マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

飛騨古川で(その1)

2013年05月31日 | 

 今、飛騨古川の湯宿「季古里(きこり)」に来ている。本当は5月上旬に訪ねる予定だったが、親指負傷の為、ほぼ1ヶ月遅れの旅。5月29日(水)~6月2日(日)まで蓼科に滞在し、清掃などの”小屋開き”の準備。その2日目、諏訪 I Cから高速道路に乗り、安房トンネルを抜けての飛騨古川、一昨年10月以来2度目の訪れだった。
 ただ残念ながら、東海・北陸地方は例年より10日早い梅雨入り。その影響でここ古川も雨。結果として、昨日は街歩きというより、雨中の食べ歩きとなってしまったが、図らずも飛騨の食の豊富さに巡り会った。
 安房トンネルを越えて飛騨地方へと下る国道158号線沿線にあったのが「LUFT  HIDA」。飛騨牛を使用しての生ハム・ソーセージなどの牛製品作り。飛騨牛のステーキにそれら加えてのランチとディナー。私たちはランチを食したが、ウインナーが3本が乗ったライスに、別盛りのビーフカレー、更に大根のポタージュ付き。食後のコーヒーも含めて1200円。開店1年目との事で初めてその存在を知った。開店記念セールでお土産を買うご婦人一行を眺めるにつけ、土日の混雑ぶりが目に見えるようだった。(写真:LUFT HIDA の建物)




 街中で出会ったのが、蒲酒造場の「白真弓」。登録有形文化財の建物の中で作られる清酒。家人のみが利き酒をし、車運転の身の私は、そこでは飲酒が叶わずワンカップを購入。宿で飲すると、豊饒な辛口。他にも「蓬莱」などの造り酒屋があり、古川は”酒豪の街”とのキャッチフレーズも嬉しい。(写真:白真弓の看板)







 「壱之町珈琲店」の店構えも古き町並みを醸しだし、店内に入るとレトロな雰囲気で、家人がアイスクリームを注文すると、そこに「スカンポジャム」が入っていて、珍しいジャム。「農業生活」なる雑誌にも登場していて、その味を東京でも味わおうと購入してしまった。(写真:壱之町珈琲店)









 湯宿「季古里」は飛騨地方人気ナンバーワンの宿。その人気の秘密は、サービス・湯・味の3点にあるようだが、何と言っても一番の人気は料理。昨日も、飛騨牛の陶板焼きと山菜天らに加え、心づくしの品が多数ついて、宿泊費は4桁止まり。この値段の安さも人気の秘密か。建物は「中部建築賞」を受賞。中国人と思われる団体様一行30数名の方が楽しそうに談笑していて、久し振りに見る光景に、こちらも嬉しくなって、「桃源郷温泉」の湯にゆったりと浸かった(写真:季古里の庭と内側の建物)







        (写真:夕食の前半)


『河鍋暁斎の能・狂言画』展を観る

2013年05月29日 | 映画・美術・芝居・落語

 またまた、家人の友人Fさんからチケットを頂き、家人に同行して、5月26日(日)に三井記念美術館へ「河鍋暁斎」展を観に行ってきた。私が初めて鑑賞する画家で、その写実的で生き生きと表現された人物描写に吃驚するとともに、絵画鑑賞の楽しさを味わあわせて貰った。いわば二人の女性に後押しされて垣間見た世界。

 河鍋暁斎は、江戸末期から明治へと時代が大きく変貌を遂げる激動のときを生き、風刺画家と呼ばれ、特にユーモラスな妖怪を数多く描いた画家として知られているらしい。しかし今回の企画は、彼のそれまでのイメージを一新するかのような、能や狂言を演じる役者を描いた作品を中心に構成した展示で、初めての試みとか。
 第1章は「河鍋暁斎と能・狂言の関わり」で、もともとは正当な狩野派の絵師であり、能や狂言を自ら演じる画家であったと紹介されていた。

 第2章でその暁斎の描いた肉筆・屏風・掛け軸などが展示されていた。添え文で、能・狂言の舞台のあらましが紹介され、その一瞬を描いた屏風絵は、まるで人が、今にも動き出すのではないかと思える様な臨場感に溢れ、写実的な描写。能・狂言を演じ、劇芸術を深く理解していた暁斎の鋭い感性をもって、初めて描き得た世界とも紹介されていた。
 私は、特に「伯母が酒図屏風」と「山姥と金太郎図」が面白かった。「伯母が・・・」は、酒屋を営むけちな伯母を騙し、鬼の面を着けて酒屋に押し入り、シコタマ酒を飲みくらう甥。驚き身を伏せる伯母と、酒樽を抱きしめる甥のリアルな絵を飽かず眺めた。ただ「唐人相撲図」と、すっくと立つ、若き女性が登場する「山姥図」は前期のみの展示で、これらは残念ながら図録で眺めただけ。
 
 下絵やスケッチ、錦絵・版画も展示されていたが、下絵「能”道成寺”(鐘の中)下絵」では、暗がりの鐘の中ので、清姫が蛇身に変身する様子が手に取るように描かれている。ローソクが灯され、使用した小道具が吊るし紐に掛けられる細部までの描写で、他の展示ではお目に掛れない珍しい絵に、一人私は嬉しくなってしまった。
 帰宅して調べて見ると、彼は、湯島の霊雲寺の法弟になって是空入道を名乗ったとか、神田川で拾った生首を写生し周囲を吃驚させたという逸話も散見され、遠い昔のことではあるが、我が町からそう遠くないところに住んでいたことも知った。

 展示は4月20日~6月16日。三井記念美術館の本展示のURLは  
 http://www.mitsui-museum.jp/exhibition/index.html 


『先祖になる』を観る

2013年05月27日 | 映画・美術・芝居・落語

 観終わって、清々しい思いに満たされ、気力が湧いてくる映画だった。

 5月18日(土)、家人と両国にあるシアターX(カイ)に出掛け、池谷薫監督作品
「先祖になる」を観てきた。2011年3月11日の大震災で壊滅的打撃を受けた陸前高田市気仙町荒町地区。主人公は佐藤直志さん(当時77歳)。消防団員の長男を大津波に奪われ、自宅は2階まで水につかり、自身は生き残った。佐藤さんのその後の生き方に密着して撮影したヒューマンドキュメンタリー。




 カメラは、主として佐藤さんに語らせ、時として彼をサポートし続けて来た菅野剛さんにも登場を願う。次第に明らかにされることは・・・。
 震災からひと月後、妻や嫁を初めとして、ほとんどの住民が避難所暮らしを送るなか、きこりを生業とする彼は、ひとり自宅に住み続けた。立ち退きを要請する市職員とは「息子と先祖の霊を守るため絶対にここを動かない」と激しい口論を交わし、避難要請を拒否。
 かくして、彼は5月には田植えをし、そばの種をまいた。住民総会では、町を再生する礎となるため、元の場所に家を建て直すと宣言し、森に入りチェーンソーで木を切り倒す。(直志さんの熟達さが見事な映像として表現された場面)。
 夏には、若者達と山に入り、900年続くと言われる「けんか七夕」の山車の骨組みの藤ヅルを切りだす。仮設住宅完成後も、電気・水道のない自宅でひとり暮らしを続け、遂には自力で家を完成させてしまう。新築の自宅で気持ち良さそうにお茶を飲む直志さん。映画はそこで終わる。

 長男を失い、家を破壊され、裡に秘めた悲しさは深いものがあっただろうに、ユーモアを忘れず、常に明るく行動しインタビューに応える直志さん。そんな直志さんを黙々と手伝う菅野さん(当時62歳)。大地に根を張って生きる人の強さが伝わって来る。
 題名が謎かけのような「先祖になる」。謎が少し解けた様に思える。
 大津波に遭遇した後には高台移住しかないと考え、ブログにも書いたことがあった。その浅はかさを思い知らされる映画だった。
 映画終了後、池谷監督が司会となり佐藤さん・菅野さんへの生インタビュー。佐藤さんはオシャレで、明るく、達筆でもある事も知った。右は、買ったハンフレットの裏面へサインをして貰ったもの。

 本作品はベルリン国際映画祭でエキュメニカル賞特別賞を受賞し、香港国際映画祭ではグランプリを受賞した。
 
 


 
 


後藤政志氏講演を聴く

2013年05月25日 | 学び舎

 4月20日(土)、脱原発派の論客として著名な後藤政志氏の、「新安全基準は妥当か?」と題する講演が、都高教・都高教退職者会共催のもと行われた。それに先立って、退職者会幹事会が開かれ、「何方か今日の写真を撮って下さい」と言われ、何時もカメラを持参している私が名乗りを上げると、「ついでに、今日の記録も取って下さい」と依頼されてしまった。耳に難点のある私は、生の講演だけでは、聴き漏らすことも多く、講演後CDに焼いたものを送って貰い、それをも参考にし、文を起こし、感想を添えたものが以下のレポートで、「都高教退職者会」のHPに掲載されたものであるが、そちらを目にしない方にも読んで頂こうと、やや長文のレポートを載せる。



 『
後藤政志氏講演を聞いて
 冒頭、後藤氏は自己を紹介し、且つ、脱原発に舵を切っていった経過に触れて次の様に語った。
 
「私は1989年東芝に入社以来10数年間にわたり、原子炉格納容器(以下格納容器と略)の強度設計に携わってきたが、格納容器の安全性は技術で担保しきれないのではとの疑念を抱くようになった。すなわち、格納容器とは、放射能を外には出さない“最後の砦”なのだが、シビアアクシデントを起こさない様にするために、ベントと称する“外へのガス抜き”をしなければならず、放射能と言う危険物を外へ逃がす事という矛盾の上に成り立っていることに気がついてしまった。
 特に『設計の3倍の圧力に耐えられる様に設計を強化出来ないか』と問われた時に、これは決定的にだめだ、技術者として黙ってはいられないとの思いに至り、別名で原子力反対の論陣を張って来た。3・11大震災以降は本名で論文を発表するなど原発反対運動に係わるようになった」と。
 氏は情熱を込めて、原子力開発に伴う問題点を多方面にわたって語ったが、紙面の都合上、「福島の現状」と「福島の事故は何であったか」に焦点を絞ってまとめておく。特に下記②は最近露呈して来た、緊急の対策を要する大問題である。

 「福島の現状」に関して。
 ①3月11日の東京新聞には“原発関連死は789名とある。・・・死者は0名だなどと語る原発推進派がいるがとんでもないことだ。直接被爆しての死は無かったが、根拠ある推定では1000名を超える方が、原発関連死(原発事故に端を発する諸原因に因る死)で亡くなるというとんでもない事態が、現在進行形で起こっている。癌の為に亡くなるという将来的問題が起こる可能性も高い。
 ②果てしなく続く、福島第一原発汚染水処理。・・・現在地下には、1号機~4号機合計で78000トンの放射能汚染水がたまっているが、毎日400トンもの地下水が流れ込み、その量は増え続けている。地下水は流入するだけでなく流出し、放射能物質を含んで海に至る可能性もある。更には、汚染水を貯めておく貯水タンクがいずれ足りなくなるのを見越して、東電が建設した地下貯水槽からは汚染水が漏れ出すという事態が発生した。その汚染水が地下水を通して海に達し、放射性物質が海を汚す恐れもある。絶対にあってはならないことが起ころうとしている。東電はひどいが、一東電の問題を超えて、私たちは、原発で事故が発生すれば必然的に起こる問題と捉えておかねばならない。(5月4日の東京新聞は、水漏れ監視用の竪穴で微量の放射性物質が検出されたと報道)
③危うい仮設電源、冷却システム等。・・・完全な安全設計ではない仮設の電源などでは事故が起こりやすくなっている。ネズミが原因で冷却システムの電源が切れたと言っているが本当の原因は解明されず、又、夏草が伸びて送水管に穴が開くなどの事態が起こっている。これはガサネタではない。

 「福島の事故は何であったか」では
 事故原因および事故進展のプロセスが未だ解明できていない。東電は、想定を超える津波が主原因であるとしているが、地震そのものによる配管破断の可能性が高い。国会事故調(田中三彦委員長)が1号機原子炉建屋の調査を東電に申し入れたところ、「暗くて入れない」との説明があったが、これは虚偽であることが判明した。結果的に、東電の妨害により建屋に入れず、事故原因が特定出来ていない。
 航空機事故が起こったとき、当事者ではなく委員会が全権限を持って事故解明に当たるのと比較すると、この事態はあまりに異常であると思いながら、私は聞いた。

  「安全基準を考える上での基本」としては、福島事故の再発防止は、継続的な事故の原因究明と抜本的な対策が必要にも拘わらず、従来から、我が国では今回の様な大事故を経ても対処療法的な対策でお茶を濁してきている、そこが大問題である、と力説された。

 後藤さんが用意された資料には、「パワーポイント」で72もの画面が印刷されていた。その全てを語る必要を感じているのだろうが、時間の制約(今回は90分)でせいぜい30ポイント位しか語れなかっただろう。今回の事故、将来の安全の問題等、後藤さんは語るべき必然性を感じる事柄について、格納容器の基本構造に触れる技術面の話も交えて、情熱を込めて語ってくれた。時に東電の事実隠蔽・虚偽態度に触れる時には、抑えきれずに怒りを露わにしての講演であった。
 地震大国の我が国では、予想を遥かに超えて起こる巨大地震や大津波。それらに起因するシビアアクシデント。一度起これば私たちの生活は根こそぎ、一挙に破壊されてしまう。日々の生活と原発とは共存出来ないことを再認識した学習会であった。深く学び真実を知ることこそが行動へと繋がっていく。この学習会の成果を行動で示すべきときは今をおいてはないと強く感じる講演会であった。』


高川山へ

2013年05月23日 | 山旅

 一昨日の5月21日(火)、高校時代からの、我が良き友瀧川さんと、山梨県都留市にある高川山に登って来た。
 この山へ登ったのは2年前の4月24日の事。その時のブログを読み返してみると、次の様にあった。
 『毎週一回くらいの割合で、朝日新聞に「山頂のごほうび」という欄が登場します。前々回は「高川山」(標高976m)が紹介されていて、”気楽に登れて360度の展望”とあり、大月市選定の秀麗富嶽十二景のひとつで、初狩駅から気楽に登れることもあってか、中央線沿線屈指の人気を誇る、とありました。桜が終わればいよいよ山のシーズン到来。この山から今シーズンはスタートしようと心に決めていました』

 前回登山の出発点”初狩コース”は「熊出没注意」の看板が数か所あり、今回はこちらは遠慮して、富士急「田野倉」駅下車の”松葉コース”を辿りました。コースタイムを記すと
 田野倉駅⇒(20分)⇒松葉コース入口⇒(100分)⇒中谷・松葉コース合流点⇒(10分)⇒高川山(昼食休憩55分)⇒(10分)⇒中谷・松葉コース分岐点⇒(60分)⇒川茂⇒(15分)⇒リニア見学センター(見学40分)⇒(30分)⇒田野倉駅
 コース全般に道標は完備されている。





 午前9時10分田野倉駅を起点に出発。ここからやや霞んだ富士山が遠望出来たが、その後山頂までは再会は無かった。往きに取ったコースは尾根の松葉コースで、歩み行く道は新緑に覆われ展望がきかない。時折姿を見せる山ツツジの真紅と若葉の緑が目を楽しませて呉れる。やや急な登りに、今年初めての登山故か、足が重く感じられる。瀧川さんはこの登りで体力の衰えを実感したとの感想。登ること110分で頂上へ。コースタイムより15分ほど時間が掛ってしまった。ここからの富士の眺めは見応えがあるのだが、今日は、先ほどより更に霞んいて、展望はイマイチだが、その富士を眺めながらの昼食。”山頂の憩い”はいつも良いものだ。右写真は2年前に撮影したもの。






 

 下りは、一気に川茂に下った。山藤の群生も見られ、この時期の登山は暑からず寒からずの快適さの中で、野の花にも出会える。川茂へ下山後「リニア見学センター」に寄り、リニア新幹線が走行する為の三原理を知った。開業は2027年の14年後の事とか。長生き出来れば、冥土の土産に出来るかもと、後期高齢者突入直前の友と語りあった。「アサヒスーパードライ新宿」で軽く喉を潤して、無事19時には帰宅。明日はいざ知らず今のところ筋肉痛は無い。