マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

東博ミュージアムシマターで『空海 祈りの形』を観る

2019年06月29日 | 仏像

 6月19日(水)東博で『奈良大和四寺のみほとけ』を拝観後、東洋館の地下1階に移動し、ミュージアムシアターで『空海 祈りの形』を観た。平日の水・木・金は12時・13時などから35分ほどの上映で、料金は500円。70歳以上無料などという特権は無い。人生そう甘くはないのだ。
 3月~6月に、特別展として開催されていた、東寺講堂・立体曼荼羅の世界をVRで解き明かそうとする作品だ。東博で拝観した立体曼荼羅の世界は東寺講堂の構成とは異なっていて、実際の曼荼羅を拝観したことの無い私には、VRながら実際の空間を観られる有難い作品だった。細部まではっきりと映し出される仏像の見事さに観入った。


 制作は凸版印刷だけあって実に美しい映像に仕上がっていた。かつて、黒田日出男氏の講演「舟木本洛中洛外図と豊国祭礼図の謎解き」を聴いたとき、彼は凸版印刷の開発したデジタル技術を絶賛していたが、その凸版印刷の制作だけあって迫力のある見事な映像だった。
 退館するときに冊子『東寺』を購入して、帰宅後観て来たばかりの世界を本で眺めていると、「お試し下さい。スマートフォンをお持ちになり360度の画像をお楽しみ頂けます」との文章が目に入った(下段の左の図)。スマホで無料アプリ「AReader」をダウンロードし、この冊子内のARマーカを撮影すれば良いと分かり、実際にやって見た。
 冊子内のデーター(下段の右図)を読み取ると動画が現れた。講堂内の帝釈天や不動明王を須弥壇上でバーチャル拝観が出来るのだった。更にスマホを持って一回転すると、講堂内の景色も回転した。スマホで講堂内を写真撮影している様な不思議な経験。初めて体験する世界だった。



 
 
 結局、立体曼荼羅の世界を、実際拝観で、ミュージアムの映像で、冊子で、スマホでと、4方面から観たことになった。

  


 


特別企画『奈良大和四寺のみほとけ』を観る

2019年06月27日 | 仏像

 6月19日(水)、妻に誘われて、東博で『奈良大和四寺のみほとけ』展を観て来た。展示会場は平成館ではなく本館の11室、特別展示ではなくて特別企画だった。
 奈良大和四寺の四寺とは岡寺、室生寺、長谷寺、安倍文殊院のことと会場で知った。奈良より更に南に位置する、近鉄大阪線や吉野線沿線の寺々で、安部文殊院以外は何度か訪れたことがあった。こちらから出掛けるには随分遠いところからのお出ましで、「良くぞお出で下さいました」との呟きが聞こえた。有り難いことに、国宝など、寺の選りすぐりの名品を鑑賞出来た。国宝4点や重文など全部で15点の展示。そう広くはない会場をゆったりと回った。(写真:図録表紙の室生寺の十一面観音菩薩立像)



 岡寺からは《開祖義淵僧正坐像》(国宝)。顔に刻み込まれた皺や浮き出したあばらなど、そのリアルな造りに驚かされる。初めて観たのが《天人文甎》で、解説文には「甎とは焼いて仕上げた煉瓦のことで、ひざまずく人物は天人と思われる」とあった。小さい《菩薩半跏像》も初めて拝観した。岡寺本像の像内から発見されたと伝えられ、31cmと小さく可愛らしく思える仏さまだ。(写真:右は《菩薩半跏像》で下は《天人文甎》




 室生寺からは国宝2点を含め全部で4点。2012/11/23のブログに書いた様に、7年前に金堂内で《薬師如来坐像》と《十一面観音菩薩立像》を拝観した。その両国宝がお出でになっているとは!しかも直ぐ目の前で拝観できるのだった。十一面観音さまはふっくらとした頬でふくよかなお顔。細い線で刻まれた衣文線が美しい。
 仏像よりも本堂舞台の印象が強い長谷寺からは2つの十一面観音菩薩立像を含む6点。本尊の十一面観音菩薩立像の移動はあり得ないか?
 安倍文殊院からは、快慶作《文殊菩薩像》の像内から発見された国宝の経巻、《仏頂尊勝陀羅尼・文殊真言等》のみ。
 
毎度のことではないが、今回は東博の入館料620円(70歳以上無料)のみでこの特別企画を拝観できる。会期は6月18日~9月23日とのことで、再度ここを訪れたい思っている。

 今日の一葉:漸く横顔を見せたシロクロエリマキキツネザル。25日撮影。  
     
 
 

 
 


母校の同窓会に出席

2019年06月25日 | 学校

 一昨日の6月23日(日)、母校小山台高校定時制の同窓会”偲櫻会”が武蔵小山にある「小山台会館」で行われた。私は初めての出席で、恩師安永先生にお会いすることが出来た。








 会場となった「小山台会館」は「公益財団法人 小山台教育財団」が運営する会館で、全日制の同窓会”菊桜会”と”偲櫻会”が中心となって20年ほど前に建設され、運営の中心をも担っている。4階建て建物で、ホールや会議室は品川区などの一般団体も低料金で使用出来るようだ。夜間自習室があるなど在校生には便利な施設だろう。武蔵小山駅や母校から徒歩3分くらい。ここを訪れるのも初めてだった。
 同窓会は3階大ホールで行われた。中央にはその後に行われる懇親会用のテーブルが設置されていて、部屋の隅にぐるりと椅子席が置かれていた。坐って開会を待っている間に安永先生がお出でになった。直ぐに挨拶をすると、「やあ」と言って強い握りの握手。多分30年振り再会の瞬間だった。

 決算報告や今年度の予算案の提案など型通りの総会は20分弱で終了。続いての懇親会の冒頭に校長などの来賓が入場し挨拶。その後、突然、司会は「今年安永先生が卒寿を迎えられましたのでお祝いを差し上げたいと思います」と語った。意外なことだったらしく先生は固辞されていたが、最後にはお祝いのものを受け取られ万雷の拍手。この7月1日に90歳になられるのだ。一言の挨拶で「日々の生活のリズムを大切にしています」と話された。90歳とはとても思えない、溌溂とした姿。この場面に出合えただけで会に参加して良かったと思った。(写真:挨拶される安永先生。右は同窓会々長近藤和子さん)

 参加者40数名のもと懇親会開始。私の知っている人は先生だけだった。先生は、同窓会会長など色々な方に私を「24期生で、私が担任しました。卒業後大学で数学を学び、都立高校の教員を勤めあげました」などと紹介して下さった。






 宴半ば、10数名が登壇し、校歌の合唱が始まった。会場の皆も一緒に歌った。府立第八中学校歌に続き、文化祭寄贈歌も歌われたが、寄贈歌は5番まであるのに何故か2番で終わってしまった。それがすごく残念だった。
 更に数十分の後、司会から「皆さんで校歌を一緒に歌いましょ」との声がして、安永先生に促されて私もその輪に加わった。最後に歌ったのが文化祭寄贈歌。

 この文化祭寄贈歌の作詞は現役教員だった赤堀先生だそうな。先生が定時制の生徒を励ますような歌詞で、文化祭に歌うだけでなく、私などは日頃良く口ずさんだものだった。ここでは5番まで、私も大きな声で歌った。
 例えば4番はこうだ。
 「現(うつ)し世の 波きびしくて
  憩(やす)らう時も なき道ぞ
  今不死鳥の ゆく如く
  雲を砕きて 友よ 友よ 飛ばんかな」
 宴は午後4時には終了。毎年出席の安永先生からは「来年又会おう」と言われ会場を後にした。
 
 

 


ヨッちゃんに再会

2019年06月23日 | 身辺雑記

 50歳を過ぎたK先生のことをヨッちゃんと呼ぶのは些か失礼かもしれないが、今日のブログでも、長年呼んで来た愛称の方で綴っておこう。
 ヨッちゃんと初めて会ったのは彼が新卒として向丘高校へ着任したときだったから、今から30年以上前のことになるか。以来、若い彼をランニングや登山や温泉に誘った。彼の運転で、石打丸山・かぐらみつまた・上越国際などへスキーに出掛け、私の息子や姪などがスキーを教えて貰ったこともあった。管理職となってからは忙しく、飛鳥山の花見で会うのもたまになっていた。
 その彼からの今年の年賀状を読んで驚いた。「昨年、体調を崩し、自宅療養中です」とあった。詳しい様子を知りたくて細君のマミちゃんに電話したり、メールで様子を聞いたりした。
 
9月に喉頭癌、咽頭癌と診断されました。10月末に手術をし、声帯と甲状腺、リンパを切除しました。11月の中旬に退院して、現在まで自宅療養しています。食道発声をこれから習得しようと思っています。体力は落ちていますが、元気です」とあった。要するに声帯を切除し、今は発声練習中とのことだった。彼の辛さが想像出来た。
 忘れかけていたが、サンシャインでの結婚式の司会は私で、彼の妻のマミちゃんとも何度か会っていた。一緒にスキーに行ったこともあった。彼女の苦悩が分かりて私も辛かった。
 発声が困難なときこそメールが役立つ。何度かのメールのやり取りをした。直接会って様子を聞きたかったが、再度の入院がなどがあり、なかなか再会できなった。特に今後の勤務をどうするのか案じていた。
 3月に「かって勤務したことのある定時制に副校長のまま転勤が決まりました」とのメールがきて、6月9日に再会出来た。
 集いしは、彼を含めて元向丘高校の同僚の5人。日曜日でもランチをやっている吉池食堂で、空いていそうな時間を狙って11時に会った。思っていたより元気そうだった。発声補助器具の電動式人工喉頭という見慣れないものを使用しての発声で、そう大きな声が出る訳ではなかったが、耳の感度が悪い私で辛うじて聞き取れる音量の発声だった。食道発声とはこのことだろうか?馴染みのある職場なので働きやすいと語っていたので少しは安心した。お酒は御法度だそうだが、今後は一緒に温泉へ行きたいな。

 下の写真は、左が通常での発声で、右が電気式人工喉頭を使用しての発声。
          
 



 
 


 


『我々はなぜ我々だけなのか』を読む(その2)

2019年06月21日 | 読書

 以下、本書から学んだ事柄を綴る。
 本書に登場する主な原人はジャワ原人とフローレス原人で、まずはこの両原人について。ホモ・サピエンスが出アフリカを果たしたよりも遥かに遠い遠い100万年以上もの昔、原人は
出アフリカを果たしていた。
 ジャワ原人が発掘されたのはの大スンダ列島の東端に位置するジャワ島で、フローレス原人の化石が発見された地点は、そのジャワ島より更に東にある、小スンダ列島のフローレス島。どちらの化石もインドネシア領のスンダ列島で発掘された。アフリカを出た原人は遠くスンダ列島にまで到達していた。氷期には海面が陸化し、ジャワ島までは移動が可能だった。フローレス島への移動は謎だ。(下図参照)
 

 ジャワ原人の化石は1891年に初めて、オランダ人デュボアによって発見された。かっては「ピテカントロプス」とも「直立原人」のも呼ばれていが、現在名は「ホモ・エレクトス」。アフリカを出た原人は約120万年前(160万年前との説もある)にはジャワ島に到着していた。
 最初の発見から現在いたるまでジャワ島ではジャワ原人の化石は多数発見され、現在でも発掘は続けられている。ジャワ原人は100万年以上にわたって進化せず停滞していたと考えられてきた(断続平衡説)。しかし、海部氏はこれまで誰も試みたことがないほどジャワ原人の化石を見る機会に恵まれ、研究の結果、実はジャワ原人は変化を遂げていたことを発見した。顎と歯を中心に研究した彼によれば歯のサイズが劇的に大きく変化したことからも、ジャワ原人は進化を遂げたと考えられている。
 しかし、ホモ・サピエンスが現れる時を同じくする5万年前頃姿を消した。

 一番興味深く読み、かつ驚いたのはフローレス原人だ。
 2003年に、インドネシア・フローレス島で、人類進化の基本知識に変更を迫る大発見があった。見つかった化石は5万年以上前のもので、ホモ属に分類出来る新種の原人。しかし身長1mあまりの小人。フローレス島には人類史上どの時期にも海を渡らなければ到達できないのだ。(写真:フローレス島で発見された小型原人の復元模型)







 ジャワ原人とは異なる原人と考えられていたが、現在ではジャワ原人の進化した原人と見なされている。100万年くらい前に島にやって来た原人集団の末裔という訳だ。矮小化した理由としては一応生物学的説明が可能で「閉ざされた島の環境では大型動物は矮小化して、小型動物が大型化するといった、いわゆる”島嶼効果”が働いた結果」と考えられている。(写真:島嶼効果を示す模型。科博で撮影)



 最近でも原人の化石は次々に発掘されている。
 2014年にはフローレス島の
ソア盆地で人類の下顎骨1点と歯6点が発見された。年代は70万年前(80万年~65万年前)と推定され、海部氏らの研究チームはイギリスの科学誌『ネイチャー』に「発見された化石はホモ・フロㇾシエンシス(=フローレス原人)と類似する」というタイトルで人類化石について報告している。小型人間だった。
 2015年には「
台湾沖から原人の下顎骨化石が見つかった」と報道された。ジャワ原人・フローレス原人、北京原人とも異なる特徴を持ち、アジア第4の原人と位置づけられ「澎湖(ほうこ)人」と名づけられた。化石の年代は古くとも45万年前をさかのぼらず、おそらく19万年前より新しい。

 さて本書が目指した「なぜホモ・サピエンスだけが生き残ったか?」の謎は解けただろうか。まだ解けていない。サピエンス到来と原人の消滅が近い時間に起きたことには違いがない。そこからホモ・サピエンスが直接的に原人を”駆逐”した可能性もありうるが、直接証拠もないのに血なまぐさいことを考える必然性はないのではないかと、著者川端氏は考えている。
 謎は解けないが、アジアには多様な人類がいたことは本書からよく伝わって来る。現在ではDNA解析の研究も進んできて、ホモ・サピエンスと古代型人類の混血が何度かあったとの証拠も得られている。大いなる興味を覚え、科博へ出掛ける切っ掛けともなった。

 今日の二葉:昨日、飛鳥山公園付近で。左太極拳の人々。右すれ違う都電。