マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

玉川上水を歩く(その2)

2021年11月26日 | 江戸の川・東京の川

 11月11日(木)に辿ったコースを詳しく書いておくと、  
 四谷大木戸跡→内藤新宿碑→内藤新宿分水散歩道→新宿高校脇→新宿南口陸橋→葵橋碑→文化学園前→代々木緑道→初台駅→玉川上水緑道→中野通り(五条橋)→三田上水分流点→笹塚駅

 新宿御苑大木戸門の傍らに「内藤新宿開設三百年記念碑」が設置されている。日本橋を起点とする甲州街道の最初の宿場「高井戸宿」までの距離が長過ぎるなどの理由で、1698年浅草阿部川町の名主・高松喜兵衛らの願いにより、新たな宿場として「内藤新宿」が開設された。それを記念して今から23年前に造られた碑で、“内藤”の名は忘れられがちだが、“新宿”はビッグネイム として今に残っている。



 四谷大木戸から新宿御苑新宿門手前までは「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」が整備され、散歩道脇を小川が流れている。森林浴が楽しめる散歩道。 











 新宿御苑新宿門まで来ると都立新宿高校が視界に入ってくる。円形にカーブする塀に沿って進むと敷地内に石碑と石樋が見えてくる。ここに「旭橋」があったことを示す親柱碑だが、許可なしには校内に入れない。この日は塀の外からの撮影。
 この地点は青梅街道と甲州街道が交わる地点で、旭橋この地点の旧名「旭町」からの命名とか。石樋は下水路に用いられたもの。




 新宿駅南口陸橋横に「バスタ新宿」があり、久しぶりに4階のバス発車場へ。ここで昼食を購入。
 甲州街道に別れをつげ、最初の道を左折すると、漸く上水の暗渠部分を辿ることが出来るようになる。南新宿ビル入口に「葵橋の記」が掲げられていて、橋の名前はこの辺りに紀州徳川家の下屋敷があったことに由来すると書かれている。徳川家の家紋葵からの命名。この先労災会館までの、短い通りが葵通りだ。





 ここから京王線幡ヶ谷駅付近までは、京成線(地下)に沿う様に、その南側を進むが、暗渠部分は代々木緑道や玉川上水緑道として整備されている。そして多くの“橋”を越えることになる。橋の役割は既に終えているが、欄干が残されそこに橋名が刻まれている。
 今回の上水行にあたり、下調べは「江戸・東京重ね地図」と『街の達人 7000分の1』地図を用いた。重ね地図は江戸安政時代のものだから、当然玉川上水が描かれている。

 幡ヶ谷駅を過ぎると上水は南西方向に曲がり始める。現在の中野通りと交差する五条橋付近がヘアピンカーブで、今度は北上を始める。暫く進むと水路が見えて来る。一瞬の開渠である。この辺りが三田上水の分流点らしいが、それを伺わせるものは何も残されていない。ほどなく笹塚駅着。今回はここで終了。歩いた歩数は約18.000歩。




玉川上水を歩く(その1)

2021年11月19日 | 江戸の川・東京の川

 11月6日(土)の、NHK番組『ブラタモリ』は「江戸の水~江戸の水が東京を潤す?~」と題して「玉川上水」を取り上げていた。何時かは歩こうと考えていた玉川上水、この番組に背中を押された格好で、全コースの完歩目指して歩き始めた。
 多摩川の水を羽村取水口で取り込み、四谷大木戸までの約43km。現在も水路として機能している部分もあれば、暗渠となり旧玉川上水路と呼ばれ、下水路や排水路に変貌した部分もある。兎も角その全行程を歩こうと思った。1日で全行程を歩いてしまう猛者もいるらしいが、私は5・6回に分割して散策することにして、まずは11月11日(木)に四谷大木戸をスタートし京王線笹塚駅付近まで歩いた。 



 歩き始める前に江戸の六大上水を俯瞰しておこう。
 開設された順に、神田上水、玉川上水(1653年に開設)、本所上水(別名亀有上水)、青山上水、三田上水(別名三田用水)、千川上水となるが、三田上水と千川上水は玉川上水を分水して開削されたので謂わば子筋、玉川上水こそが最大水量を誇り、長さも最長だった。(この地図は東西が逆になっている)




 「東京都水道歴史館」のパンフレットによれば「玉川上水の歴史」には次の様に記されている。
 「承応元(1652)年、幕府は多摩川の水を江戸に引き入る計画を立てました。庄右衛門、清右衛門兄弟を工事請負人に任命し、工事の実施が決定しました。承応2(1653)年4月4日に工事に着手し、羽村取水口から四谷大木戸までをわずか約8ヶ月で開削しました。羽村から四谷大木戸まで約43キロメートルの区間を約92メートルの標高差(100メートルでわずか21センチメートルの高低差)を利用して水を流すように設計されており、当時の水利技術の高さがうかがえます。(中略)工事に尽力した兄弟は、褒美として玉川の姓を賜りました」

 さて、11月11日は次の様に進んだ。
 四谷大木戸跡→新宿高校脇→新宿南口陸橋→文化学園前→代々木緑道→初台駅→玉川上水緑道→五条橋→三田上水分流点→笹塚駅 
 (写真は「四谷大木戸跡」の碑)









 四谷大木戸から先は石樋や木樋で江戸城はじめ、四谷、芝、京橋方面に至る市内南西部に給水されたが、上水の終点としては四谷大木戸。その地点に水番小屋が置かれ水量の調節をしたと思われる。新宿通りに面して、大きな「水道碑記」が建てられている。
 


浅丘ルリ子主演の映画『執炎(しゅうねん)』を観る

2021年11月12日 | 映画・美術・芝居・落語

 東京新聞の夕刊に『あの頃、映画があった 再発見!日本映画』という記事が時折載る。10月4日(月)には浅丘ルリ子の映画出演百本を記念して作られた蔵原惟繕監督作品『執炎』が登場していた。この記事に紹介される映画のみならず他のメディアにも登場する日本の“古い”映画を観たいと思うことが時々あった。知人に紹介されたNetflix に加入したこともあったが、見たい映画に出会う確率は低かったので値上げを機会にこちらは脱会していた。

 『執炎』は旧余部鉄橋が登場するということがあり何とか観たいと思い、TSUTAYAの無料お試しサービスに入ってみたがこの作品のネット配給は無く、こちらも事前に脱退した。これらの経験を通じて『執炎』観賞はほぼ諦めていた。ところが・・・。
 10月13日にパソコン教室「ばんゆう」に行き、講師の先生に2つの質問をし、正解を教えてもらった最後に、「日本の古い映画を多く見られるサイトはありますか」と問うと、「Amazonが良いです。Amazonは元々映画会社でした」とのことだった。早速その場でアマゾンにアクセスすると、なんと最終的に『執炎』に到達した。その時の先生の言葉に驚いた。「あれ、Amazonの特別会員になっていますから無料で観られますよ」と。はっきりと認識していなかったが妻がネット購買便宜の為、ここの会員になっていていたのだった。帰宅してこのラッキーな話を話題にしたあと直ぐに映画『執炎』を観た。

 戦前の山陰地方の漁村が舞台。網元の長男、拓治(伊丹一三)は、山奥に迷い込み、小さな集落に辿り着く。そこは平家の落人の隠里で、美しい娘きよの(浅丘ルリ子)に出会い、二人は恋するようになる。二人は愛し合い、拓治が3年の兵役を終えた後結婚する。


 戦争が激しくなるなか、拓治は招集され戦地で重傷を負い佐世保の病院に収容されるが、きよのの懸命な看病で一命を取り留める。きよのが育った山里で二人だけの生活。リハビリの結果足腰も完治、幸せな日々。そこへ再び召集令状が届く。親友泰子(芦川いづみ)の夫が死亡したことも聞かされ、精神のバランスを崩し始めるきよの。
 拓治は沖縄で戦死し、周囲はその知らせをきよのには隠しておいたが、きよのは拓治の死を知ってしまい、海に身を投じてしまう。

 浅丘迫真の演技である。拓治と手をとりあって里山を駆け巡るときの弾けるような笑い。余部陸橋上のラブシーン。2度目の出征を見送ったあとの放心した姿。海でや海中でのヌードシーンにははっと息をのむ。
 「十三」と改名する前の伊丹が若々しい。郵便配達人は赤紙配達人となり、死亡通知も配達するようになり村人から忌み嫌われる。この役を演じる宇野重吉の存在感がたっぷり。
 東京五輪後約1ヶ月後の作品で、反戦への強い思いがごく当たり前の様に作品を貫いている。


東京歴史散歩は上野台地へ

2021年11月05日 | 東京散歩

 都高教退職者会の、今年の東京歴史散歩は上野台地へ。10月30日(土)は快晴だった。ただ、参加者は担当の私を含めて僅か3名、過去最少の人数だった。目的地の選定に問題があったかも知れないが、やはりコロナの影響を受けていた。参加常連の向丘元同僚2名からは何の連絡もなかった。電話連絡のあった参加希望者から懇親会の有無を問われ、「今年は見送ります」と答えると、「それでは参加しません」との返答。退職者会の幹事の方々は翌日に宮城の震災地を訪ねる旅に参加する為、前日には休養が必要だった。等々がなければ例年通りの参加者はあったかもしれない。(写真はコース中ほどにある田端切通し。1933年に造られた)
 参加者2名はいずれも私がよく知っている方で、向丘高校元同僚の菅原さんと日退教の松渕さん。松渕さんとは機関紙編集の会議で3年ほどご一緒したことがあった。二人とも東北の出身で、共通の話題が多々あって、3人でお喋りをしながら、日当たりのよい上野台地を散策したのでありました。
 武蔵野台地の東端に位置する上野台地は標高20m前後。南端は上野公園で、北端は田端辺りまでかも知れないが、今回は王子までご案内した。コースの概略は、
 西日暮里駅→諏方神社→西日暮里公園→道灌山遺跡→田端台公園→田端切通し→田端文士村記念館→(北区Kバス)→平塚神社→西ヶ原貝塚跡→七社神社(七社神社前遺跡)→飛鳥山公園

 このコースの特徴はコース上に3つの縄文・弥生遺跡が存在することで、出発地点の諏方神社でこのコースの地理的状況をお話した。その為には是非とも地図写真が必要。A3の用紙にプリントしたものを用いて説明するのに上手い方法に気が付いていた。政党などが壁にポスターを貼る際に使用する小道具を利用することだ。神社一角置かれている掲示版にA3の写真を右の様に張り付けての説明。(写真右がプリントを張り付けた状態。下は四隅の一角)
 

 ここでは上野台地の特徴を3つ説明した。縄文海進の頃には台地両端は海で、それ故貝塚跡が多々見られること。見晴らしが良く、明治・大正の頃は多くの文士が住んだこと。台地の幅の狭い箇所に切通が造らたことなど。

 田端台公園では休憩後、諏方神社での方法と同じように、安政時代の地図プリントを用いて“崕雪頽”と呼ばれる地形の説明。台地と低地の間の急斜面は“崖雪崩”と名付けられ、これが西日暮里から王子まで続き、明治時代にこれを切削して山手線と京浜東北線が開通されたことを話した。(写真は安政時代の地図)






 3つの遺跡には当然発掘された土器などは展示されていない。道灌山遺跡の出土品は「荒川ふるさと文化館」に、西ヶ原貝塚と七社神社前遺跡のそれは「北区飛鳥山博物館」にそれぞれ常設展示され、冊子も発行されている。このイベントに先立ち冊子を購入しておいたので、そこに掲載されている土器の写真をお見せした。(写真は道灌山遺跡から出土した弥生土器

)







 途中、北区のコミュニティーバスのKバスを利用したとはいえ、かなりの距離を歩いた。散策終了後の懇親会は開催しなかったが、3人で昼食を共にし今回の歴史散歩を終了。お二人とも「楽しかった」との感想で、開催者としては胸を撫でおろしたのでありました。(写真は西ヶ原貝塚剥ぎ取り標本)