マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

江戸城外堀跡を歩く(その2)

2022年06月03日 | 東京散歩

 1603年に江戸幕府が開かれた当時、江戸水系の中心は日比谷入江に流れ込む平川だった。約400年前に「江戸」を中心に、巨大都市建設が進められるにしたがって、平川をはじめその周辺の川のありかたも大きく変化してきた。現在、平川という名の川は東京には存在しない。かつての平川の現在名は神田川で、三崎橋下流で分岐し日本橋川となる。
 その平川の付け替えは1620(元和6)年に着手された。三崎橋→駿河台(神田山)→柳橋を経て大川に至る水路が開削された。現在、お茶の水の聖橋から眺められる神田川がそれである。この工事により平川下流の洪水がなくなり、江戸湊の埋没を防止できた。同時に三崎橋から飯田橋堀留間の平川流路は埋め立てられ、その下流が外堀となった。外堀建設は橋や御門建設と同時に進められたので、日本橋流域に外堀名残の御門跡やその石組み跡が多く見られる。
 安政地図はそれより200年以上後の様子が描かれたものだが、大きな変化はないだろうと推測し、地図上調べると雉子橋・一橋御門・神田橋御門(鎌倉河岸も)・常盤橋の名が見え一石橋を最後に日本橋川とはお別れとなる。ここから先の外堀跡は現在の外堀通りとなっている。 
 20日(金)9時20分雉子橋をスタートした私は、一ツ橋→錦橋→大手町川端緑道→神田橋→鎌倉橋→竜閑さくら橋→常磐橋→一石橋→外堀通り→東京駅前→新橋駅と進み、三田線内幸町駅に到着した。

 ①雉子橋・・・この橋のすぐ傍に雉子橋門が建てられていた。説明版には「家康が朝鮮からの使節をもてなすための雉をこの付近の鳥小屋で飼育したことが橋名の由来。1629(寛永6)年に江戸城外郭門の一つである雉子橋門が建造され、橋が架けられた。橋は1903年に鉄橋に改架され、1923年9月1日の関東大震災で被災したため、1926年に新たに架けられたのが現在の橋です」とある。(写真はいずれも橋付近での撮影)


 ②一ツ橋・・・一橋門についての説明文には「一橋門は、徳川家が江戸城に入った頃にはすでに架けられており、大きな丸木が一本架けられただけの橋であったことから、この名がつけられたと言われております。この石垣は、1629(寛永6)年に建造。1873年に撤去されており、現在では河岸にわずかな高石垣だけがの残っています。現在の橋は1925年に架けられた関東大震災の復興橋梁の一つです。」とある。(右写真は掲示されていたもので「旧江戸城写真帖」より)


 

 ③大手町川端緑道・・・本郷通りと外堀通りの間の日本橋沿いは緑道として整備され、多くの樹木が植えられて木名も添えられていいる。都心のオアシスといった趣き。私はここで一休みし、喉を潤した。



 ④神田橋・・・すぐ傍に作られた神田橋御門跡の説明
 「ここは、芝崎口門、神田口門、大炊殿橋門とも呼ばれ、将軍が上野寛永寺の参拝に行くための御成道となるため、門の警備は厳重でした。門は、1629年に下野真岡藩藩主稲葉正勝によって建築されました。対岸の鎌倉河岸は江戸城築城の資材を荷揚げする河岸場だったので、この門の役割は重要でした。
 1873年に櫓門が撤去され、1884年に木橋が架け直されました。道路の拡張と市電の開通に伴い改修され、関東大震災で焼け落ちた後、新たに架橋されました。現在の橋は1980年に改架されたもので、木橋風の意匠に、灯籠風の親柱、石造風の高欄を組み合わせています」と。(上の写真は掲示版の「旧江戸城写真帖」より)
 

 ⑤鎌倉河岸・・・神田橋御門対岸の鎌倉河岸の跡の説明。「神田橋から鎌倉橋周辺は江戸時代から鎌倉河岸と呼ばれています。徳川家康が入府した際、鎌倉から石材を運び込み、この河岸に陸揚げしたのが名前の由来です。この河岸は魚や青物などの生鮮食品をはじめ、木材や石材などの物資が集まるところで、水上交通のターミナルとして賑わいました。」(写真下は掲示版の「江戸名所図会」から)
 


 ⑥竜閑さくら橋・・・この橋は2018年3月に開通した歩行者専用の橋で、この橋を渡ると日本橋川の対岸に行かれる。大手町と神田のアクセスが向上したらしい。幅7m、全長120mもある。橋の高さはJR山手線などと同じ、新幹線の通過の様子も見られる。日本橋川を見下ろすことが出来る面白い橋だ。







 

 ⑦常磐橋(江戸時代は常盤橋)・・・2021/5/2のブログに書いていた。












 

 ⑧一石橋・・・その歴史の説明版があった。
 「一石橋は寛永年間またはそれ以前から存在した橋である。左の写真に見られる一石橋の姿は大正11年に架け替えられた当時の姿で、アーチ部分の石積み、重厚な石の高欄や親柱、照明などの細部に至るまでデザインの施された橋であり、当時の時代を感じさせる西洋的でモダンな印象をかもし出している。以下略」(写真は掲示版より)







 一石橋を過ぎ、「西銀座通り」と名付けられた、外堀通りを歩き新橋に至った。

 


 
 
 


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2 コメント

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平川 (馬場紘二)
2022-06-04 21:07:08
この平川は、現在も「平川門」として、その名を残しています。太田道灌築城時は、上平川村、下平川村があったそうで。江戸城の三の丸の正門、「お局門」「不浄門」とも言われますね。
Unknown (マーちゃん)
2022-06-07 05:56:27
平川門のことは皇居周回ランニングをしていた頃から知っていました。ランニング仲間の集合場所にもしました。
平川が平川門と平川濠に名を残していることは、内堀について書く機会があればそこで触れようかなとも思っています。

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