マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

千秋楽の片岡仁左衛門

2018年04月29日 | 映画・美術・芝居・落語

 4月26日(木)は「四月大歌舞伎」の千秋楽だった。歌舞伎観劇のチケットを頂けるのはこの3月までと思い込み、自前で、3階から仁左衛門を観たのは10日前だった。勘違いがあり、4月までチケットを頂けるとは知らなかった。それも千秋楽の観劇。同じ演目を同じ月に2度観た記憶はない。
 
悔しいながら、1階席と3階席では観えてくるものが違っていた。3階席では主役の表情をはっきり見たくてオペラグラスを何度も使ったが、それだと全体像を捉えられない場面が多々あった。1階席では時折オペラグラスを使用したが、全体を見渡せ、脇役の細かい芸が後に続く場面の伏線となっているのにも気が付くことが出来た。パンフレットをしっかり読んでの観劇だったので、時蔵の早変わりの場面など予想しながら観劇が出来た。
 最終場面、弥十郎・皐月夫妻によって左枝大学之助は討取られ幕となる。が、仰向けに死んだ大学之助の前に幕が下りて来てきて、大学之助はむっくと起き上がり、仁左衛門は二人を従えるように正座し、響く声で「本日はこれにて」と言い切り幕が引かれた。
 ばらばらと帰り始める人もいたが、大多数は総立ちになり拍手が始まった。千秋楽だったからか贔屓筋かと思われる和服姿の綺麗どころ多数の、前の方での動作は特に目立った。1分以上続くカーテンコールの拍手。歌舞伎でこの様な場面でのカーテンコールはあり得ないと思っていたが、幕は再び開いた!!正座し頭を下げる仁左衛門へ万雷の拍手。仁左衛門は顔を上げると、客席に向かい拝む様に手を合わせた。又もや万雷の拍手を浴びて幕。本当の千秋楽と相成った。

 『絵本合法衢』の初演は1996(平成8)年で仁左衛門52歳のとき。うんざりお松を演じる玉三郎との共演だった。それから22年、今回が5回目の上演で彼は既に74歳。(写真:舞台写真より。仁左衛門の太平次と時蔵のうんざりお松)
 「“これで最後”とお話したら、“一世一代”と銘打つことになりました。役者は年を重ねてよくなるところもありますが、出突っ張りのこの役を、お客様の期待に応えるように25日間演じ続けられるのは、これが最後かな、と思いまして」と語っている。
 四月大歌舞伎の千秋楽だけでなく、仁左衛門の『絵本合法衢』の千秋楽なのだ。そうと分かっている人々はなにがなんでももう一度幕を上げて貰いたかったのだろう。そうとは知らず偶然にもこの場面を目撃した私達は感激しての帰路となった。


定泉寺で青島広志の「花祭りコンサート」を聴く

2018年04月26日 | 映画・美術・芝居・落語

 4月21日(土)、青島広志さんのコンサートを聴きにご近所の定泉寺へ出掛けた。青島さんは定泉寺で何度も「青島広志のおしゃべりコンサート」なるものを開催していたが、聴きに行ったことは無かった。常連になるとご招待の葉書が郵送されて来るらしいが、勿論私に来たことはない。そこで「鑑賞ご希望の方は、参加申込書にご記入のうえ、ご連絡下さい」に従って、前日に定泉寺へ出掛けて行った。(写真:ピアイストの青島広志さん)




 玄関に現れた住職と思しき作衣の方が私を見て、ビックリしたような顔をして「高校で数学を教えていた川口先生ではありませんか」と言った。それにはこっちの方が吃驚した。「数学を習ったことはありませんが、お顔を覚えています」とも。微かな記憶が蘇ってきた。この辺のお寺さんにひとり元気な生徒がいたことを。定泉寺だったのか。記憶を整理すると、1978(昭和53)年の入学だった。この寺に詳しい方に聞くと、双子のご兄弟が住職を継いでいるとのこと。不思議な思いに駆られながら、「開創400年記念事業」の一環としての、別名第17回『音楽家 青島広志先生おしゃべりコンサート』を聴きにいった。




 寺の2階がホールになっていて、椅子席が80ほど用意され、開演前にはほぼ満員になった。司会が件の卒業生で副住職(?)、その兄と思しき住職が一言挨拶を述べた後演奏が始まった。(写真:定泉寺本堂)






 ピアノとお話と司会が青島広志さん、フルートが中山広樹さん、テノールが小野つとむさんの、3人の極小チーム。合唱あり、ピアノ演奏あり、独唱あり、フルートの演奏ありで、全15曲が繋がった。青島さんのピアノ演奏と中山さんのフルート演奏は素晴らしかった。ピアノ演奏に合わせて、聴衆全員も含めて「花」・「おお牧場はみどり」・「手のひらに太陽を」・「高原列車は行くよ」を合唱したがこれは実に楽しかった。更に曲と曲の合間の、身振り手振りの、青島さんの軽妙なお話が面白かった。白板に絵も描いての説明。笑いが絶えなかった。常連さんからはこの小話が抜群に面白いのよとの話を聞いた。
 


 定泉寺さんは例えばこのコンサートを無料で開催している。時折「定泉寺こども食堂」なるイベントも開催し、貧しい子どもたちの援助もしておられる。地域への貢献度大で、こころざし高い、立派なお寺さんだと思う。創建が1621年の定泉寺は明暦の大火後現在地に移転してきた。鐘楼の鐘の響きは駒込名鐘の一つとか。
 青島広志さんはテレビなどで活躍するピアニスト。作曲家として「火の鳥」、「黒蜥蜴」などこれまでに作曲した作品は200曲に及び、ピアニスト・指揮者としての活動は40年に及ぶそうな。
 青島さんのコンサートをロハで、ご近所のお寺さんで聴ける有難さ。除夜の鐘も撞けるのだろうか。ご近所路線が続いている。
  


真光寺は何処に?

2018年04月23日 | 東京散歩

 今朝もラジオ体操をしてきた駒込富士神社。その地は、安政時代の古地図には「富士浅間社 真光寺」と記され、その脇に「駒込富士」の、少し小さ目の文字も記されている。神仏習合だった時代の名残(?)、いや象徴で、社と寺の文字がと同居している。
 又、文京区教育委員会発行の『駒込神明貝塚 第3地点』に登場する富士神社の図には「真光寺兼帯駒込冨士境内作事惣図」との名前が付けられ、「天保13年10月」と付されている。「真光寺兼帯」からは、真光寺が神社側の諸々の職務を兼ねているとも読める。現在の富士神社に真光寺を偲ばせる痕跡は見当たらない。そこで真光寺探しの小旅行に出掛けた。
 まずはネットで調べると
 
『天台宗寺院の真光寺は、富元山瑞泉院と号します。・・・江戸時代には本郷にあり、藤堂家の菩提寺となっていた他、「本郷薬師」として崇敬を集めたといいます。第二次世界大戦より被災、当地へ移転したといいます。』と。

 古地図で調べると春日通りと中山道が交差する地点にかって「真光寺」はあった。なんと、そうとは知らず何度もその前を通り過ぎた本郷薬師に真光寺があったとは。それも藤堂高虎が再建したとは、知りませんでした。1945年(昭和20)年に焼失し、その後世田谷区給田へ移ったことも知った。





 ついで、4月10日(火)指圧屋シュークロースへ出掛ける前に本郷薬師に立ち寄った。本郷薬師と書かれた額の掛かる朱門を潜ると薬師を祀る小さなお堂が建てられ、説明板には『この地は真光寺の境内であった。伝えによれば、寛文10(1670)年にここに薬師堂が建立された。「本郷夜市は著名なり。連夜商人露天を張る。毎月八日、十二、二十二日、は縁日なり。縁日の夜は雑踏を極むるなり」(新撰江戸名所図会より)・・・』とあった。(写真:上の図と同じ位置の現代の地図)



 
本郷薬師の中に真光寺があったのではなく、真光寺の一角に薬師堂が建てられ、その薬師様のお参りに人々が集まり、縁日ともなれば多くの人で賑わったと知った。そういえば、1年半前に観た「婦系図」の第2幕が夜店を訪れる庶民で賑わう場面だった!(写真:薬師堂)




 さてその薬師堂を進み右折すると、震災を免れ、この地に残された「十一面観世音菩薩」が鎮座しておられる。その脇には墓地があり、水汲む盥には「真光寺」の文字が見える。真光寺はその本体は世田谷に移転してしまったが、墓地の一部は現存し、ご近所の方に管理を任せていると推測した。
 明治から大正・昭和にかけて真光寺よりも本郷薬師の方が著名だっただろう。『婦系図』二十二 ”道学先生”は次の文で始まっている。
 
「月の十二日は本郷の薬師様の縁日で、電車が通るようになっても相かわらず賑にぎやかな。・・・、燻くすぼったカンテラの燈あかりで見ている男は、これは、早瀬主税である。」
 
電車とは後の市電のことで1904(明治36)年に開通した2系統が本郷三丁目で交差した。賑わうはずである。『婦系図』の連載が始まったのはその4年後のことだった。


『絵本合法衢』で片岡仁左衛門を観る

2018年04月20日 | 映画・美術・芝居・落語

 4月16日(月)、歌舞伎座で『絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)』を観て来た。
 
今までは、歌舞伎座や新橋演舞場への観劇チケットを頂いてきたが、それはジ・エンドとなった。この間、歌舞伎観劇に親しんできた身には観たい歌舞伎に直ぐに反応するようになっていて、例えば、片岡仁左衛門が主役を張る、この『絵本合法衢』もその一つ。しかし、桟敷席はいざ知らず、1・2等席も観劇料は高額で高嶺の花。そこで歌舞伎座3階で観ようと決めた。3階B席ならば木戸銭は4,000円。という訳で、前売り券をサンシャインで購入しておいて、出掛けていった。(写真:大学之助演じる仁左衛門)




 四月大歌舞伎の夜の部は通し狂言『絵本合法衢 立場の太平次』のみ。何度か演じられてきた芝居らしいが、妻も私も初めて観る演目なので、やや早めに到着しプログラムを購入し内容を一読しておいた。筋立ては難解だった。登場する人物の人間関係が入り組んでいて上手く呑み込めない。まあ筋はどうでもいいか、仁左衛門の悪党振りをじっくり拝見しようと決めた。歌舞伎座は3階から舞台が遠い。双眼鏡的なものが必須なのだ。二人とも自前のオペラグラスを多用しながらの観劇とあいなった。 





 作者は『東海道四谷怪談』で名高い鶴屋南北。実際に大坂天王寺付近の合邦辻閻魔堂で起きた仇討事件を素材としたらしい。
 御家横領を企む、近江国多賀家の分家左枝大学之助を演じるのが仁左衛門。その大学之助の配下で、大学之助と瓜二つの無頼漢・太平次演じるのも仁左衛門の、一人二役。自らの野望のためには平気で幼児をも手に掛ける大学之助と、強欲な悪漢の太平次を演じ分けが見どころ。特に人の好さそうに見える太平次が突然悪人となり、平気で仲間をも裏切り、殺害に及んだあとにせせら笑う姿には「悪の華」が漂う。各幕毎に殺しの場面が入る芝居を始めてみた。
 


 暗闘(だんまり)はあり、時蔵の早変わりは演じられていたが、残念ながら仁左衛門の早変わりの場面は登場して来ない。昨年観た『霊験亀山鉾』の方が仕掛けが大がかりで華やか。単純な鑑賞者の私にはそちらの方がより楽しめた。
 大詰焔魔堂の場では、閻魔様の前で、弥十郎の槍の穂先によって大学之助は討取られ、遂に悪は滅びたのでありました。(そうでもしなければ上演は不可能だったのか?)

 観たい芝居があれば、新橋演舞場の3階席にも足を運ぼうという思いで帰って来たのでありました。


漆家は花の盛り

2018年04月17日 | 

 4月14日(土)、招かれて塩山「漆家」に行って来た。
 毎年、4月の第2土曜日は「漆家 花の宴」。お招きを頂き今までに10回ほど通っている。今年は教え子のトシコさんとヨツエちゃんの二人と一緒の4人での参加。ホリデー快速ビューやまなし号は9時2分新宿発の10時52分塩山着。  
 石野さんの車で漆家に向かう途中に、桃のピンク色も、スモモの白色も殆ど見られなかった。桜開花が1週間以上早かった様に他の花々の咲き始めも早く、目立つのはハナミズキの白とピンク。(写真:右は3月31日に石野さんが撮影した慈雲寺のイトザクラ。この頃で既に満開に近かった)
 しかし漆家さんの周りは花の盛り。主(あるじ)さんたち曰く「今年は最高の花見だよ」と。手づくリの料理を頂き、お茶を点てて貰い、周りを散策しながらの「花の宴」。今日のブログは「花の宴の写真展」