マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

「八国山緑地」へ

2020年10月30日 | 山旅

  10月26日(月)、大泉高校での先輩同僚の石川さんと八国山(はちこくやま)緑地へ行ってきた。石川さんは東京歴史散歩への参加を希望されていたが、雨で中止。楽しみにしていた再会は叶わなかったので、高尾山登山を提案した。ところがこの時期高尾山は紅葉の季節到来で人口密度が濃くなるので避けたいとのこと。代替案として八国山緑地へのお誘があった。初めて名前を聞く、見知らぬ地域だったので、喜んでご一緒した。
 待合せは西武新宿線東村山。この日は次の様に回った。
 東村山駅→正福寺→市立北山小学校脇→ころころ広場→尾根道→(昼食)→尾根道→おおぞら広場→市街地→東村山駅

 東村山は新型コロナ感染症が原因で亡くなられた志村けんさん出身の地。駅前には彼の活躍を記念して「志村けんの木」が植えられていると聞いてはいたが、この場所を特に捜すことはしないで、市街を石川さんに案内されるように散策開始。まず向かったのが正福寺。実は掛かりつけの歯医者さんに「来週八国山緑地に行くのです」と話すと、「私3週間前に行ってきました。そこには国宝の正福寺がありますよ」とのことだったので、是非立ち寄ろうと考えていた。(写真:正福寺本堂)



 正福寺は鎌倉時代中期に建長寺僧石渓心月の開山により創建されたと伝えられる、臨済宗建長寺派の古寺だ。その地に1407年に建立された地蔵堂は国宝の指定を受けている。千体地蔵堂とも呼ばれ、建造物として都内唯一の国宝と知ってビックリ(現在は迎賓館も国宝に指定されている)。こけら葺きの屋根が美しい曲線を描いている。このお堂の中に900体もの地蔵さまが祀られているそうな。本堂も立派で墓地も広かった。私などが初めて知る、地方の名刹。(写真:国宝千体地蔵堂)



 この寺の墓地を抜け、市立北山小学校を過ぎると、八国山緑地の入口の「ころころ広場」で、保育園児たちが遊んでいた。緩い傾斜を上りきると尾根道に出た。その後はアップダウンの殆どない、快適な散策。尾根道の右側は東京都で左側が埼玉県所沢市。この稜線は県境で、八国山という名称の由来も、かつては上野・下野・常陸・安房・相模・駿河・信濃・甲斐の8つの国を望むことができたことに由来するそうだ。今は所沢の市街が見渡せる以外展望は開けていなかった。


 尾根道ハイキングは2キロほどで市街地へ下山。午後2時過ぎには東村山駅に戻ってきた。帰宅して歩数を調べると1万5千歩。
 山道途中での休憩時と昼食時に石川さんと色々お喋りをした。懐かしい話題も多々あり、それが一番楽しかった。高度差の厳しい登山より、軽い登山が適していることを実感するハイキングでもあった。
 後日、石川さんから来たメールには
 「八国山稜線上でコナラの幹から出ていた木くずはカシノナガキクイムシという体長数ミリの甲虫の仕業でした。翌日公園管理者(狭山公園パークセンター)に問い合わせたら既に承知していて対策を考えているところでした。拡散力が大きく、放置すると大きな被害が出る有名な害虫なので心配していました。」とあった。
 当日、石川さんが甲虫を発見した瞬間の、目の付け所にビックリしたのだが、その後の対応にもただただ感心するばかり。
 


国営昭和記念公園へ

2020年10月27日 | 東京散歩

 10月21日(水)、今日までが快晴というこの日、「国営昭和記念公園」でサイクリングをしてきた。この公園へは10数年以上前にミニクラス会で行ったことがあり、銀杏並木の黄葉が見事だったという微かな記憶が残っている。

 折り畳んで室内に置けるのが“ミニベロ”購入の大きな理由だが、もう一つの理由は電車やバス内に持ち込みが可能という点にあった。自転車を走らせては行けない遠い場所でのサイクリングもやって見たかった。自動車運転が可能だったときは、後部座席に自転車を積んで諏訪湖まで行き、そこで湖一周のサイクリングをしたこともあったが・・・。

 この日の行程は、駒込富士前→(都バス)→JR御茶ノ水駅→(中央線+青梅線)→西立川駅 
 西立川駅で下車し、改札を出ると、そこが8つある公園入口のひとつ「西立川口」だった。ミニベロは軽いとは言え袋詰めにして10キロはあり、持ち運びに便利ではない。西立川下車までにも相当難儀した。駅から公園入口まで至近距離の西立川口がベストと判断していた。65歳以上210円という入園料を払い、売店傍で袋詰めからミニベロを取り出し、袋はコインロッカーに仕舞い出発しようとした。
 ところが、サイクリングコースに関する説明が全くない。そこで係員と思しき方にコースの質問をすると、「ここは自転車を持ち込んではいけないエリアです。自転車利用の方の入口は別にあります。今日は仕方ないのでこのままコースに案内しますが、次回からは間違えないでください」と言われながら、サイクリングコースに誘導された。後で分かったことだが、入園の際、自転車を袋詰めにしていたので、受付では何を持ち込んだか分からず、入園チェックに引っかからなかったのだ。
 コースまで来ると案内板がしっかりあり、走行開始。この公園兎に角広い。立川市と昭島市にまたがる165haもの面積は東京ドーム45個分もの広さ。その公園の一番外側を、公園を包むようにサイクリングコースが作られている。外周コースは5キロはあるだろう。サイクリング専用コースの全長は14キロとも。今回は下見の積りなので全コースは回らず「こもれびの丘」で引き返したきた。
 スピードを出すサイクリストは少なく、家族連れが多かった。荒川では開放的空間を走ったが、この公園では鬱蒼とした樹々の間を森林浴しながらの走行となる。こもれびの丘にはテントが張られ、ここでの楽しみ方は四季折々に多彩であるようだ。

 レンタル自転車には二人乗りもあった。自転車に殆ど乗ったことのない妻にその経験をさせるのも良いなと思った。銀杏の見ごろは11月中旬とかで、もう一度訪れようとも思いながら帰宅した。







「阿弥陀の渡船場跡」を見ての疑問点

2020年10月24日 | 東京散歩

 六阿弥陀一番の西福寺から見て二番の、小台にある延命寺は隅田川の下流に位置する。それなのに何故、参詣者は隅田川の上流にある「阿弥陀の渡し」に向かったのだろうか?安政年間の地図には「六阿弥陀渡」とはっきり書かれている。延命寺が渡しの向こう側直ぐ傍にある恵明寺に合併されたのが明治九年。それ以前の安政年間に何故小台にある延命寺に向かわないで、上流の渡しに向かったのか、私が抱いた疑問である。謎といってもいい。
 その謎を私なりに解いてみた。
 (1)「阿弥陀の渡船場跡」の説明板には「二番延命寺(江北橋北詰にありましたが、明治九年恵明寺に合併されました)への・・・」とある。読み過ごしていたが延命寺は、ある時から小台ではなく江北橋北詰にあったのだ。
 (2)早速重ね地図で、現代の江北橋付近と江戸時代の地図を見た。地図には恵明寺のすぐ傍に「別当延命寺」があり、「六阿弥陀二番」とも書かれている。(写真右図)
 (3)恵明寺に電話をして、私の感じていた疑問点をお尋ねしたしたところ「江戸末期には延命寺は無住職であったかもしれません」とのことだった。
 これらのことから、私は次の様に推測した。(b)がポイントである。
 (a)ある時まで、小台村にある延命寺が六阿弥陀第二番としてあった。
 (b)あるときから、阿弥陀仏は恵明寺傍の別当延命寺に移され、安政時代を経て、明治時代までそこに安置され、こちらが第二番となっていた。それ故、参詣者は阿弥陀の渡しを渡った。
 (c)明治九年、延命寺は恵明寺に合併された。
   ここからは「足立区郷土資料館」によるが
 (d)合併した後も、境外仏堂として六阿弥陀仏は旧地に安置されていた。
 (e)明治44年に荒川放水路が作られると、仏堂がその河川の敷地にあたることになり、現在地(恵明寺内)に移転した。

 再度安政地図を見ると、ピンク色が寺地だが、小台村飛地内にある別当延命寺は殆ど地がない。人が住んでいたとは考えられない坪数だ。とすれば、阿弥陀仏や参詣者の面倒を恵明寺が見たと考えることが出来る。その流れの中で明治九年に恵明寺に合併されたことは極めて自然なことだったろう。恵明寺へ移管に関しての記述はいろいろ読んだが、記述は(a)から(c)に飛んで(b)には触れられていない。(b)の様に書かれた文章にはお目にかかっていない。読者諸賢の批評を待ちたい。
 
 

 

 


「阿弥陀の渡船場跡」を知る

2020年10月21日 | 東京散歩

 10月12日(月)のことだった。この日、11時に元同僚の草野さんと赤水門付近での再会を約束していた。二人とも自宅からそこまでのサイクリング。私はこの日は初めて、小台橋経由後直ぐ荒川土手を目指すルートではなく、江北橋付近の「宮城ゆうゆう公園」経由でのアプローチを考えていた。
 荒川沿いのサイクリングをするのに右岸・左岸とも2つのコースがある。私は右岸しか走っていないが、そのコースは土手の上を行くコースと、その下を走るコースの2つがある。スピードを出して走るには土手下コースの方が良い。のんびり行くには土手の上のコースで、時に自動車道路と交差するが、見晴らしは良い。この日は初めて土手コースをいった。そのお陰で宮城ゆうゆう公園を過ぎて直ぐ「阿弥陀の渡船場跡」と書かれた看板に出合った。この看板を知ったことにより、新しく知ったことが二つ。疑問に感じていることが一つある。今回は知りえた事柄を綴る。(写真:看板とその後ろ土手下コース)
 看板には凡そ次の様に書かれていた。「ここはかつて豊島村から沼田村(足立区)への渡船場がありました。この渡船場は、豊島の渡、六阿弥陀の渡、中の渡、原の渡とも呼ばれていました。旧荒川(現隅田川)の流路は、現在の荒川まで大きく湾曲していて、この地形を天狗の鼻と呼んでいました。この渡船場は、六阿弥陀詣での一番西福寺から二番延命寺(江北橋北詰にありましたが、明治九年恵明寺に合併されました)への参詣路にあたっていたため、六阿弥陀詣の行われる彼岸の時には、参詣者でとくに賑わいを見せました」と。更に「大正12年(1923)荒川放水路(現荒川)に江北橋が、大正14年に現隅田川に豊島橋が架橋され、この渡船場も姿を消しました」とあった。ここが六阿弥陀詣での渡しだったことを初めて知った。帰宅してすぐ重ね地図で調べ、江戸時代(下図の左)と同じ場所の現代(下図の右)の地図を見比べた。


 荒川放水路が造られたとき、隅田川は特に変更されることはなかったと思い込んでいたが、この渡しの付近(天狗の鼻)で、大きく造り変えられていた。天狗の鼻の内側が削られ、隅田川の流路が変更され、取り残された隅田川の一部が荒川放水路となっていた。
 現代の図を見るとそれがよく分かる。茶色線は北区と足立区の区境で、かって隅田川はこの区境の様に流れていた。言い換えれば隅田川が区境になっていた。現在隅田川は北区側に流路変更されたのがよく分かる。蛇足になるが荒川放水路を造るため、大きく曲がった隅田川の流れが削られ、その部分に荒川放水路と堤防が築かれたのだ。
 この辺りで荒川と隅田川の間隔は狭く、両方の川を眺めるには絶好の地点だ。「宮城ゆうゆう公園」では多くの人々が憩いのひと時を過ごしていた。私も水分補給をした。疑問点については次回に。


東京歴史散歩、中止

2020年10月18日 | 東京散歩

 昨日の17日(土)は都高教退職者会主催の歴史散歩開催の日だったが、雨の為、中止せざるを得なかった。数日前からこの日は雨の確率が高いとの予報が流れていたためか、2日前の15日から、「歴史散歩は開催するのですか」との問い合わせが3つもあった。早めの決断をしなければならない心境となり、予報に変化のないことを確かめてから、心残りではあったが前日に中止の決断をした。私は2012年からこのイベントの担当をしているが、中止は二度目のことだったかもしれない。(記憶違いかも)。
 今年は「歴史散歩」をどうするかで迷う面が多かった。原因は新型コロナウイルスである。コロナ感染の状況が秋にはどうなっているかは6月段階では予測が出来なかったが、執行部からの「やりましょうよ」の声に押されるようにして10月17日の開催を決めた。
 場所は、私が何度か歩いたことがあるので実踏をしないでもよい、中山道の巣鴨→本蓮沼間と決めたが、資料作成段階を含めて結局3回ほどこのコースを歩いた。歩く毎に発見もあり、最終的に出来上がったのが最下段の資料。ただ今回は毎年の様に資料を作成してくれる真中さんから何の連絡もなく、こちらから催促することも憚ばかられたので、説明文パンフレットの作成は省略した。案内する場所の多くは掲示板に説明が書かれているので、それを読んで頂こうと考えた。
 飲食を伴う場合感染の可能性が増すと考えられ、散歩終了後の懇親会をどうするかでも迷った。例年より緩い自由参加を前提に懇親会実施を決め、ランチ飲食可能なお店を探した。実踏の際、本蓮沼駅付近の肉焼店「うしのすけ」を発見。当日の飛び込みでも10名くらいなら宴会可能との返事を聞いて、この店を心積もりしたのだった。雨は一日中やまず、寒い一日だった。中止で良かったかもしれないと自己納得している。
 (下の地図は『中山道 浪漫の旅』を基に作成。番号は回る順番。番号の名称を本文中に書ききれない名称は左上欄で説明)