マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

再び「藍染川通り」を歩く(その1)

2019年12月29日 | 江戸の川・東京の川

 年末から年始にかけて図書館の本は3週間ほど借りられる。この間は勤務は無いし宿泊旅行にも出掛けない。そこで数冊本を借りてきて読み始めている。その中の一冊『暗渠マニアック!』には都内の河川・用水・暗渠が紹介されていて、その一つ項に「もうひとつの藍染川、のものがたり」があった。












 染井墓地付近の湧水を水源の一つとする谷田川は下流では名を藍染川と変え、不忍池へ注いでいた。その谷田川を道灌山付近で分岐し、トンネルで道灌山下を潜り、西日暮里からの下流は開渠で京成本線沿いに町屋駅を経て荒川(現隅田川)へと注ぐ水路が造られていた。そのことは2012/10/232012/10/29のブログに書いていたが、幾つかの宿題を抱えた上で話を終えていた。この解答ともいうべき事柄がこの本では「もうひとつ藍染川」として詳しく紹介されていた。もう一度その暗渠通り(「藍染川西通り」と「藍染川通り」)を歩きたくなり、1225日(水)に出かけて来た。その様子は次々回にして、この本を頼りにして「もうひとつの藍染川」をまとめておきたい。
 道灌山下で分岐した水路は1915(大正4)年から工事が開始され1918(大正7)年に完成した。それ以前、藍染川は谷中や根津あたりで度々氾濫しその水害は深刻だった。その対策として考えられたのが三河島方面に大排水路を設けることだった。
 台東区や文京区の水害を減少するために荒川区(当時の三河島区)が犠牲になるこの工事について『新修荒川区史』には次のように書かれている。「台東区方面の溢水のための困惑を救うため、わざわざ区内に下水を設定し荒川に導くという事業で、これが現況においてはむしろ区民にマイナスの作用をしている。(中略)三河島区民を犠牲にして東京市民のためをはかったものであったといい得るのである」と。

 造られた当時の流路を現在地図(右図)で説明すると、A地点(道灌山下)からB地点の西日暮里駅付近まではトンネル。そこからはほぼ京成本線に沿ってB→C(新三河島駅)→D(町屋駅)→E(町屋斎場前)→と進み、最後はFで隅田川に注いでいた。(Eで現「三河島水再生センター」方面へも分流していたらしい)。
 B地点から下流は開渠だったが、全てが暗渠化されたのは1960(昭和35)年だった。暗渠の上側は自動車が通れる通路となり一時は「暗渠通り」と呼ばれたが、現在ではB⇔明治通り間は「藍染川西通り」、明治通り⇔F間は「藍染川通り」と名称変更している。一方、暗渠の内側は「藍染川幹線」と名付けられている。当初「谷田川排水路」と、そつけない名を付けられていたが、現在では、哀惜を込めてか“藍染川”は荒川区内の道路名と暗渠名にその名を留めている。


プロジェクターを購入

2019年12月26日 | 文高連

 文高連の機関誌『文高連だより』に投稿を依頼して来たMさんから、11月に入って、小林会長を通じて「私達のクラブの誕生会でお話をしてくれませんか」との話があった。『だより』には“散歩おたく”と題したものを綴ったのだが、それに類する話をして下さいとのことだった。
 
OKしたいと思ったが少し躊躇った。私は洒脱に話が出来る人間ではない。12月の「協働のまちづくり講座」でもプロジェクターを通しての映像を頼りにして語ったのだった。プロジェクターが準備可能ならばこの話引き受けてもいいなと思った。高齢者クラブは普通プロジェクターを持っていないし、開催を予定している活動センターにもプロジェクターは置いていないとのことだった。
 行政書士を開業していたころプロジェクターがあればいいなと思ったことがあり、量販店に行って調べると少なくとも10万円はして手が出なかった。最近はどうかとネットで調べると、多くは4万円から5万円はするが、“人気ランキング”10位以内に何と1万円台のものが登場していた。多分外国製のものだろうが、これならば手が出ると思い、思い切ってAmazonでネット注文した。「YABER Y60」プロジェクターという製品で、ネット価格は11900円だった。
 製品が届いても果たして写るか不安があったので、用事で「こまじいのうち」に電話した際にプロジェクターの有無を聞いてみると、最近購入したとのことで「何時でも使っていいですよ」との話。ネット注文にしろ、こまじいのうちから借りるにしろプロジェクターの手配は可能となったので、小林会長を通じて依頼された話「OKです」との返事をした。(写真左上の4200LMとは明るさのレベル。最低2000LMは欲しいとされている)



 注文して2日後に製品は届いた。やはり外国製のもので、マニュアルは英語で書かれ、日本語版は簡素化されたものだった。設定で苦労したがなんとか何とか写った。更に本駒込地域活動センターでも試してみた。外部からの光をほぼシャットアウトすれば良く見えた。(プロジェクターとパソコンを接続する右のような部品は職場でもよく見ているがその品名がVGAケーブルということも初めて知った)。ホームシアター用としても使用してみたい。


朝の散歩は田端へ(その2)

2019年12月23日 | 東京散歩

 12月11日から今朝までに4度ほど朝の散歩は田端へ向かった。田端には有名な「田端文士村記念館」があるし、文豪達の足跡も多数残されていて、そこを散策するのは楽しい。しかし、それ以外に田端周辺の散策の楽しみは高低差の大きさを実感できることにもあると改めて感じている。(右の写真は東台橋からの眺め)
 田端駅周辺の高低差は実は“4階建”になっているのだ。
 山手線などの線路や田端駅ホームを1階とすると
 2階は田端駅北口改札で、改札を出たところが都道458号線
 3階は関越新幹線などの新幹線
 4階は高台通りで、田端切り通しには東台橋が架かっている







 少し詳しく記す。田端へJR利用でやって来たとしよう。下りたホームを1階とすると、そこから30数段の階段を昇れば北口改札でそこが2階となる(南口改札も2階)。北口改札を出れば目の前が都道458号線で、新田端橋が架かり都バスが通っている。そこから田端切通の方へ少し進むと東台橋へ登っていく階段がある。62段の階段を上り切ったところが高台通りでこの辺りの最高点。ここを3階ではなく4階としよう(その理由は後ほど)。ここは上野台地の一角で、東台橋はからの眺め抜群である。(写真:高台通りへと続く階段)
 東側には広々とした風景が広がる。新田端橋と直角に立体交差しているのが新幹線。東北新幹線・関越新幹線・北陸新幹線などが数分おきに通過していく。その線路架橋は4階よりもほんの少々低く、2階の新田端橋よりも高い。高さで言えば、両者の中間を走り抜けていく。そこでここを3階と考えた。
 
 
この2階と4階の間は人の移動が可能で、多くの人が往来していて、その通路は4本。
 その1。上に書いたように西口改札口から東台橋へと昇る階段は62段。
 その2。東台橋を少し北に進むと江戸坂がある。この坂は現在は4階と2階を結んでいるが、江戸時代は4階から1階へと通じていたはず。明治時代に鉄道が開設されため途中で切り捨てられてしまった。西日暮里・上野間の幾つかの坂と同じ運命にあっている。(写真:江戸坂)





 その3。東台橋を南に進むと南口改札へ降りる階段50段がある。今は階段が造られているが、かっては坂で地蔵坂と呼ばれていた。この南口改札は山手線改札のなかで最も小さいと思われる建物。北口改札と好対照でここを通過するひとは少ない。(写真は右は南口改札へ下る階段。下は南口)




 その4.高台通りから南口改札へと通じるコンクリートの道路があり、自動車が通行可能。私は観ていないが『天気の子』にここが登場していると思える一シーンがある。(右の写真は『天気の子』の一シーン。下は南口改札へ下る階段と新幹線)

 

 






 


「協働のまちづくり講座」を語り終えて(その2)

2019年12月20日 | 学び舎

 12月14日に行われた講座の副題は「本駒込周辺の魅力と歴史を中心に」で、聞きに来た方の中には本駒込に長年住んでいる方や冨士講の方もおられ、本駒込について詳しい方もおられるはず。そこでそれらの方々が「初めて聞いた話」と思われる事柄をいくつか用意しておいた。ここでもその幾つかをここでも綴る。







 ①現在の六義園「大泉水」の水は江戸時代、柳沢邸から江岸寺や圓通寺の門前を流れ、白山下を通り、春日で小石川に合流していたこと。これには所謂「海老床地図」の一部をお渡しして示した。













 ②柳沢邸の一部は大正時代に理研が設立されたが、それ以前には巣鴨病院が開院されていた。そのことは小石川高校資料室にあつた「小石川検定95」にも登場していると説明した。












 ③「道坂」がそう呼ばれる所以は江戸時代その場所に赤目不動が祀られたことに端を発するが、明治26年、そこから「太古の遺跡」が発見され、その記念碑は南谷寺と徳源院に存在すること。
 ④水上勉の『私版 東京図絵』には「私の父が建てた目赤不動は道坂途中にあった」と記されている。彼のお父さんは宮大工で、1940年に、彼は蓬莱町の飯場で働いていた父を頼りに上京し、赤目不動跡を案内してもらっていた。1994年に再訪した際にはそこには何も無く、ご近所の方に聞いて徳源院を詣で石碑「太古の遺跡」に再会した。












 
⑤縄文海進により文京区の一部も入江となり現在の不忍通の辺りは海だった。本郷台地東端崖線には幾つかの貝塚が形成され、その一つ「駒込神明町貝塚」は「文京ふるさと歴史館」の文化財一覧に登録されていること。











 ⑥富士神社鳥居の左横に「富士   」との碑がある。この削り取られた部分は“大権現”と書かれていたはず。安政時代の地図には「富士浅間神社」と「真光寺」が併記されている。ここでも廃仏毀釈は行われ、その石碑はその名残と推測できること。
 などなどを語った。


「協働のまちづくり講座」を語り終えて(その1)

2019年12月17日 | 学び舎

 田端の話は後日に回します。
 12月14日(土)、文京区勤労福祉会館(以下勤福)で表題の話を終えてほっとしている。
 開演は10時からだったので9時少し過ぎには会場に到着すると、助太刀をお願いしていた菅原さんは既に着いていた。私たち二人はパソコンとプロジェクターを立ち上げ、勤福のスタッフは椅子のセットをして準備完了。参加をお願いしておいた深谷在住の石野さんも遠路はるばる駆けつけてくれた。席は30以上用意され、机は使用しなかった。10時には30名を超える方々が席を埋めた。


今回のテーマは「本駒込周辺の魅力と歴史」について。所長さんに紹介された後、語り出したが少し緊張していたと思う。本駒込に住んで僅か36年に過ぎない私は自分を“本駒込の新人”と思っている。その言わば新参者が本駒込について語る経緯から話を始めた。
 話の構成はA「素顔の本駒込」、B「本駒込の歴史に触れる」、C「アド街ック本駒込」の3本とし、Aに一番時間をかけた。使用した主なソフトはパワーポイントで、場所等の説明には「江戸東京重ね地図」に切り替えた。このソフトは江戸時代の地図が瞬時に現在の、同じ場所の地図と入れ替わる。登場させたのは天祖神社・富士神社・南谷寺などの神社仏閣に六義園・動坂貝塚など。聴いている方々が知っている事柄もあったが、初めて知ると思われる内容もいくつか用意した積り。内容の話は次回とすることにして・・・。(以下も含めて写真はいずれも石野さん撮影のものを使用)

 11時35分には話を終えた。話を聞いての感想が耳に入ってきた。概ね好評だったのでホットした。今までの講座のなかで一番面白かったと嬉しい感想を述べた方もいた。お世辞にも「この続きを又」と言われて嬉しかった。語りたいことの70%くらいしか語れなかったと思うがそれも良しとしよう。メールには「若々しいお声で」ともあった。自慢ではないが声だけはいつも褒められる。
 私がお声を掛けた方々は、向丘元同僚・ボウリング仲間・富士前福寿会などの高齢者クラブ会員・ラジオ体操仲間・富士前町会の会員などで、その分だけで合計12名の参加があった。

 会終了後菅原さん石野さんと「三菱養和スポーツクラブ」へ。そこには「本駒込活動センター」での『土佐日記』を終えた源氏の会の11名がすでに到着していて、合流して昼食。私達3名は生ビールで乾杯。格別に美味しかった。