マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

日暮里崖線の消えた坂道をめぐる(その1)

2019年05月03日 | 東京散歩

 江戸時代の地図を見ることが好きで暇つぶしにぼうっと眺めているときがある。『復元江戸情報地図 1:6500』で”崕雪頽”(がけなだれ)という文字と、網線で囲まれた領域を見て、これは一体何だろうと不思議に思ったことがあった。
 その個所は、京浜東北線に乗って大宮方面に向かう時などに、上野から王子あたりにかけて、車窓左手に見える大凡
絶壁に近い崖。崕雪頽とはこの辺りの傾斜地のことで、その縁に沿って鉄道が造られたらしいことは想像出来たが詳しいことは知らなかった。(写真:『情報地図』より)




 その疑問を解いてくれる本に出合った。
 『重ね地図で愉しむ江戸東京「高低差」の秘密』(著:竹内正治 宝島社新書)という本である。読者を、崖際・坂道・川際等々高低差のある魅力的な土地の旅へと誘うことを目的とした本で、これは私好みではないかと妻がオンライン予約してくれていた。一読し手元に置いておきたくて、楽天で定価1100円で購入した。その中の一つに「日暮里崖線の消えた坂道」があった。そこを読んで大凡次のような事を知った。

 江戸時代に崕雪頽と呼ばれた土地は崖の斜面の入会地(集落の共有地)で、鉄道は本郷台地のへり、今でいう日暮里崖線の海食崖の斜面下に軌道を敷いた。崕雪頽には所有権ではなく入会権が設定されていたのだ。「田端村崕雪頽」などの文字がそれを物語っている。崕雪頽に人家はなく、買収に際して反対運動も起きようがない。

 往時の日暮里崖線の風景は現在の様な断崖ではなく、斜面だった。私鉄鉄道の日本鉄道が建設した最初の鉄道線(現在の東北本線)は崕雪頽の一番下に敷設された。そのため、斜面には坂道が残り、斜面下の鉄道線路を踏切で横断していた。
 日暮里崖線が擁壁の切り通しとなるのは昭和初期の京浜東北線の線路増設(田端⇔王子)と線路付け替え(上野⇔田端)などが大きかった。山側が大きく削られたのである。そのため、江戸時代にあった坂道は大きく変貌した。坂の代替として跨線橋が造られた。(写真:日暮里崖線に沿って走る京浜東北線。今朝、御隠殿坂橋からの撮影)





 この辺の坂は何度か歩いていたが、この本に触発され、変貌した坂を”通し”で歩き撮影しようと、4月28日にこの辺りに出掛けていった。御隠殿坂・芋坂・紅葉坂・御殿坂・地蔵坂と巡ってきた。(日暮里駅から見える崖線と京浜東北線)










 今日の二葉:上は台東区真島坂途中で、下は根津神社で)
   
   

 


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