マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

大鹿歌舞伎を観る(六千両後日之文章 重忠館の段)

2016年10月30日 | 映画・美術・芝居・落語

 この5年間、元同僚のMさんから歌舞伎のチケットを頂き、東京での歌舞伎を何度も観る幸運に浴しているが、演目『六千両後日之文章 重忠館の段』を観たことは無かったし、内容も全く知らなかった。青年団作成のパンフレットには「この演目は大鹿歌舞伎のオリジナルな演目」と書かれていたが、歌舞伎座などでは演じられたことは無かったのだろうか?(帰宅して色々調べたらそれは事実だった。その話は後段に記した。)







 予めストーリーを読んでおいたことが観劇に大いに役立った。それにしても登場人物の多い芝居で、何と17人もが登場する。そのうち主役級が6人もいる。芝居は三部構成で、全ての段が畠山二郎重忠の館。
 第一部は重忠が、梅の花を通して、妻道柴の心の奥にある平家への思いを捨てるように諭す。妻道柴は平家方の主馬判官守久の妹。この道柴を演じるのが『大鹿村騒動記』の主舞台となった、食堂「ディアー・イーター」の女店主の由美子さん。その道柴が、かつての主人筋に当たる、囚われの身の、清盛の孫六代御前を折檻する場面では、小学校5年可南美ちゃん演じる六代が健気にも「恥辱の憂き目より早く首を討ってくだされ~」などと語る。泣かせる場面だ。(写真:道柴が六代を折檻する場面)

 
                                      (重忠と妻道柴)

 第二部は梶原景高が頼朝の偽りの令状を持参して、早く六代の首を差し出すように迫る場面。景高が階段からコケる演技がコミカルで面白い。
 第三部は修行者となった悪七兵衛景清が、六代を救うため三保谷四郎国俊と壮絶な戦いをする場面。見事な立ち回りが演じられた。この演目の見所の一つだと思う。国俊側の捕り手の一人、大鹿村中学の校長先生が花道から登場すると、客席から「先生~」、「校長!頑張れ!」と声が飛び、会場は爆笑の渦。(写真:景清が花道から登場)




 
(捕り手集団。右は大鹿軍内。一人おいて校長先生)           (左はコケた後の景高)

 
          (景清と道柴)                           (景清対国俊)

 
     (両眼をくりぬく景清)                     (頼朝様のお出まし)

 1時間半に及ぶ芝居は大拍手のうちに終了した。
 歌舞伎が全て終了すると裏方さんも含め関係者全員が舞台に並んだ。竹本登尚太夫の〆でお手打ち。観客も皆一緒に手合わせた。大きな拍手で大鹿歌舞伎は大団円のうちに終演。来年も来るぞの思いを抱いたのは私一人だけだろうか?(写真:”お手打ち”風景)






 この『六千両後日之文章』は10月22日(土)に松本でも公演とのこと。ご同慶の至り。
 2002年に長野市での公演でこの芝居が演じられ、その様子が詳しく記録されている。そこには
 「『六千両
後日之文章 重忠館の段』は、大鹿歌舞伎にだけ伝わる演目で、十五人の配役が登場する一時間半の長編芝居である。 平成 12年 3月 11日には、国立劇場(大阪市)において、「地芝居」としては初めて大鹿歌舞伎が上演され、その際に演じられたのが、じつはこの『六千両後日之文章 重忠館の段』だった。大鹿歌舞伎ならではの、素朴な演技は、訪れた多くの歌舞伎ファンを魅了し、今では大鹿歌舞伎の代表作として知られている。太夫弾語りは、保存会で「地芝居」の伝承に活躍されている竹本登尚太夫(片桐登さん)によるもので、その熱演ぶりも注目されている」とあった。


大鹿歌舞伎を観る(その2)

2016年10月28日 | 映画・美術・芝居・落語

 大鹿歌舞伎は見応えのある、観ていて実に楽しい芝居だった。観る前は、失礼ながらお芝居を楽しむというよりは、その「村芝居」の雰囲気に浸りたいとの思いの方が強かった。観ているうちに次第に芝居に引き込まれ、あっという間に1545分の終演となった。
 12時に幕が開くと、まずは村長の挨拶。話は大鹿歌舞伎の歴史に触れ、簡にして要を得た話だった。1996(平成8)年に国選択無形民俗文化財に指定され、助成金を受けているとのこと。全国各地で「村芝居」は演じられているが、補助金が付いているのはここだけとの話だ。(写真:大鹿村村長








 
村長の挨拶が終わり、『一谷嫩軍記』の幕が開いた。まずは玉織姫の登場だ。舞台から左手に伸びる花道が作られていて、そこから姫が登場すると万雷の拍手。「るいちゃん~」などと掛け声が飛び、おひねりが飛ぶ。おひねりとは白紙やテッシュペーパーに小銭を入れたもので、役者が登場したり、見得を切ったときなどに舞台目がけて投げるのだ。
 その玉織姫を演じるのは大鹿村教育委員会勤務の小林瑠伊さん。青年団が作成し、100円で販売された『大鹿歌舞伎 秋の定期公演』には、粗筋のみならず出演者のプロフィールまでがちゃんと書いてあるのだ。そこへ現れたのが、姫に横恋慕する、悪役平山季重。思いを遂げようと姫に言い寄るが抵抗され、可愛さ余って憎さ百倍、「敦盛は俺が討取った」と偽って姫を絶望に追いやり刺してしまう。(写真:花道から登場する玉織姫)



 
                                                         (玉織姫危うし)


 そこへ本演目の主人公平敦盛が登場。玉織姫以上の拍手とおひねり。『一谷嫩軍記』は歌舞伎座で観ていた。その舞台では、船で沖へ出てしまった平家の軍勢を追って敦盛は馬に乗って沖への向かうのだが、ここではそうはいかない。「お~い、お~い」と呼びかける熊谷次郎直実の声に引き返し、敦盛は直実と太刀を交えるが、最後は組打ちとなり、組敷かれてしまうのだった。(写真:直実と闘う敦盛)



                           

 
 ここからが有名な段。敦盛を逃がそうとする直実だが、平山から「平家の大将を助けるとは、二心ありか」との声に、涙ながらに敦盛の首を討つのだった。瀕死の玉織姫は、敦盛の首に別れを告げ息途絶える。
 太夫弾語りの竹本登尚太夫の語りが絶妙で、見事な語りが舞台を盛り上げる効果絶大。(敗色濃厚の敦盛)

 役者は役場の事務員・農民・宿屋の主人・校長先生・小学生等などみな地元の人々。観客とは顔なじみ。客席からは特別な思いを込めて「がんばれ~」の声援が飛び、舞台と観客が一体となっていた。村芝居の面白みここにあり!1250分終了。役者はみな小型マイクを身に着けていたのだろうか、私の耳によく透る声が届いていた。
 30分の休憩の後、
『六千両後日之文章』が開演された。


大鹿歌舞伎を観る(その1)

2016年10月26日 | 映画・美術・芝居・落語

 信州旅行3日目の1016日(日)朝7時半、私達4人は大鹿村目指して飯田のホテルを出発した。大鹿村では毎年、5月3日に春公演の、10月の第3日曜に秋公演の、歌舞伎が開催され、その日が当日だった。

 5年前、原田芳雄主演の映画『大鹿村騒動記』を観た。その印象は強烈で、いつか大鹿歌舞伎を観たいと思い続けて来た。この数年、大鹿村のある152号線沿いに旅することは多くなっていたが、それが演じられる日にここを訪れることはなかなか叶わなかった。今回はその日に合わせて旅行日程を立てていた。





 8時半に歌舞伎の演じられる「市場神社」着。8時より配布開始の整理券は既に終わっていた。そこで、席が確保されている最終列の真後ろに座布団を敷いて場所を確保した。1月ほど前に役場に電話した際、「整理券配布・座布団用意・席取り後1名は座席に残ること」は聞いていたので予定の行動だった。開演12時まで私一人が留守番をし、この間に3名の女性たちは、「中央構造線博物館」と「道の駅 塩の里」に向かった。(写真:秋公演が行われる市場座)




 待つこと3時間半、私はあまり退屈しなかった。舞台会場を見物し、観客の姿を撮影し、配布された資料を読んだ。朝早くは肌寒く感じられたが、9時過ぎると野外会場には陽が当たり始め、羽織っていた上着を脱いだ。快晴の空の下、里山と歌舞伎舞台と開演を待つ人々は一幅の絵になっていた。(開演3時間前)




 
信州の南端、南アルプスの山麓に位置する大鹿村では、江戸時代の昔から、芝居を愛する村人によって歌舞伎が演じられ、絶えることなく受け継がれてきた。1767(明和4)年に地芝居が上演された、との記述が村名主の記録にあるそうだ。ただ江戸から大正期の間は歌舞伎上演は禁令とされ、奉納歌舞伎として弾圧をかいくぐりながら、大鹿村の歌舞伎は生き続けて来た。隔絶された土地であったことが幸いしたのかも知れないと思った。(開演間近)



 

 配られた資料からこの日の演目が『一谷嫩軍記 須磨浦の段』と『六千両後日之文章 重忠館の段』と知った。女性3人も戻ってきて、地元食堂で購入の松茸ご飯とおでんの昼食を食べ終わると12時丁度、舞台の幕が開いた。


中央構造線へ(その2)

2016年10月24日 | 信濃紀行

 国道152号線は南下するにつれて道はどんどん細くなる。分杭峠を越える道は車のすれ違いが頗る大変。対向車が現れないことを願いながら、ゼロ地場と称される分杭峠を越えると北川露頭があった。駐車場から歩くこと10分。川岸にその断面はあった。
 更に南下し大鹿村に入ると里山風景が現れた。翌日に行われる大鹿歌舞伎の会場を聞く為に大鹿村役場に寄り、安康露頭への道を確かめた。村役場から露頭への道は運転の困難度が増してきた。ベテランドライバーTさんに運転のすべてを任せ走ること25分、漸く目的地に到着。
 
国道から川岸まで下ると、川の対岸に露頭が見えて来た。今まで見て来た露頭とは明らかに違う。中央構造線とは二つの地層が接触する断面と思い込んでいた知識は根底から覆された。赤土系の領家断層と緑色系の三波川地層が交互に露出しているのだ。中央構造線の断面は線ではなく幅のある窪みと理解したばかりだったが、まさか交互に、幾筋も現れているとは。
  ここ安康露頭は実は「中央構造線博物館」の野外施設である。私達が対岸の露頭を見学している横に中央構造線について説明する看板が新設されていた(今年の7月1日改定とあった)。
このことは、中央構造線に対する最新の学問的知識を「博物館」が再整理したと考えてよいだろう、と私は思った。私はこの知識を基にしながら、不遜にも、自分なりに地層が交互に現れる理由を考えた。
 まずは説明板から。『中央構造線は、中生代白亜紀に誕生した長大な断層=ずれ目である』とあった。(中世代白亜紀とは、約1億4500万年前~6600万年も前のこと。日本列島の基礎をなす部分は大陸とは地続きであった)
 更に『内陸に出来た領家変成帯と海溝付近の深部に出来た三波川変成帯は、はじめは離れていたはず。間にできた中央構造線が
繰り返し活動し間にあった地質帯が失われ、今の様に関東~九州にわたって接するようになった。それが中央構造線のどの時代のどのような活動によるものかはまだよく分かっていない。もともと離れて出来ていた内帯の岩石と外帯の岩石が接している境界を”地質境界としての中央構造線”といいます
』と続いていた。
 ここで注目したのは中央構造線を動的な面と静的な面で捉えている点だ。
 動的な捉え方は、過去に中央構造線が”繰り返し活動し”た結果、はじめ離れていた二つの変成帯が接するようになった、と捉えている点だ。中央構造線そのものを活動帯と捉えている。その活動が長い年月には、安定を見た時期もあるだろうが、激動の時もあった。激しい活動や長期間にわたる”ずれ”によって地層は複雑に変化していった。領家変成帯と三波川変成帯が交互に変成されることとなるズレが生じたこともあったのだろう。・・・”と私は思った。 
 静的な捉え方は過去の集大成としての現在の一瞬を”地質境界としての中央構造線”と捉えている。その一瞬が偶然にも地表に現れた露頭を私達は見ていた。
 Wさんは「仲間の間でも解釈がいろいろあり議論になっています。兎も角中央構造線は断層=ズレなのだから、何でもあり」と繰り返し語っていた。
 ともあれ、中央構造線の断層が縦に交互に現れるのは珍しいはずで、大変貴重な風景に思える。私たちが見て来た露頭のうち、ここだけが天然記念物として国の指定を受けたのも頷けた。
 4人とも満足感を抱いて、まだ暗くならないうちに帰路につき、飯田市にある「ニュー・シルクホテル」を目指した。

    (大鹿村や安康露頭が登場する地図)

  


中央構造線へ(その1)

2016年10月22日 | 信濃紀行

 信州旅行の2日目の10月15日、私達先発組3人は茅野駅でWさんと合流。ここから国道152号線を南下し、国道沿いの中央構造線露頭を目指した。Wさんは大学院まで進んで地質学を学んだ方。中央構造線は見学したことがあったが、その中でも取り分け興味深い面のある“安康(あんこう)露頭”はまだ見たことがなく、お誘いをすると「是非ご一緒したい」とのこと。私達としても強力な専門家の同行を喜んだ。
 今年4月に起こった「熊本地震」は、この「中央構造線」が動いたのではないかと言われている。それ故見学しようと計画したのではなく、大鹿村歌舞伎観劇の延長線上に露頭見学を考えていた。
 九州から四国を通り関東へ、西南日本を縦断する大断層系。かのナウマンが命名した”中
央構造線”を境に北側を西南日本内帯、南側を西南日本外帯と呼んでいる。私のそれまでの知識では中央構造線の断面は細い線。

 本当は中央構造線は旅の最終日に訪れる予定だったが、その日は雨の予報。2日目の予定と4日目の予定を入れ替えた。杖突峠に到着し、そこの展望台に立った。快晴のこの日、八ヶ岳の稜線がくっきりと見渡せ、眼下には諏訪湖が広がっていた。目を西に転ずると北アルプスの峰々も。「あれが槍ヶ岳」と皆歓声をあげた。(写真:諏訪湖)


 (写真:窪みが北穂高岳の大キレット)
 かってドライブしたことのある152号線をTさんが運転し、私は「iPad」の助けも借りながらのナビ。高遠城址公園を通り過ぎると「道の駅 南アルプスむら長谷」。ここはクロワッサンが有名だが、予約のみしか販売の余地がない。止む無く、無料で数個を試食した。甘くて評判通りの美味しいクロワッサンだ。その後、アップルパイなど他の菓子パンをや調理パンを購入し野外テーブルでの昼食。
 そこから10分も南下すると“溝口露頭”。前回は工事のため露頭をやや離れたところから見学するのみだったが、今回は真下でその様子を見学出来た。それにも増して大きく違ったのはWさんの存在。露頭を見ながら専門的な話を聞くことが出来た。
 まず教えてもらったのが「湖の南側に見える窪みが分杭峠で、中央構造線です」と。遥か遠くにその姿を認めた。

 更に「中央構造線
は線というよりも幅のある窪みとなります。断層谷は川となり断層線谷は秋葉街道となりました。」
 「中央構造線の内部はマイロナイトで構成されています。内帯は赤い土。対し外帯は三波川地溝と呼ばれ緑色の変成岩帯」などの話を聞いた。(写真:窪みが分杭峠の中央構造線)

 


  
  (溝口露頭)          (溝口露頭から見る美和湖。窪んだところが分杭峠の中央構造線)
 その後見学した北川露頭と安康露頭は次回ブログで。(以下の写真はいずれも溝口露頭そばの看板より)