。
 席は前から4番目の聴き易い席ですが、談春の語りは耳に難点のある私にはやや聴き辛い発声です。しかしテンポ良い、リズミカルな語りでまずは「天災」が語られます。
 喧嘩ぱやい熊五郎は長屋のご隠居宅にやって来て、離縁状を5・6枚書いてくれと頼みます。この短気の熊五郎の性格を何とか直そうと、ご隠居は手紙を認め、これを持って心学者の先生の元へ行けと勧めます。訪ねた先での心学者と熊五郎の掛け合いがこの落語の聴きどころ。どんな事にも腹を立て、喧嘩沙汰になる熊五郎を、心学者は「天災と思え」と諭し、その気になって長屋へ帰って来た熊五郎。留守中に起こり既に収まっている夫婦喧嘩を諌める積りで他家へやってきて、心学者さんに説得された通りに「何事も天災と思え」と説きます。他家の主人曰く「なに言ってやんで、我が家は”先妻”だ」でオチ。
 「包丁」を語り終えての談春のオマケが心に残りました。「私の噺もきかずに、『お前の”包丁”なんか聴いてられるか
』と楽屋に去った師匠。私の語りが終わると楽屋から顔を出し、『お前の”包丁”もましになったな』と。嬉しかったですね」。万雷の拍手で幕。

 「You Tube」でも談春の落語を聴くと、かなり立川志らくを意識し「志らくには負けたくない」などと語っているので、両者の経歴を調べてみると、談志への入門が談春が1984年3月、志らくが1985年と談春が1年先輩なのですが、真打昇進は談春の1997年に対して、志らくの1995年と、逆転している事を知り、なるほどと納得です。
 好楽一門では、好楽の息子王楽と弟子の兼好は良きライバルに見えます。ライバルを意識しの切磋琢磨。この世界に限らず、ライバル同士の競い合いは物事を面白くしてくれます。

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輪投げ大会、辛うじて予選突破

2012年02月21日 | 身辺雑記

 昨日の2月20日(月)、文京区シビックセンター内で行われた、文高連(文京区高齢者連合会)の輪投げ大会で、我が富士前福寿会は、参加49チーム中13位で予選を通過しました。
 我がチームの参加者は6名。各戦には5名が輪を投げます。1番手が会長KOさん(目標100点以下同じ)、2番手がKO夫人(50点)、3番手がHさんかKIさん(目標点50点)、4番手がKUさん(目標点80点)、5番手が私(目標点80点)です。予選を通過するためにも各人の目標点を定めておいて、チーム合計で360点が目標点です。
 昨年は春の大会は15位で予選突破。福寿会初めての快挙に皆大喜びしました。しかし、7月の夏の大会は合計310点の点数にも拘らず惜しくも予選落ち。そこで何とか予選を突破しようと各人に獲得目標点を決め練習を積んで来ました。
 さて当日は第1投での全員の得点合計は41点。全部で5投して最低でも300点を獲得する為には1投平均60点は欲しいのですが、出だし大不調で、私に至っては1点。
 第2投時にもチームの合計点は45点。ここで予選通過を諦めかけました。しかし、第3投が50点台。第4投時は60点台。皆好調とは言えないまでも、調子は少しずつ上向きになってきて、成績の中間発表を見るとかなり上位に上がってきました。何故か他の各チームも不調のようです。
 そして最終第5投を迎えました。多分60点台を出せれば予選通過なるだろう、との期待感を持って最終ラウンドを迎えました。第4投のKUさん、5本の輪が得点棒にささり、合計29点を出しました。最終投の私も22点。最終ラウンドのチーム得点は76点。予選通過は20位までですが、我がチームは何と13位で通過。最終投のそれも最後の最後のKUさんの輪投げが我がチームの危機を救いました。それが私の投擲にも好影響を及ぼし、辛うじての予選突発なったのでした。それを祝して町内会近くのファミレスで祝杯をあげました。
 さて本日21日(火)の決勝ラウンド。結果は散々でした。私以外は皆絶不調。目標点には遠く及ばず、合計点も305点の17位。昨日よりも順位を下げました。優勝は460点台の丸山延寿会。
 
辛うじて私は得点合計97点、目標点を越えると同時に自己ベストを更新しました。前日好調だった人が次の日も好調と行かないのが輪投げ。その逆もありで、運にも左右されるから面白い面もあります。我がチームも更なる練習をが必要なのでしょう。

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