「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

       半世紀前、事件記者だった頃の有楽町

2011-11-01 06:39:52 | Weblog
昨夕、学校を出てすぐ勤めた新聞社のOB会に出席した。今年僕は80歳、傘寿のお祝いに預かり記念品を頂戴して夜8時すぎホロ酔い気分で帰宅した。馬齢を重ねると、夜の会合は苦手になり、極力遠慮しているのだが、やはり出れば、昔の友人たちとも顔をあわせることが出来楽しいものだ。

僕はこの会社には16年しかいなかったが、最初の勤務とあって色々想い出がある。入社したのは昭和28年(1953年)だが、すぐ地方支局勤務となり、本社勤務は翌29年からで、社会部に配属され、事件記者のタマゴとして都内の警察まわりや警視庁クラブ詰めを経験した。

会社は当時有楽町の国鉄(JR)のガード下近くにあった。NHKラジオの連続ドラマ「君の名は」が一世を風靡していた頃で、その舞台になった数奇屋橋が近くにあった。まだ外堀の埋め立ては始まっておらず、高速道路の建設も着手されていなかった。宝塚劇場は進駐軍専用で”アニー・パイル”と名前を変え、日比谷公園界隈には進駐軍兵士が大勢たむろしていた。

社会部勤務中の大きな出来事としては昭和29年1月,二重橋で一般参賀客が混雑から倒れ16人が亡くなられた事故。同9月の青函連絡船「洞爺丸」が台風で沈没、1156人が死亡不明になった事故があるが、直接取材したわけではなく、駆け出し記者の僕は、犠牲者の”顔写真”集めに狩り出された。

直接取材した一つは、帝国ホテルで来日中の”ネブラスカの野牛”というリング名のプロレスラーが強盗した事件であった。このレスラーは当時力道山の好敵手だった木村政彦と試合した男だったが、僕は談話を取りに人形町の"リキジム”へ行き、力道山から話を聞いたが、力道山が意外に背が低く、言葉使いが丁寧だったことを覚えている。そのほか元保安隊(自衛隊)員がカーピン銃を使って強盗を働き、愛人と一緒に全国を逃走していた事件など。当時の時代を反映する事件が多く、想い出深い。