マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

「源氏物語の会」の歴史を思い起こすと(その1)

2023年05月29日 | 学び舎

 5月16日、『心泉亭』で開かれた「偲ぶ会」へ、ともさんは貴重な資料を持ってきてくれた。会の萌芽となった、井草高校での公開講座から始まり、「源氏の会」で何時どんな古典を読み合わせて来たかが一目でわかる一覧表を作成してくれたのだ。そのプリントアウトしたものを、この場で披露してくれた。その資料に基づき、私の記憶を交えながら、その軌跡を綴ることとする。(写真:心泉亭玄関)
 2004年、都立田園調布高校を病の為定年1年前に退職した妻は都立井草高校に嘱託として勤務し始め、そこでの3年目の9月に公開講座「源氏物語」読む、を開始した。参加者を、確か都の広報で募集すると定員の3倍ほどの応募があったらしい。16日の「偲ぶ会」に参加された川津さんは当選し、ヨツヱちゃんは落選したことが改めて分かり、皆さん吃驚した。
 井草4年目の2007年9月~11月も同じ公開講座が開かれ、更に話を続けて欲しいという熱心な受講生の声に応える形で、公開講座からは離れ、自前の、私的な会を発足させた。即ち、「源氏物語を楽しむ会・井草」である。
 妻はこの会の盛況に力付けられたらしく、それまで親しくお付き合いしてきた方々(元同僚・大学時代の友人・地域の方々)にお声を掛け、「源氏物語を楽しむ・日出」も立ち上げた。その第1回が10名位の参加で、統廃合となった豊島区立日出小学校の建物の一角にある教室で開かれた。最初の時は受講生の方が、会場場所が分かるだろうか心配になって、私は会場付近に立って生徒の方々の登場を待ったことを昨日の様に鮮明に覚えている。(写真:統廃合後の日出小学校)
 月に2度ほどの読み合わせ終了後は池袋周辺のお店で、皆さんとランチしたことも楽しい思い出だ。会場確保は私が豊島区役所まで出かけたが、我が家近くにある「駒込地域活動センター」の方が会場確保が楽なことを知って、
2010年4月からは会場を主として地域活動センタ(時として勤労福祉会館)に変更した。
 以後は変更はなかった。井草は会場確保してきた方がそれを続けることが困難になってしまい、区切りの良いところで終了した。それまでは月2回の日出と月1回の井草の合計3回。妻は夜遅くまでの準備。超忙しい日々だった。


「偲ぶ会」を六義園「心泉亭」で開催

2023年05月24日 | 

 「『源氏物語』と川口祥子さんの会」と名付けられた「偲ぶ会」が5月16日(火)に六義園内の「心泉亭」で開かれた。参加者は「源氏の会」の方に限り、そこへ妻の妹夫婦が加わり合計で12名の会だった。(写真:緑陰の心泉亭)




 準備は2月末から始めていた。夫であった私から妻を偲ぶ会を提案するのは躊躇いがあった。そこで会設立以来の会員で、中心的なお二人、春子さんとともさんに相談すると、3人の名前で会への参加を呼びかけましょうということになった。私は早速六義園へ出向き、「心泉亭」の空きを確認し、日程を5月16日と決めて来た。この「心泉亭」で、13年前の2010年の5月22日に『源氏物語』の読み合わせを開催したことがあり、会とは縁のある場所が「偲ぶ会」に相応しいと思えたからだった。

 心泉亭での飲酒は禁止だが、会食は可能だ。そこで、亀戸升本のお弁当のなかから「福升」を注文した。それ以外に私は「源氏の会」の方々とご一緒した花見や街歩きの時に撮影した写真をA3に拡大し額縁に入れたものを7枚準備しておいた。
 さて当日は快晴だった。12時に正門前に集合し、12時半に心泉亭に入室。テーブルを設置し、お弁当を配り、お茶の準備し13時頃開会。(写真:心泉亭は椅子席ではなかった)

 冒頭に私が挨拶をさせて頂いたあとは特に司会のご指名ではなく、自由に話をして頂いた。フリーに語って頂いた。大きな役割を演じたのが義妹の夫の石野さんが持参したミニ写真集。妻と私の幼い頃から新婚時代までが登場する写真集で、写真に登場する妻に関する話題が多く語られ、笑いの絶えない会となった。(写真:妻が何歳のときかは不明)






 会終了後寄せられた感想メールを幾つか拾ってみると、

 「祥子先生の子供の頃、青春時代のアルバムを見てやはり素敵でした。そして皆さんが繋がっていることが改めて解り、祥子先生の存在に感謝です」
 「祥子先生の源氏の会はずうっと続きそうな気がします。祥子先生の笑顔が見えるような気がいたしました」
 「とても良い会だったと思います。人数もメンバーも、ちょうどよかった気がします」
 「本当に良い会でした。皆さんの素晴らしさを感じました。お招き頂いて、感謝しています」
 「思いの籠った、思いの溢れた時間でした。こんなにも素晴らしい出会いを祥子先生にいただいたのだと嚙み締めました」
 「なつかしお話や、知らなかった祥子先生のお話を伺うことができて、よい時間でした。同じテーブルについていらっしゃるように感じました」

 “偲ぶ”とは、去っていった人を忘れずに思い起すことだろうか。残された人たちの哀しみが「偲ぶ会」で少し和らいだかもしれない。秋の再会を約束して会は終了した。


何故「江戸橋」と名付けられたのか(一つの推測を知って)

2023年05月19日 | 東京散歩

 毎週日曜日に宮下公園でのラジオ体操にお邪魔している。その宮下公園が、この4月1日からリニューアル工事の為閉鎖され、ラジオ体操の会場が1年間ほど「江戸橋公園」(俗称「ロケット公園」)に変更となった。公園は山手線沿いで、宮下橋と江戸橋の中間の、山手線の内側にある。
 公園の名前を聞いて、長い間疑問に思い、それなりに調べ、最後には何故かは分からないままになっていた疑問が頭を擡げ始めた。何故「江戸橋」と名付けられたのか、という疑問が。その橋に続く通りは「江戸橋通り」と呼ばれているが、その通りにも「江戸」の痕跡は見当たらないのだ。
 豊島区の図書館に「江戸橋」で検索をかけると『江戸橋町会全史』“創立110周年を迎えて”がヒットし、早速借りて来て読み始めた。令和2年10月に発行された、A3の実に立派な町会史だ。その町会史に、江戸橋町会の歴史と名前の由来が書かれていた。









 明治43(1910)年に「江戸橋睦会」として発足した現江戸橋町会の名称は、町会を南北に分ける現山手線に架かる江戸橋から来ている。その江戸橋の名前の由来を『全史』は次のように予測している。「「江戸橋」という名称は近くに居を構えた徳川慶喜公の威光を残し、尊敬を込めて命名されたと思われます」と。(写真:徳川慶喜屋敷跡の説明版に見える慶喜邸の位置図)





 この推測をより深く読み取る為に、明治30年~明治36年の歴史を列記してみる。
 明治30年 徳川慶喜、11月静岡から巣鴨一丁目(現巣鴨駅近く)に移り住む。
 明治34年 徳川慶喜、巣鴨より小石川区小日向に転居。(巣鴨邸付近で始められるであろう豊島線(現在の山手線)の巣鴨駅工事による喧噪から逃れるためと伝えられている)
 明治36年4月1日 田端⇔池袋(豊島線)開通。大塚駅・巣鴨駅開業

 ここからは私の推測も加わるが、本郷台地を開削して進められた豊島線の工事で、巣鴨⇔大塚間の3つの跨線橋もほぼ同時に完成したはずだ。巣鴨駅から大塚駅にかけて順に、「巣鴨橋」、「宮下橋」、「江戸橋」である。巣鴨橋と宮下橋はその橋がある町の名前から直ぐに決まったが、江戸橋の名前は直ぐには決まらなかったのではなかろうか。『全史』は次のように記述している。「本来ならば、巣鴨駅前の橋に江戸橋と命名されてもおかしくはないのですが、畏れ多い名称なのであきらめたのではないでしょうか」と。(写真:宮下橋から見る江戸橋)

 それならまだ名称の決まっていないこちらの橋に、慶喜公に因んで「江戸橋」と名付けてしまおうという「暴挙」に出たのでは、と推測している。

 要するに橋完成2年前まで付近に住んいた慶喜公に縁のある江戸という名前を拝借して「江戸橋」と名付けた、との推測である。私はこの推測を支持したい。(写真:金網越しに見える江戸橋)


野火止用水行を再開(その2)

2023年05月14日 | 闘い

 新座市は水道道路が小金井街道と交差するその先にあった。事前学習したことによれば、新座市には野火止用水の分水点が幾つも存在するということだった。西武池袋線を越えて暫く行くと「西堀・新堀コミュニティーセンター」があった。地名にも“堀”が多く用いられている。ここで休憩をとった。野火止用水の資料が展示されているとも聞いていたが、見たところ係員が2・3名の小規模な出張所で、展示室も私たちの訪問を知って係りの方が照明をつけてくれた。多くの写真とともに新座市での野火止用水の全貌が分かる古地図が展示されていた。新座市の様々な資料を頂戴したが、有難いことに、そのなかに『野火止用水散策マップ』(右写真)があった。自然と歴史を巡るコースが3つ紹介され、見どころが多数載っていた。以後はこのマップを導き手として進むこととなった。

 そこから1kmほど進むと「史跡公園」があり、そこが分水点だった。左行けば本流堀で、右すれば平林寺堀に続いていた。その更に右にここまで続いていた水道道路が真っ直ぐ伸びていた。平林寺堀は公園内を流れているが、水流はかなり減少していた。公園内には埼玉県知事だった畑和の筆による『清流復活』の碑が建てられていた。清流は10年の空白期間をおいて昭和49年に復活し、碑は53年に建立されていた。(写真:分水点)


 公園から先は自動車道路から離れ、田畑や樹林帯の中を進んだ。川歩きがより楽しく感じられるときだ。そこに突然高速道路が現れた。関越高速道路だ。妹から用水と道路が交差するのを高速道路上自動車内から見たことがあると聞いていて興味をもったことだった。写真に撮ってきた。私の想像だが、基本的には用水路をあまり動かさず、傷つけないように、その下に高速道路を掘ったのではなかろうか、と私は推測している。(写真:野火止用水下に中央高速道路)


 そこから先の用水は開削された当時のままの様に感じられる作りになっていた。陣屋通りにぶつかると用水は平林寺境内へと姿を消し、空腹の私たちは右折して昼食場所を探した。幸いにも「さか重」という蕎麦店が営業していて、天ぷらとそばを肴に飲む生ビールは格別に美味だった。
 次回は本流堀を歩く予定だ。




野火止用水行を再開(その1)

2023年05月08日 | 江戸の川・東京の川

 前回、野火止用水沿いを歩いたのは昨年の5月7日で、ほぼ1年前のことになる。妻の体調が徐々に悪くなり、彼女を一人置いての外出が不安になって来ていた。更には一緒に通院することも増え、川沿い歩きどころでは無くなっていった。
 その後、妻の急死という思いもかけない事態に遭遇し、茫然自失の日々を過ごしてきたが、多くの方の助けを頂いて、心理的にも少しは落ち着いた日々が訪れ、ブログも再開出来た。介護の必要が無くなり、旅にも行ける状態なのだが、まだ、一人旅には何故か不安を感じている。川歩きには何度もご同行をお願いして来た菅原さんに今回もお声を掛けた。86歳になられた石川さんは体力に自信が持てないとのことで、今後の参加は断念されていたので、二人旅となった。
 4月27日(木)は西武新宿線「久米川駅」に9時半に集合し、東村山市・久米川から新座市にある平林寺まで約12km(歩数22000歩)の距離を歩いてきた。(写真:中橋の下を流れる清流)



 新座市にある「史跡公園」までは、野火止用水に沿うように東北東方向に「水道道路」が延びている。用水沿いの道と水道道路を交互に進んだ。時に開渠あり、時に暗渠ありだった。用水の水勢は上流ほどではないが澄んだ流れだ。多分不要になった用水路は一時は邪魔者扱されたのではなかろうか。貴重な武蔵野の自然を惜しむ住民の熱意に行政が動かされ、この歴史的遺産を後世に残そうと、昭和59(1984)年8月“清流の復活”がなされ、通水が復活した。(写真:新座市史跡公園にある碑)
 新座市に至るまで用水は東村山市・東久留米市・清瀬市などを流れるが、新座市に至るまでに分水は行われていない。それでも見るべきこのは幾つかあった。

①恩多野火止用水水車苑
 新青梅街道を越えて暫く行くと水車が目に飛び込んできた。立派な水車小屋と水車だが、水の供給は用水からではないらしい。
 帰宅後ネットで調べると
 「恩多野火止水車苑の水車は、天明2年(1782)に旧大岱(おんた)村(現・東村山市恩多町に含まれる)の當麻(とうま)本家の酒造米の精米を目的に川越藩の許可を得て設置したといわれます。水車は直径7.5 メートルにも及ぶ大きなもので、酒造業廃業後は脱穀などに利用し、水車業を営んだとされます。水車苑は、天明2年(1782)頃から戦後まで使われていた場所に水車を復元し整備したもので、東京都内では数少ない野火止用水の憩いの地となっています」とあった。(写真:恩多野火止水車苑)

②万年橋のケヤキ
 更に500mほど進むと万年橋のケヤキの巨木があった。根が用水を橋のように跨ぐので万年橋のケヤキと呼ばれているとか。掲示板には次のように書かれていた。
 「用水を掘る時、このケヤキが大木であったため、その根の下を掘り進んだ話や用水が出来た時ケヤキが植えられ、土橋ぞいに根が延びた話などいろいろありますが、根が向こう岸に達し、あたかも橋のようだったことから、万年橋のケヤキの名で地元に親しまれています 東村山市教育委員会」とあった。(写真:万年橋のケヤキ)