マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

久し振りにラジオ体操へ

2020年05月30日 | 身辺雑記

 最後にラジオ体操に参加したのが4月10日(金)だったから、そこから7週間近くが経過しようとしていた5月27日(水)、本当に久し振りに富士神社のラジオ体操に参加してきた。東京で「緊急事態宣言」が解除されたこともあったが、この数日間、身近の文京区での感染者数ゼロが続き、妻の“志村けん”ショックが少し薄らいできたことも大きかった。朝散歩の帰りに神社境内を眺めると10数人が体を動かしているのが見えたから、絶えることなくラジオ体操が続けられていることは知っていた。
 懐かしい顔々がそこにはあった。久し振りにお会いする方も沢山いた。長老のひげ爺からは一言“うれしいな”と言われた。有り難いことである。体操が始まってから参加者の数を目算すると30名ほどで、マスクを着けていない人は3割くらいか。高齢のご婦人の参加は極端に少なかった。3密のうち密閉は当然避けられ、密集にもなっていない。
 私は自宅ではYou Tubeを利用して体操はしていたが、うっかり忘れてしまうことが多かったし、狭い我が家、思いっきり手を振ると家具にぶつかってしまうので、動きが緩慢になっていたし、ジャンプは遠慮がちだった。境内でのラジオ体操では思い切り身体を動かせ、気持ちが良かった。
 体操終了が、やや密接かも知れないが、前立さんの傍へ4・5人が集まったそこには区議会議員のIさんもいたので、「文京区にも漸くPCR検査場が出来たらしいが何処に」と聞くと「いや、どこに出来たか教えてくれないのです」とのこと。その在処は区議会議員でも知らないようだった。
 翌日の28日にも参加者を数えると何と40人を超えての参加者。例年だと今頃は人出が一番多い時期で、50人は超えていたから、8割くらいの参加者が戻ってきた。文京区では図書の借り出しと返却が可能となり、徐々に日常が蘇ってきたようにも見えるが、感染拡大の2波、3波の可能性は高そうに思える。油断大敵と心しよう。


『感染症と文明』(著:山本太郎 岩波新書)から

2020年05月27日 | 読書

 本書のプロローグ「島の流行が語ること」には興味深い事例が紹介されていた。まだ本書全体を読み通してはいないが、その事例を読んで知ったことを綴っておきたい。
 ノルウェーとアイスランドに挟まれた北大西洋にあるフェロー諸島は沖縄諸島と同じほどの広さで、総面積1400平方キロメートルのデンマークの自治領。
 1846年当時、人口7800人ほどのこの島に麻疹が流行した。この流行を受けて、デンマーク政府は26歳の医師ピーター・ルドウィッヒ・パヌムを派遣した。若いパヌムは村々を訪ね、住民の面接調査を精力的に行い、流行についての詳細な記録を残した。記録によれば島に麻疹を持ち込んだのは、1846年6月4日に捕鯨の為にやって来た10名の男たちだった。
 42の村での調査を通して、パヌムは、感染源への暴露から症状が現れるまでの潜伏期間が平均10日~12日であること、発疹が現れる2日前には患者が感染性をもつこと、死者の数はそれほど多くは無かったが、7800人の住民のうちおよそ6100人が感染したことなどを明らかにした。彼の報告は、翌1847年に発表された。ここで注目しておきたいことは1700人弱が感染しなかったことだ。

 さて、山本太郎氏は、この報告書を基に、フェロー諸島における麻疹流行の再現を試みた。島で起こった感染状況を推し測った訳だ。それにつては巻末付録に「麻疹流行の数理」として「フェロー諸島における流行の再現」が書かれている。そこに前回のブログに書いたy1=S(t)、y2=I(t)、y3=R(t)のグラフが登場している。右上のグラフがそれである。
 それは、潜伏期間を10日、感染性をもつ期間を12日、基本再生産数を14とする麻疹流行の単純な数理モデルだ。この島は以前の麻疹流行から65年以上流行がなかったため、住民はすべて免疫をもたないと仮定した。
 グラフから読み取れるように、流行開始から約60日で流行は終息し、約6900人が感染し免疫を持った。ということは7800-6900=900人が感染しなかったことになる。 
 この流行で実際に感染しなかった島民の人数は1700人。
 モデル計算では感染しなかった人数は900人。この差800は島民の“外出自粛”などの懸命な努力の結果だろうか?
 私は感染が終息したときには全員が免疫保有者となったと何となく考えていた。これは大きな勘違いで、終息時に非感染者がいることを知った。更に集団の免疫保有者の割合が感染症の流行を予防するのに十分高いとき、その集団は「集団免疫」を持つということも知った。
 こんな逸話も紹介されていた。
 1665年から1666年にかけてのペスト流行時にはロンドンでは約10万人が死亡し、ニュートンが通っていた大学も何度も休校を繰り返した。休校中に故郷
に帰ったニュートンは、ぼんやりと日を過ごすうちに微積分法や万有引力の基礎的概念を発見したとか。この期間は後に「創造的休暇」と呼ばれることになったそうな。

 今日の一葉:5月7日のフラワームーン
 


「感染症の数学」を知る

2020年05月24日 | 医療

 『コロナの時代の僕ら』の著者パオロ・ジョルダーノは高校生の頃は“数学おたく”と呼ばれていたらしい。『コロナの時代』にも随所に数学が登場してくる。「おたくの午後」の章では<数学とは、さまざまな実体の間の結びつきとやり取りを文字に関数、ベクトルの点、平面と抽象化し、描写する科学なのだ>とのくだりが登場してくる。関係性を数学の本質と捉えているようだ。
 新型ウイルスの流行が勢いを増していた日々に、その信じがたい思いをまぎらわすために彼は数学に頼ることにし、まずは手始めに“SIRモデル”を使った。これは「感染症の数学」で、感染症を分析する道具となっているようで、著者は読者にその骨格を説明するのにビリヤードの球を利用した。
 そこを読んで私の“SIRモデル”に対する理解も少し進んだ。とうい訳で、著者の説明を紹介しながら、随所に私が知り得た事柄を加えながら“モデル”の一端を綴ることとする。
 
 現在、世界の人口は77億人を超えているが、その中にこのウイルスに感染していない人口(=感受性人口)を少なく見積もって75億人とし、私たち1人1人を75億個のビリヤードの球に例えた。広大な空間に75億個のビリヤードが散りばめられている状態を起点に据えた。
 そこへ、感染した球がひとつ猛スピードで突っ込んでくる。いわゆるゼロ号患者だ。ゼロ号患者はふたつの球にぶつかって動きを止める。
 弾かれたふたつの球は、それぞれまたふたつの球にぶつかって動きを止める。次に弾かれた球はそのどちらもやはり2つの球にぶつかり・・・、あとはこのパターンが延々と繰り返され、弾かれる球は指数関数的に増加していく。感染症の流行はこうして始まる、一種の連鎖反応だ。
 弾かれた一つの球は2つの球の突っ込むとしたが、これがこの頃よく用いられる“実効再生産数”rで(著者は“基本再生産数”と呼んでいる)、現ウイルスのrは2~2.5と見られている。
 さてある時点で75億個のビリヤードの球をその動作状態の相違から分類すると3つのグループに分けられる。
 (1)まだ弾かれたりしないで止まったままのビリーヤード
  (2) 弾かれた後運動をしているビリヤード
  (3) 弾かれたのち、2個の球に衝突し動きが止まったビリヤード
 感の良い読者ならお気づきだろう。これらを感染症に対応させれば 
(1)は未感染者(感受性人口)で、その総数をSで表示
(2)は感染者(感染人口)に相当し 新規感染者数をIで表示
(3)は隔離人口(抗体を持った人・完全隔離された人・犠牲者)と呼ばれ、その総数をRで表示
 とするとS+I+R=75億=一定。この3つからSIRモデルと呼ぶようだ。
 SもIもRも時間とともに変化するから、時間の関数で、数学の記号を用いて表せば、S(t)、I(t)、R(t)となる。Y1=S(t)、Y2=I(t)Y3=R(t)とも書けて、tによる関数の微分が可能となる 。
 関数だからt(時間)を横軸にしてのグラフ化も可能で、現にテレビでは“新規感染者数の推移”としてのグラフを表示している。しかし、そのブラフは感染者数を表すI(t)ではない。私達が見ているのは発見された感染者数の推移だ。(写真:右は東京都の日ごとの新規感染者数を棒グラフで表したもの)
 S(t)・I(t)・R(t)のグラフは『感染症と文明』に登場していた。次回のブログではそのグラフについて。

 


『コロナの時代の僕ら』(著:パオロ・ジョルダーノ 出版:早川書房)を読んで

2020年05月21日 | 読書

 『コロナの時代の僕ら』は実に解りやすく、示唆に富んだエッセイ集で、大きな感銘を受けた。手元に置いておいて何度か読み直したいと思っている。
 本書はイタリア人作家パオロ・ジョルダーノの著作の邦訳である。世界的に大流行している新型コロナウイルス感染症に襲われたイタリアで、ローマに暮らす著者が、2月29日から3月4日まで5日間に考え、感じた記録を、感染症にまつわるエッセイ27本としてまとめたのが本書である。
 更に、日本語版には、2020年3月20日付のイタリアの日刊新聞に掲載された「コロナウイルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと」が著者あとがきとして追加された。
 著者が「双子素数」をモティーフにして書いた『素数たちの孤独』はイタリアでベストセラーになり、日本でも人気を博したことは知っていたが、読んではいなかった。

 書き始められた2月29日(土)、世界で確認された感染者数は8万9千人を超え、中国だけで8万人近く、死者は3千人に迫っていた。10日後の3月9日には外出禁止令がイタリア全土に拡大された。
 多くの人がそうだったように彼の予定も全てキャンセルか延期され、空白の時間が生じた。その時間にこれらの文章を書いた狙いは2つあった。今後の予兆を見守り、「今回のすべてを考える理想的な方法を見つけること」と、感染症が「人類の何を明らかにしつつあるか」を見逃さないこと。その思索を綴ったのがこのエッセイだった。

 著者の専門は感染症ではなく、素粒子物理学を専攻したからか、「感染症の数学(=SIRモデル)」がビリヤードの球に例えて語られる。ここは非常に面白かった。招かれたパーティーに参加するか否か悩んだ末に参加を次回にお預けする心の動きが綴られる。招かれていったパーティーでは自分が弱気でいるのに回りの人々が楽観的であるの驚かされたりする、などなど・・・。この感染症の危険性を、様々な例を挙げて数学的に解説する前半が特に興味深かった。
 
 著者あとがきの文章は詩を読むようにリズミカルだ。
 大事なことは、コロナ禍終息後に、元どおりになって欲しくない、忘れたくないリストを書いておこうとして、“僕は忘れたくない”が何度も繰り返される。2つだけ挙げてみよう。
 “僕は忘れたくない。頼りなくて、支離滅裂で、センセーショナルな情報が、流行の初期にやたらと伝播されたことを”
 “僕は忘れたくない。今回のパンデミックスそのものの原因が、自然と環境に対する人間の危うい接し方、森林破壊、僕らの軽率な消費行動にあることを”
 読み終えると、押しつけがましくない“家にいよう”に共鳴し、気分がより落ち着いている自分がいた。

 
 
 
 

 


自粛疲れ? 夜歩きした青年

2020年05月18日 | 医療

 実は妻は平安時代の古典を多々読んでいて、その時代の感染症についても読み接するところ多く、あるところで「自粛疲れ? 夜歩きした青年」と題する文を書いていました。という訳で今日のブログはそれを拝借。

 『このコロナ禍、いずれは終息するのだろうが、どんな世界、社会が始まるのだろうか。

 もう、以前と同じとは思えないし、あまり明るくないものを考えてしまうのは、先が見えながら生きてきて、思考してきた澱のようなものが溜まって、心神をよどませているのだろうか。
 しかし、怖いながらも折角の転換に立ち会うことができるのも、僥倖ではあろう。嬉しくもないが。                      
 ところで、平安時代に大いに流行った感染症は、天然痘 麻疹 インフルエンザ である。 
 インフルエンザは、しはぶき、ひどい咳をする病をそう言い、他の咳の病も含まれるが、大流行して人々が死ぬのはインフルエンザである。貴賤平等なのが感染症で、紫式部のご主人中宮彰子の夫、一条天皇は31歳で、インフルエンザで亡くなっている。当時の天皇夫妻のことだから、同居しているわけではなく、従者も別なので、濃厚接触・家庭内感染も起きるはずがなく、彰子は、87歳まで生きた。感染は平等でも、庶民は、いくつものクラスターの中で、感染、死亡していった。
 青年の罹ったのは、麻疹であった。赤痘瘡(あかもがさ)と呼ばれた。かさ は、かさぶたの かさ、麻疹は赤い発疹がでるから あか、である。痘瘡(もがさ)=天然痘のようなあばた等は残らず、子供は比較的軽く済むのだが、大人になると命の危険があるのは ご承知のとおりで、ワクチンのなかったこの時代は、「ステイホーム」で、感染を収束させるしかなかった。
 そんな中、貴族社会では、中高年は飲み会に興じ、若者は夜な夜な遊びまわり、そして、命を落としたのが、和泉式部の恋人、弾正の宮為尊親王だった。
      
 『和泉式部日記』で描かれるのは、帥の宮敦道親王で、為尊の弟宮である。
 日記は、故弾正の宮の死を悲しみ嘆く日々の女のもとに、弟宮敦道親王の使いが訪れるところから始まっている。
 閉店休業中の和泉式部であるが、渋谷の夜に集まる若者たちをTVで眺めていたら、不意に、為尊親王に、お題が飛んだのだった。同じなんだよ。
 この方は、長保4年(1002)6月に亡くなっていて、26歳、今なら25歳だった。
 諸書によれば、物凄い美貌の、明るく親しみやすい、しかし軽はずみな遊好きの方であったようだ。
 『栄華物語』は、
 夜歩きが危険と、賢げに、皆がご忠告した。今年は前と同様に疫病が流行り、大路の脇にも死骸が多いのに、気にせずに、驚くほどの夜歩きの結果か、重篤になって亡くなられた。
と書く。道端の庶民の死骸など、夜目には目に付かなかったのかもしれないが、無知の若さの恐ろしさを思う。
  
 長徳4年(998)7月の日本最初の麻疹大流行の記録がある。
  天下衆庶煩疱瘡。世号之稲目瘡。又号赤疱瘡。天下無免此病之者。
 同じく長保3年(1001)は、
  始自去冬、至于今年七月、天下疫死大盛、道路死骸不知其数、
    況於斂葬之輩不知幾万人。
 
 人々に麻疹の免疫ができるまで4~5年も流行したのである。「自粛疲れ」の夜歩き=夜遊び、和泉式部だけでなく、女性達の家を訪ね歩いたのだろう。和泉式部には抗体があったのかもしれないね。
 ワクチンや特効薬が無ければ、抗体ができるまで家で待つ、感染症の対処は、千年前と同じなんだね。』