マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

再び『お殿様の散歩道』を語る

2017年04月27日 | 歴史

 一昨日、2度目となる“お殿様の散歩道”のお話会が「こまじいのうち」で開催された。
 
「本駒込地域活動センター」(以下センター)で行われたお話会で『お殿様・・』を語ったのが131日。その翌日のラジオ体操のときだったか、大橋さんから「こまじいのうち」(以下こまじい)でも語ってもらえませんかとの話があった。大橋さんは「こまじい」の宣伝部長の様な方。私は「そこでは、プロジェクターとスクリーンの調達が難しいと思います」と返答した。
 「こまじい」と「センター」は緊密な関係にあり、「センター」からの調達でプロジェクターは何とかなりそうです。スクリーンは「こまじい」に大型テレビがありますとの話を聞いて、それなら大丈夫かと思い、お話をさせて頂くことにし、日程会議にも参加し、425日(火)開催を決めた。
 センターのプロジェクターとは別に、知人から借りたプロジェクターと「こまじい」の大型テレビとを接続しに出掛けてみると、テレビは思ったほど大きくはなく、かといってセンターのスクリーンは「こまじい」では大き過ぎる。迷いの日々が続いた。
 今勤務している大学院大学でスクリーンを組み立てたことを思い出し、その事がヒントになって、組み立て式スクリーンを自前で調達しようと決めた。ネットで調べると60インチで10800円のものが見つかった、注文した翌日には到着。早速、「こまじい」で映写実験。写りも大きさも申し分なく、これならいけるとの感触を抱き、後はPower Pointでの内容編集に専念した。
 前回よりも駒込付近に重点を置いた内容に変更し、更には、今回の編集の過程で初めて知った、山本松谷の画集『明治東京名所図会』から数点を新たに取り入れた。(写真:右図1は江戸川の夜桜)
 さて当日。一番気掛かりなことは、スクリーンに画像が写るかだ。これはいつも心配になることだが・・・。「こまじい」の技術面担当の山上さんにはこの面で大いに助けて頂いた。1240分には、そのお陰があってバッチリ画面は現れ、後は来場者を待つのみとなった。「こまじい」の1階はそれほど広くない。椅子席も用意され、20数名のもと、お話会はスタート。後半、時間内に終わらせようと些か焦ったが15時無事終了。果たして面白い話となったか否か、自信はない。

 今日のこのブログでは山本松谷に触れておきたい。彼は「御行の松」を描いていた(右図2)。更には、16/12/12のブログに登場させた「昔の神田川」の絵が実は松谷の筆になるものであることを知り、彼の作品集を図書館でオンライン検索すると『明治東京名所図会』がヒット。早速借りてきて驚いた。そこには明治後半の東京の生々しい風景が描かれていた。返却するのが惜しく(?)なり、ネットで古書店から購入した。定価5000円の画集は送料込みで2700円。(写真:図1 御行の松「)









 右写真図3は江戸川。「目白台下駒塚橋の景」として描かれている。道路と川面が接近しているのがよく分かる。”芭蕉庵”も登場させている。一番上の図1は「江戸川の夜桜」。こんな風に夜桜を楽しみたかったと思わせる一枚。下の図4は「駒込吉祥寺」。この絵に登場する大仏さんは現在の大仏さんと、参道に関して左右が入れ替わっている。この絵が描かれたのが明治40年11月。実はそれから6年後の大正2年に左側に遷座していたのだ。(写真:最下段図4)
 
図2の「御行の松」では、幟に書かれている文字が絵集でははっきり“霊雲寺二十一日講”と読めた。霊雲寺は文京区湯島にあるお寺。御行の松からそう遠くない。寺が21日に開催した講があったことも知った。(この話をお話会ではうっかり喋り忘れていた)。
 翌朝のラジオ体操時に、お世辞にも「第2弾も聴きたいです」などと言われ、一安心している。


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史跡めぐり「文京区海岸物語」に参加して

2016年11月20日 | 歴史

 1110日(木)、ふるさと歴史館主催「文京区海岸物語」に参加し、縄文時代の貝塚跡を訪ねた。参加者50名は4班に分かれて説明を受けた。皆、抽選の網の目を潜って来た人々。文京区に海岸?とビックリされる読者の方もおられるかと思うが、今から6000年ほど前、現文京区は多くのところで海岸線を有していた。現在より気温が高く、海面も高かったと考えられている。縄文海進の頃のことだ。

 13時に本駒込駅に集合し、南谷寺→徳源院→動坂貝塚跡→天祖神社→富士神社→一行院→小石川植物園 と廻った。このイベントの中心は動坂貝塚跡と、新たに縄文遺跡が発見され発掘調査中の小石川植物園だった。

 (下の図はふるさと歴史館で撮影を許された写真。説明員の説明図版とおなじ)
 まずは、案内人の方は説明用の図版を用い、今から6000年前の海岸線の説明をした。私は動坂貝塚跡から動坂を下った現在の不忍通り辺りは縄文海進によっても海ではなかったものと想像していたが、ボランティア説明員の方が示した資料によれば海だった。それは意外であり驚きもであった。自らの不明を恥じた。
 この頃、海が近くにあれば、海辺より小高い場所で生活が営まれ、貝塚が生まれただろう。文京区だけで縄文遺跡は20数か所もあるそうな。その中でも代表的な動坂貝塚と、縄文遺跡が発見され発掘調査中の小石川植物園を巡ったわけだ。









 今回のブログでは順序を逆にして小石川植物園の発掘現場から綴ることとする。

 入口から緩い坂を上ると白山台地の一角。そこに温室がある。その温室建て替え工事中に新たな縄文遺跡が発見され、工事の進行はストップし、東大教授が中心となり遺跡の調査が進行中である。ここは東京大学大学院付属の植物園だから、東大チームが発掘・調査というのは自然な流れ。








 小石川植物園内では以前にも多くの遺跡が発見・発掘されていた。発掘現場の撮影は許されなかったが、過去の出土品などはパネル表示されていて、その撮影はOK。
 それによれば1950(昭和25)年には縄文時代中期の竪穴住居が2件発見され、堆積した埋土からは貝層とともに縄文後期の土器が出土。1996(平成
8)年には縄文時代中期後葉(加曾利E式)の埋甕が発見された。
 さて今回の調査。調査現場を見学出来るのは異例なことだそうだが、見学が許された。陳列された、土器の破片を多数見学。この台地の真下に“埋没谷”が眠っていて、そこから出土した土器を見せてもらったわけだ。調査結果はいずれ発表されるだろうから、その際に詳細を綴りたい。

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井戸尻考古館へ

2016年10月18日 | 歴史

 1014日から17日までの、34日の信州旅行から昨日帰宅した。今回の旅行の主たる目的は2つあった。大鹿村歌舞伎の観劇と中央構造線の“安康露頭”などの露頭を見ること。それ以外にも井戸尻考古館や我が別荘の廃墟跡や自由農園など訪れたいところが多々あった。
 参加者は妻の友人のTさんとWさんと、私達の合計4名。Wさんは1日遅れの参加だった。
 14日の813分、Tさん運転の「prius」車は我が家前に到着。まずは3名で自宅を出発。たてしな自由農園には3時間後の1113分着。農園直営のレストラン「808」(八百屋を意味するネイミング)で早い昼食を摂った後「井戸尻考古館」へ。(写真:神像土器)






 8月に購入した、滋澤雅人さん撮影の写真集『縄文の夜神楽』には井戸尻考古館所蔵の土器・土偶が3点が載っていて、その写真集を見て、是非その現物に触れたかったのだ。(『縄文の夜神楽』より:「神像土器」)

 
考古館の傍にある井戸尻遺跡は、1966(昭和41)年に中部高地を代表する縄文時代の遺跡として、国の史跡に指定され、長野県富士見町立の井戸尻考古館には八ヶ岳西南麓から発掘された縄文期の文化遺産が多数展示されていた。
 「およそ、5000~4000年前、この地方は中部高地から西南関東に展開した縄文文化の中心舞台だった。展示の中心は重要文化財の藤内出土品や、長野県宝の曽利遺跡出土品をはじめとする、その時代の土器と石器。最新の研究成果に立って当時の暮らしと、ものの考え方の再現に勤めています」と書かれていた。



 
曽利遺跡住居址から出土した土器の県宝「水煙渦巻文深鉢」は残念ながら出張中で複製しかみられなかったが、「人面香炉形土器」や、藤内遺跡から出土した重要文化財「神像土器」を見ることが出来て、私は大満足だった。(写真:水煙渦巻文深鉢」の複製されたもの)







 新たに知った土偶があった。坂上遺跡から発見された重要文化財で”始祖女神像”と名付けられた土偶だ。
 坂上遺跡は、JR信濃境駅の西1.4kmほどのところにあった、今から4300年前の遺跡で、1974(昭和49)年に、大規模な構造改革事業に先立つ発掘調査の際、8軒の住居址と数基の小竪穴が発見された。そのうちの一つからこの土偶は出土したが、「縄文のビーナス」や「仮面の女神」とは異なり、頭と上半身と下半身の3つに分割された状態での出土。結合してみると高さ23cmの大振りの土偶であったそうな。昨年、重要文化財に指定された。(写真:始祖女神像)

 ここで、館長小林公明氏の説を紹介しておきたい。「この地域の縄文文化の特徴は、狩猟だけでなく農耕文化を有していた点にある。鍬や草取り鎌など農耕に使われていたと考えられる農具が出土しています。」とあった。この点に関しては他の書物などを読んでみたいと思っている。



 
(人面香炉形土器)

 折角富士見町に来たのだからと、私たちが知っている菓子工房「キャトル・セゾン」に行きましょうかとTさんを誘うと彼女は大乗り気。そこで味わったアップルパイは食べきれない大きさで、持ち帰って夕食のデザートにしたほどだった。その後、諏訪の「角上」でお寿司と刺身を購入。
 この日は一日中快晴で、帰路途中、川沿いの道から、八ヶ岳の阿弥陀岳肩から上る満月2日前の月が眺められた。夕食は「
ハーヴェストクラブ蓼科アネックス」で。(写真:阿弥陀岳にかかる月:左肩は赤岳の稜線)

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中里貝塚(最終)

2016年09月28日 | 歴史

 巨大なハマ貝塚としての中里貝塚は発掘後入念な調査・研究が進められ、多様なことが明らかになった。

 <貝塚からは人工遺物の出土が極めて少なく、貝類以外の食物残滓出土量も圧倒的に少ない。浜辺に作られた貝塚であるにも関わらず、魚骨も極端に少なく、鳥獣骨は全く見つかっていない。それに反して、食用にされたマガキとハマグリという比較的肉量の多い2種類の貝類の出土量は他の貝塚を圧倒している。ハマグリに関しては、平均サイズが43mmと大型のうえ、大きさが整っていて、七社神社裏貝塚のハマグリ(平均35mm)と比較しても、中里貝塚では、人々がその大きさにこだわって採集したことがわかる>(写真:右上がハマグリ。他の貝類と比較して、相当大きい。右下がマガキ)

 勝手に想像を逞しくすれば、豊富に採集できる大きなハマグリとマガキがあれば十分で、他は何も要らないないということだろうか。ともあれ、貝塚の周辺では日常生活はなく、貝の採集→貝の加工処理→貝殻の廃棄という、貝のむき身作りに特化した一連の作業のみが営まれていた場所だったのだ。

 <又、中里貝塚は、当時の海岸線に沿って帯状に形成され、その広がりは、長さ最低でも500m以上、幅100m以上にわたっており、貝層は14mの層厚に及ぶと見られている。すべての部分で調査が為されてはいないが、単純に推定計算すれば50.000100,000立方メートルの大きさになる。大規模なムラ貝塚である千葉市の加曽利南貝塚の容積が5,000立方メートルとされているから、その10個分に相当する貝塚が一ヵ所に集中していることになる>(写真:左下が中里貝塚。その右隣が加曽利南貝塚)




 <では、中里貝塚を作った人々の生活基盤はどこにあったのか?貝塚を見下ろす台地上には複数の貝塚が見られ、中里貝塚から直線距離にして1.5km圏内の北区内や3km圏内の文京区方面に分布する集落はあたかも、中里集落を取り囲むように位置し、その有力候補である。武蔵野台地の内陸部、石神井川流域には大量の貝の消費に見合うだけの大規模集落が見られる。中里貝塚を作った人々は、大量のむき身を材料として、他地域の人々と物々交換を行っていたかもしれません>
 早朝散歩の際にその脇を通る、動坂遺跡貝塚もその一つかと思う。

 <しかし、中里貝塚も縄文時代後期の初め頃にはその形成を終了させた。そのような状況の背景には、地球規模での寒冷化による海岸線の段階的後退や貝殻大量投棄による内湾干潟の陸地化が進んだことなどが考えられる。逆に、この貝塚に近接する西ヶ原貝
塚での集落の形成が活発化していることから、この時期には貝の採集・むき身作りに依存しない、新たな生活スタイルが出来上がりつつあったのかも知れません>

 おわりにかえての“貝塚形成の衰退と土器製塩の開始”は特に興味深く読んだ。製塩方法については、宮本常一著『塩の道』にも登場していたが、
 <縄文時代晩期、貝塚の造営数の減少と時を同じくして、各地で製塩土器による塩つくりが行われるようになった。
 近年、貝類を乾燥させた干し貝に塩分摂取源としての役割を見い出す考え方が示されている。採集した貝のむき身を海水で煮ると、かなりの塩分含有量になる。ハマ貝塚でのむき身作りはそれに含まれる塩分の採取・流通こそ主目的ではなかったかという考え方で、この考え方を応用すると、中里貝塚の終焉の背景には画期的な土器製塩法の登場を加えることが出来る。
 縄文時代の計画的な生産活動、広範囲のおける交易、“社会”と呼ぶに相応しい他地域間のネットワークの存在、を示し、日本列島を沸かせた大規模発掘調査から10年あまりが経った今、貝塚研究は、新たな展開を見せつつある>と、6年前発行の冊子は結んだ。新たな展開が紹介されるならば、是非その冊子をも読みたいと思う。

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中里貝塚(その2)

2016年09月26日 | 歴史

 今日のブログも『奥東京湾の貝塚文化』を私なりにまとめたものである。

 <近年、縄文時代の貝塚を、その立地と性格の違いから「ムラ貝塚」と「ハマ貝塚」の2つに類型化する動きが広まっている。ムラ貝塚とは台地上の居住地の一角に形成され、貝殻や土器・石器の道具類に加えて、獣類・魚骨などの生活残滓で形成される貝塚を指す。北区の七社神社貝塚や西ヶ原貝塚など、日本列島の大部分の貝塚がこれに相当する。
 一方、ハマ貝塚とは浜辺や水域に近い低地部に形成され,層厚の割には、住居址や日常の生活に伴う遺物がほとんど見られない貝塚を指す。焚き火跡が多く含まれ、僅かに見られる出土資料には浜辺での作業に関するものが多い。ハマ貝塚は海浜部の貝類の加工に伴って形成された貝塚といえ、その代表格が中里貝塚で、伊皿子貝塚などもこれに相当する>                    
 右上の図は本文に添えられていた概念図だが、ハマ貝塚を中里貝塚に、ムラ貝塚を七社神社貝塚と西ヶ原貝塚に重ね合わせることが出来る。この記述に出合い、私が抱いた疑問は解消した。

 ここからは私の想像だが、この時代、縄文人は火や土器を使用することが出来た。採って来た貝類を直ぐに土器に入れ火を焚き、茹でたり煮たりすると貝は開けやすい。取り出した中身(むきみ)をその場で食べることもあっただろうが、大半は集落で待つ家族の為に持ち帰った。干したりしたかもしれない。持ち帰る必要のない貝の蓋は目の前に海に捨てる。その捨てられた貝殻が長い年月に層を成していったのでないかという想像。
 又、ハマ貝塚が形成されるためには、目の前に海面が広がっていなければならない。現在、中里貝塚の前面はJRの尾久車両地になっていて、海は遥か彼方であるが、“縄文海進”により、かつてこの地は海だった。(写真:中里貝塚周辺のイメージ風景)
 

 <氷期の最終段階(約2万年前)以降、東京湾では地球規模の温暖化に伴い、海水面は上昇し続け、今から約6000年前(縄文時代前期)にはピークに達した。いわゆる縄文海進で、海水面は現在より3m高く、海水は内陸まで入り込み、広々とした内湾=奥東京湾が展開していた。その後、海は徐々に退いていった。今から3000年前以降は、現在の様な地形が形成された。中里貝塚が営まれた頃(縄文時代中期~後期初頭)には、北区域の東京低地には崖線近くまで海が広がっていて、その前後に干潟が形成され、奥東京湾周辺では、大規模な集落および貝塚が営まれ、豊かな縄文文化が華開いた>(写真:奥東京湾の広がりとハマ貝塚)



 今年の夏、私は八ヶ岳山麓の縄文文化に加え、奥東京江湾の縄文文化の一端に触れたことになったのだと、今改めて思っている。(写真;中里貝塚周辺の遺跡)

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