マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

昼間に東京スカイツリーが黒く見えた訳は?

2017年11月21日 | 地学・天文

 私が利用しているGooブログには“アクセス・ランキング”というコーナーがあって、例えば前日の訪問者数が分かるようになっている。最近の訪問者数は150人200人くらいで推移していたが、1ヶ月ほど前、突然300人台を記録した日があった。不思議に思い”アクセス解析”を見ると、「東京スカイツリー」で検索し、このブログに到達した訪問者が40人ほどいたことが分った。前日にスカイツリーがマスコミに取り上げられた形跡はなかったから、突然の訪問者増加の理由は分からないまま時が過ぎて行った。

 ところがその日から1週間ほどして、ブログにコメントが寄せられた。2015/12/5のブログで「昼間に黒く見えた東京スカイツリー」と題した一文へのコメントだった。
 そのブログ要約すると
 「20151127日に、富士前福寿会の3人で竹芝小型船ターミナルから新東京丸に乗船した日、快晴にもかかわらずスカイツリーが時々黒く見えた。昼間に黒くなる現象を不思議に思い、自分自身でも考え、周りの人に聞いた結果、向丘高校の同僚だった石野さんから、『多分雲の影だろうと思う』との解答があった。その説ならばなんとか納得が出来る。このブログを読まれて新説があればコメントに書いて下さい」というものだった。
 もう2年ほど前のことである。よもやコメントが寄せられるとは思ってもいなかったのだが、この11月7日に”のぶさん”という方から、次の様なコメントがあった。
 
「雲の影です。建築途中から毎日見ていていつも驚いていました。良く見ていると、晴れた日でも気が付かない雲があるもので、それがツリーとの間に入り光量が落ちるとあの輝くような白がグレーになります。数秒目を離した際に色が変わっていてビックリした事が何回もありました」と。
 そのコメントに私は「東京スカイツリーを良く観察した方から、『グレーに変化する原因は雲の影』とのコメントを頂き、そうであったかと納得出来ました。有難うございます。同じ事に気が付いている方がるいることを知り嬉しかったです」と率直な気持ちをコメントした。
 (上の写真も含めその
日に撮影した東京スカイツリーの3葉。様子が全く異なって見えた)


  
 

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「明応の東海地震」を知って

2017年08月14日 | 地学・天文

 1498(明応7)825日に、マグニチュード8.28.4と推定される“明応の東海地震”が起こった。日本中世最大級の地震であったと考えられている。
 この情報は妻から聞いた。妻は「源氏の会」で『更級日記』を解説するため、作者菅原孝標女が京へ帰京する際に利用した中世の東海道を調べる過程で『中世の東海道をゆく』(著:榎原雅治 中公新書)に出合った。その本が私に回って来たのだ。
 本書の著者は、東大史料編纂所々長だった歴史学者で、内容は鎌倉時代の貴族飛鳥井雅有一行が京都を出発し鎌倉を目指した旅の様子を記した、旅日記『春の深山路』を題材にして、中世の東海道を解説したものである。
 その第3章「湖畔にて・・・橋本・・・」の“浜名の風景”の中で、初めて明応の東海地震が登場してくる。
 
《現在でも浜名湖は東海道有数の景勝の地であるが、十五世紀末より前の浜名湖は今とは異なる形をしていた。そしてその形はある日突然に変わった。明応7年(1498)8月25日辰の刻(7時~9)に御前崎沖で発生した地震が本州中部の広い範囲で起こった。大きな震動に遭遇した京都の公家は「生まれて以来、このようなことは経験がない」(『実隆公記』八月二十五日条)と記し、ひと月ののち、別の公家は伊勢・三河・駿河・伊豆に大波が押し寄せ、海辺二、三十町の民家がことごとく流されてしまい、人命も牛馬も数知れず失われたとの情報を耳にしている(『後法興院記』九月二十五日条)。推定される地震規模はマグニチュード8.28.4で、日本中世最大級の地震であったと考えられる》と記している。
 公の文章にこの地震の記録はないようだが、何人もの公家の日記にこの地震のことが記され、大きな地震の起こったことは歴史的事実と考えて間違いない。

 
問題はその規模と影響だが、著者は3つの事実を挙げている。(右は明応地震以前の浜名湖南部の地図に東海道新幹線など現在の要素を書き加えたもの)
 
(1)   現在、浜名湖に向かって西から流れ込んでいる浜名川は、地震以前には、逆に浜名湖から遠州灘に向って西へ流れていた。要するに、川の流れは逆転した。
 
(2)   東海道のなかでも有数の橋本宿は消滅し、住民は寺社とともに新居地域に移住した。
 
(3)   浜名湖と遠州灘は繋がっていなかったが、この地震により、今切(いまぎり)という湖口が出現し、湖は海と繋がった。
 
(地震によって浜名湖は1メートルほど沈降し、満潮時には海水が遡上し汽水湖となった。との通説もある)
 
更には『皇代記』に驚くべき記述がある。(文章は現代語訳)
 
《高潮は地震によって満ちて来た。そして引いたときにはとんでもないものだった。海底の砂が現れ、魚はことごとく死んでいた。はるか彼方まで潮が干上がり、世にもまれな不思議であるので、人々はみなこれを見学していた。ところが突然、高潮が起こり、山のようになって襲って来た。干潟に出ていた者は仰天してみな戻ろうとしたが、大半は途中で死んでしまった》
 津波第二波の襲来に先だって大規模な引潮現象が起こったのだ。
2004年インド洋大津波でも、3・11大震災でも起こったと同じことが、今から519年前の明応の東海地震でも起こり、記録に残されていた。しかし、そのことは語り継がれて来なかった。このような記録の収集と啓蒙こそが、地震・津波大国日本の政府など公の機関の大きな役割のはずだ。

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観月会を開催

2015年09月29日 | 地学・天文

 インターバル速歩=筋トレの話は後日に回します。
 一昨日は中秋の名月、昨日は満月だった。特に昨日は「スーパームーン」の日でもあった。

 月は楕円軌道を描きながら地球を回る。それ故、円軌道ならば月と地球の距離は一定に対し、それは刻々と変化するが、両者の距離が一番近くなる満月(あるいは新月)の日がスーパームーン。晴れていれば月に一度ほど見られる満月の中でも視覚上一番大きい満月が見られる日。通常より14%ほど大きく見えるそうだが、実際に見た目にはココロナシか大きい程度。
 

 9月25日(金)はマンションの理事会だった。主な議題は大規模修繕の完了を確認し、それを決議すること。工事が完了した後、修繕委員会委員長の青木さんと理事長の私は、施工業者さんとともにマンション内外を見て回り、更なる手直しを依頼しておいた。その修正工事も終わっていたので、理事会は最後の形式面を整える会議とも言えた。会議終了間際、私は「明後日は中秋の名月。今年は修繕工事の為花火鑑賞会は中止しました。その工事も完了したことだし、それを記念し、花火鑑賞会の代わりに屋上で観月会を実施しませんか」と提案。27日20時半からの観月会開催の流れとなった。(写真:中秋の名月。自宅より撮影)



 27日当日の天気予報は夜曇り。その場合は28日のスーパ―ムーンの日に順延と貼り紙掲示もしておいた。ところが27日は正午頃から晴れ始め、19時から開始と手直し、ワイン・ビール・ツマミを用意して会を開始した。最初は5人で始めた観月会は、最終的には延べ11名の参加。
 東の空から上り始めた月は見事なまん丸お月様。時間の経過につれ、東京スカイツリーの上の方を過ぎ、だんだんと天空へと上っていった。ワインを味わい、お喋りを楽しみながら長時間、東京の夜景とともに中秋の名月を堪能した。(写真:用意したワインとビール。その向こうに微かに名月)




     
(スカイツリーの上に名月)(この上に飲食物を置いての立食パーティー)

 昨日は、夕食後7時過ぎ、妻と吉祥寺(お寺の方)に出掛けスーパームーンを眺めた。この寺の東側には高層ビルがあまり建っていないので、地上からでも月がよく見える。妻は真っ暗なので怖いと呟いたが、光の邪魔を受けないで満月を愛でることが出来た。その後マンションの屋上に回り月を眺めたが、次第に雲が出始め、雲間から覗く満月もあった。真っ暗の吉祥寺境内から眺めた満月が殊更美しく思えた。(写真:吉祥寺境内で撮影のスーパームーン)
 かくして二日間、じっくり月を眺めたのであった。



   
(雲の掛かってきたスーパームーン:屋上で撮影)    (27日撮影の東京スカイツリー)

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中央構造線(その2)

2015年05月11日 | 地学・天文

 「中央構造線博物館」のホームページには、“地上700km上空から写した人工衛星画像には、西南日本を縦断する、まっすぐな谷が写っています”と書かれ、写真が添えられている(右図参照)。人工衛星からもその姿が確認できる!とは。これは凄いことだ。
 建物外の掲示板には“中央構造線は断層破砕帯なので、浸食を受けやすく、中央構造線が尾根を横切るところに峠の様な地形=断層鞍部が出来ます”とも書かれていた。思うに構造線が尾根ではなく、谷を奔れば、同じ理由から谷はより幅広く、より深くなり、その陰影を人工衛星から確認出来るのだろうと愚考した



 「博物館」の周りには、中央構造線を境に、両地帯で採取された岩石が並べられ、内部には、大鹿村近辺の”地質概要図”の立体模型が展示されていた。この模型を上から見ると分杭峠までの様子が分かり、スイッチを押すと、片側が“地盤沈下”し、断面が現れた。(写真:立体模型図)









 
 さて、今日は人口衛星ではなく、気球船から鳥瞰する気分で、地上1000キロに及ぶという中央構造線の、九州から信州までを見てみよう。地図は「博物館」から拝借した。
①九州では天草諸島付近から出発し、九州中央部では、阿蘇山の下に隠れ、大分県の国東(くにさき)半島と佐賀関(さがのせき)半島の間を抜けている。

 


 















②豊予海峡を経て四国に上陸し,四国山地の北部を抜け、淡路島をかすめ、紀ノ川河口付近で紀伊半島に上陸し、松坂へと抜けている。(何やら台風通過放送のようだ)











③三河湾から豊川を通り、天竜川と合流する付近から北東に進路を変える。青崩れ峠を抜け、152号線(=秋葉街道)の谷間に沿って北上し、大鹿村に到着。なおも北上して、ファッサマグナと交差する



 

 私が一番興味を抱いていたのは、中央構造線はどこでフォッサマグナ西端の糸魚川ー静岡構造線と交叉するかという点だ。図からは諏訪湖付近と見えるが、確認をしたくて、博物館の学芸員に電話して聞いてみた。明快な説明があり、茅野市諏訪大社前宮付近とのことであった。これより東側ではフォッサマグナの下に潜り込み、露頭は現れない。再び姿を現すのは関東平野からと説明されている。
 私にとって馴染み深い、茅野市や諏訪神社。この前宮付近で両構造線が交叉していることは、感慨深いものがあったが、ここから約10キロの、我が山小屋は大地震に際してはどうなるのだろうとの一抹の不安も抱いた。
 帰路は、その中央構造線の谷間を杖突峠へと抜け、急勾配を一気に下って、上諏訪でレンタカーを返却。7日間で610キロの走行。ガソリン使用量はは47リットルだった。


今日の一葉:吉祥寺栴檀の木。11日写す。

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中央構造線(その1)

2015年05月09日 | 地学・天文

 私は、フォッサマグナと中央構造線を混同していた事に、前回遠山郷を訪ねた折に気が付いた。中央構造線についての理解を深め、実際にその露頭部分を見学したくて、大鹿村を再訪したのだった。
 

 小渋川沿いにある「中央構造線博物館」は中央構造線上に建てられていた。残念ながら、説明が分かりやすいと噂の学芸員は留守だった。止む無く、ガイド無しでの見学だった。以下はここで得た知識やネット情報を私なりに整理しまとめたものである。


 まずは中央構造線とフォッサ・マグナの違いについて。
 標語的に書けば、中央構造線が、九州から四国、紀伊半島を経て千葉・群馬にかけて、線状に、東西に連なり、日本列島を縦断しているのに対して、フォッサマグナは日本海から太平洋にかけて、帯状に南北に奔っていて、その帯の西側は、糸魚川ー静岡構造線と呼ばれている。(右図及び下図参照)


    (右上図の拡大図)
 中央構造線の成立が、今から一億年前と推定されるに対して、フォッサマグマは1500万年前ほど前、日本列島が大陸から離れる際の力学的構造変化が原因とされている。要するに中央構造線成立後数千万年してファッサマグナが出来上がったということである。

 さて中央構造線について「三峰川資料館」の資料によれば
 『中央構造線は日本列島ができる時代に形成された断層です。
 日本列島周辺では、太平洋のプレ-トが、太平洋側の海溝でユーラシアプレートの下に沈み込んでいます。太平洋のプレートがユ-ラシアプレ-トの下に潜り込むときに、太平洋の方からずれてきた岩石を「そぎ削る」ようにおいていったものを「付加体」と呼びます。この付加体がアジア大陸の縁に沿って大きく横ずれしたものが中央構造線です。』とある。
 要するに、日本列島が大陸と陸続きであった時代に、ユーラシアプレートに太平洋プレートが付着したとういことで、当然成分が違うはずであるが、その違いは色の差にはっきりと表れ、その露出の幾つかをこの大鹿村や長谷村で見ることが出来るのだ。

 私たちは5月7日(木)に、長谷村にある“溝口(みぞくち)露頭”を見学に行った。ダム湖へ降るとそれが良く見えるはずだが、岩崩が起きていて現在工事中で、間近での見学は叶わなかった。少し離れた位置から見学し撮影したのだが、遠目にもその成分の色の違いが分かった。右写真に見る様に、左の茶色側が“西南日本内帯”と呼ばれ、伊那山脈はこちら側。右の緑色側が“西南日本外側”と呼ばれ、南アルプスはこちら側。ここを見学出来て、今回の目的はほぼ達成した。


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