マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『巨椋池』考(その1)

2013年01月31日 | 学び舎

 巨椋池(おぐらのいけ)って知っていますか?

 まずはサワリを書いておけば、かつては京都盆地の最低地にあった巨大池で、宇治川(瀬田川)・桂川・木津川などが流れ込んでいたが、現在は全く姿を消してしまい、第3京阪道路「
巨椋池IC」としてのみその名を残す。山崎の合戦で有名な天王山はすぐ西にあり、JR奈良線で京都から奈良に向う途中、右手に見える低地一帯がその池の跡。(右の図で、赤い部分が巨椋池。その右斜め上の水色の部分が琵琶湖。川は、巨椋池から下流は淀川と名を変え大坂湾へと注ぐ)

 実は、昨年、家人とその友人たちで「お話会」なるものを立ち上げた。昔の学友たちを見渡すと、大学を卒業して40数年、皆定年退職し、子育ても終わっている。それなりの専門に長らく係わった方も多くいる現状を考え、そんな方々にお出で頂いて、その道の話を聞こうと考えた様だ。毎回、本駒込地域活動センターで開催している。

 第1回から第3回は「中国の近代・現代文学について」。講師は、日本女子大学で教鞭を取っていた近藤さん。作家胡風と丁玲について話をして貰った。
 第4回目が中国の大学で日本語を教えた津久井さんの「中国レポート」
 第5回が「福島原発事故の体験」で、老人福祉施設で介護士をしていた松本さん。
 第6回が「津軽昔話を聞く会」。このブログにも書いたが、語り手は対馬てみさん。

 
そして第7回目が一昨日の1月29日(火)で、「巨椋池今昔」。大学院で地理を学んだ渡辺さんが地理・地学的分野について、家人が「巨椋池と文学」と題して、例えば源氏物語に登場する巨椋の池について、語った。会の立ち上がり当初は4・5名の参加者だったが、一昨日は何と17名の参加。会場が狭く感じられるほどの盛況で、私は第3回と4回以外は毎回参加している。その内容の詳細は次回ブログで。

 

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我が家の絶景

2013年01月29日 | 身辺雑記

 本郷台地に建つ我がマンション9階の室内から、幾つかの絶景が撮影出来た。
 一昨日天空に昇った月は満月。翌日の朝方は雪模様だったため、沈み行く満月は撮影出来なかった。昨日から今日に掛けては晴天が続き、絶好の撮影日和となった。
 ①は27日(月)19時06分の撮影の満月。
 ②は29日(火)、朝6時45分撮影の紅富士。私のカメラは肉眼ほど良くはないので、紅たる赤味があまり出ていない。今日の東京の日の出は6時43分。
 ③は29日(火)、同じく朝6時47分撮影。日の出を背景とする東京スカイツリー。
 ④⑤は近似”ダイヤモンド富士”。29日16時52・53分撮影。今日の日没は17時6分。


           ①

            ②

           ③

            ④

            ⑤

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俄か”インタビューアー”となる

2013年01月27日 | 身辺雑記

 昨年5月から「都高教退職者会」の幹事を務めている。10人いる幹事のうち私の担当は厚生部。部主催のイベントとしては「東京歴史散歩」を企画し、昨年10月27日(土)に、8人参加のもと実施し、厚生部としての仕事は一応終了していた。
 あるときの幹事会終了後の打ち上げの席上での話題が、都高教退職者会のメンバーで、80歳を超えても元気に活躍しておられる方々に及んだ。その人にお会いし、インタビューを通して、元気の秘密を探る記事を「会報」に載せるのも面白いのでは、と話が纏まり、事務局長と幹事の私の二人で”特別取材班”を結成し、”取材”に及ぶ事となった。
 全く初めての経験で、不安もあったが、兎も角敢行した。トップバッターに登場は、幹事で80歳のHさん。1月23日(水)、池袋東口「椿屋珈琲店」で、事務局長と一緒に”取材”した。

 今、その時の様子の草稿をまとめている。いずれ退職者会の会報などに載ることだろう。その上で、その内容をこのブログ上にも書きたいと思うが、今は反省点や概括的な事に触れておきたい。
 会場としては、比較的静かで、長時間いられる「椿屋」を予約しておいたが、ボイスレコーダーは周りの音を拾ってしまい、後で聞くとよく聞き取れない。個室の方が良かったと思う。一番の反省点は、私の喋り過ぎ。良き質問を準備し、相手に沢山語って頂く。これがインタビューのイロハ。「聞く力」(阿川佐知子著)を一度読んでおけばよかった。

 それにしても、定年退職3年の後、ドイツ留学を経て、日本語教師の資格を取り、ウズベキスタンで日本語を教え、帰国後は「寺小屋」教師のHさん。女性では珍しく、専従執行委員を4年も務め、昨年退職の後、あっという間に。ホームページを作成したり、現職教員の相談に乗る事務局長。「すし三昧」での夕食、二人とも話が面白く、あっと言う間に時は過ぎていった。

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『拉致と決断』(著:蓮池薫 出版:新潮社)再読

2013年01月25日 | 読書

 この1年間で読んだミステリーの中では横山秀夫著「64(ロクヨン)」が断然面白かったが、一番感動した本では「拉致と決断」。著者は言うまでもなく、朝鮮民主主義共和国(以下北朝鮮と記す)に拉致され、2002年に帰国する事が出来た、蓮池薫さんである。
 彼の著作では「半島へ、ふたたび」を読んでいた。
 第一部「僕がいた大地」は、観光案内書には載らないような韓国の、旅行の案内書になっていた。一度はここを訪れたいと思えてくる筆運びである。第二部「あの国の言葉を武器に、生きていく」は、韓国語・朝鮮語の翻訳家として生きて行こうとする決意と、その翻訳に悪戦苦闘する様子が描かれていた。この作品で新潮ドキュメント賞を受賞するのだが、率直に語る表現から、彼の人間性に共感を覚え、翻訳書「孤将」を借りて来てきた。こちらは未読である。ただ拉致された時の様子や北朝鮮での生活振りには余り詳しくは触れられていなかった。「拉致と決断」が出版されると、図書館の順番を待ち切れず、すぐさま購入し、一気読みした。昨年10月のことである。
 
 今年に入って再読した。
 
2002年10月15日、日本滞在2週間の予定で”一時帰国”した彼は、人生最大の決断を迫られることになる。子2人が暮らし待つ北朝鮮に戻るべきか、親兄弟のいる日本にとどまって子どもを待つべきか。結論は自分の生活は犠牲にしてでも、我が子を守る為に北への帰国。この結論を巡っての激しい兄弟論争。しかし熟慮を重ねての最終決断は、日本に残ること。その決断を聞き、半狂乱となる妻の説得。涙なしには読み進められない展開が冒頭から始まる。

 拉致され、招待所や収容所での絶望的な日々。結婚し親となってからは、この子たちを朝鮮の子として育て上げようと決意し、生きる目的を持てた日々。しかし、自由と夢と帰国への希望を完全に断ち切られた状態での24年間。その間には、中国への脱出可能と見える瞬間も訪れるが、冷静に判断し、その道を選択しなかった苦渋の”決断”もあった。
 招待所で接した”おばさん”達との交流や、北朝鮮の人々の生活振りや風俗慣習なども語られ、興味深い。行間には、拉致され、今なお異国で困難な生活を強いられている同胞への思いが滲み、一刻も早い帰国への思いが語られる。
 自分達が帰国して1年7ヵ月後、二人にとって長く苦しい時を経ての親子の再会。
 
 この本は自らの生活を振り返るのに良い機会を与えてくれた。長い年月を耐え抜いた彼の人生の一端に触れるとき、耐える事に弱くなった自分の心持に喝!

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銭湯絵師 中島盛夫の仕事

2013年01月22日 | 銭湯

 1月17日(木)、勤務帰りに、福寿会の二人と落ち合い、後楽園ボウリング⇒銭湯「菊水湯」⇒80円ビールと廻った。菊水湯では、昨年6月22日に、銭湯絵師中島盛夫が壁画として描いた立山連峰を初めて観た。一昨年の暮れに「ふくの湯」と「つるの湯」に富士山を描いた中島盛夫である。富士山や松島の絵は何度も見ているが、立山の絵は初めてである。「つるの湯」の場合と同じように、湯船に浸かって番台方向を見ると壁画が眺められるという趣向で、男湯と女湯にまたがって大きく、一幅の山岳絵が描かれていた。
 ただこの日は入浴した時間が17時少前で、湯気が立ち込めていて、良い写真が撮れなかつたので、21日(月)に再度訪れ、15時30分に扉が開くと同時に入場し撮影した。立山連峰の見事な姿が広がっていた。雪を冠した峰々が美しい。海岸近くの視点で描かれているが、これは多分想像上の視点と思われる。富山湾越しに見る立山の雪景色は殊更に美しく、特に氷見からみる景色は絶景とされる。私の想像では、この絵は氷見から見た富山湾越しの構図だ。




 山の名前が入った連峰の写真を持参し、壁画と比較して、どこが剣岳かを調べて見た。やはり想像していた様に、ピークが一番高い峰が劍岳(上の写真で、一番高い松の右上のピーク)
で、その右側に別山、左側に小窓と大窓。
 立山連峰の雄大な山の絵を見ながら、薬草湯にのんびり浸かれる菊水湯、今まで以上にこの銭湯が気に入った。(写真:富山湾の向こうに雪の立山連峰と言う写真)





 さて、日本で二人しかいない銭湯絵師の一人中島盛夫、11月18日の朝日新聞にも紹介されていた。記事に曰く『10月下旬の昼間。東京都世田谷区の京王線明大前駅近くの「松原湯」で、中島盛夫さん(67)がハケを壁に走らせていた。飯舘村の大倉地区で生まれた彼は、「飯舘が放射能のことでこんなに話題になるなんて。悔しい」と語り、 昨年秋、飯舘村を訪れた。5年ぶりの故郷。「家はどこもカーテンが閉まり、人がいない。ゴーストタウンみたいだった」と語った。 震災から1年の今年3月11日、東京の日比谷公園であった復興支援の催しに参加。キャンバスに3時間ほどかけて村の山と川を描いた。「田園風景や空気が早く元に戻ってほしい」という願いを込めた。』 とある。

 彼は今、日比谷で描いた絵を写真に撮ってパネルを作り、避難中の村の人たちに配る計画を知人と練っているそうだ。「仮設住宅などの風呂の壁に飾った絵を見て、もとの飯舘村を取り戻そうと思ってもらえればうれしい」と語る彼の思いが叶うとき、今度はどんな記事が載るだろうか。

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