橋下維新政治によってる教育諸条例が制定された後の初めての入学式、私は「君が代」斉唱時、起立しませんでした。そのことを現認され(管理職によって起立していないことを見咎められ)、その顛末を記し校長に提出しました。「不起立」の思いを精一杯書きました。お読みいただきご意見いただければ嬉しいです。
顛 末 書(私が「君が代」不起立だったわけ)
2012年4月13日
辻 谷 博 子
私は、2012年4月6日の職員会議において校長から出された役割分担表によって、「入学式において、正門警備を行うよう」職務命令を受けましたが、4月9日に行われた入学式に参列し教職員席に座り国歌斉唱時に起立をしませんでした。
起立しなかった理由は、教育公務員としての倫理上の責務の自覚にあります。教育という仕事を国家のために為すべきことと考えれば、当然、入学式国歌斉唱時に起立しました。しかし、教育という仕事は多様な子ども一人ひとりの教育への権利を尊重することにあると考えます。厳粛な式典における国旗掲揚、国歌斉唱の強制は、無意識のうちに子どもを一つに束ね国家への帰属意識を強調することになります。小学校、中学校、高校、その入学式・卒業式において繰り返しその一元的な価値を子どもに強制することは、子どもたちが存する、この社会における不寛容性、排他性を伸張させることにもつながりかねません。私は教育公務労働者として、そのことを危惧します。本校では多様な生徒が学んでいます。日本以外の民族的ルーツを持つ生徒、障がいを持つ生徒、社会的あるいは家庭的に経済的に被差別の状況にある生徒。個々人の生徒の教育への権利の実現に尽力すべき教育公務労働者として、常にそのことに自覚的でありたいと考えています。
そもそも、近代史における学校の役割を振り返ってみたとき、学校は常に国家の要請するところの国民を排出してきました。学校は、西欧の軍隊をモデルとして日本が近代国家として体を為すことを目的として誕生しました。近代の戦争は、学校なくしては起こりえなかったといっても過言ではないでしょう。そして学校における皇民化教育によって誕生したのは天皇の軍隊でもありました。近代天皇制と軍国主義教育は過分に結びつき、日本国家の戦争遂行を実現させ、そのことによって本来一人ひとりが持つ人間の生存の権利を奪い尽くして来たと言えます。そう言った過去の歴史を学ぶとき、国家が要請するところの愛国心教育に警戒し、それに抗うことは、現代における教育公務労働者の最大の職務であると考えます。
また、昨今、格差社会における労働現場の苛酷さが問題となっています。子どもたちが学び、それを糧として働く社会において必要なことは労働者としての権利主張であると考えています。
入学式や卒業式で必要なのは、天皇を讃える「君が代」ではなく一人ひとりの人間存在を讃える「我が代」的な歌こそがふさわしいと考えます。たとえ、子どもたちがそれに無自覚でいようと、学校における厳粛な儀式で繰り返し執り行われる「君が代」は身体化されることによって子どもに影響力を持ちます。意味もよく理解しないまま、その歌詞とメロディーを通じ「国民」化する装置として機能します。このことは特に問題だと考えます。意味すらわからない国歌を受容することをよしとする教育によって権利主体としての市民は生まれ得ないと考えます。
憲法は一人ひとりの人間の権利を謳っています。学習権しかり、教育権しかり、生存権しかり。主権は国家ではなく民にあります。憲法によって規定された権利を尊重してこそ公教育労働者の責務は果たすことができると考えています。憲法によって保障された自由と権利を損なうことは許されることではないと考えました。よって、ぞの虞が濃厚な儀式における「国歌斉唱」に不起立という形で抵抗をした次第です。私自身の自由と権利を侵害し、そして、子どもの教育への権利を侵害することにつながる国歌斉唱を入学式で執り行うことにはあくまで反対です
顛末書 追加資料
2012年4月23日
辻 谷 博 子
(1)2012年4月9日入学式に至るまで
本年度も、一昨年度、昨年度に引き続き、校長より人権教育推進委員長に任命され、その職務を引き受けました。人権教育を推進していく上で、4月1日に施行された教育行政基本条例・大阪府立学校条例・職員基本条例下、子どもの教育への権利が侵害されることのないように考慮していくことの必要性を痛感していました。
さて、例年通り、新入生について中学訪問ならびに電話による問い合わせが行われましたが、ある中学からの情報で、「クリスチャンゆえ、『君が代』斉唱はしない新入生」がいることがわかりました。そのような立場を抱えている新入生がいることに、改めて入学式や卒業式で、「君が代」を斉唱することが人権侵害につながる虞があることについて怒りを感じると共に憂慮を感じました。その件につきましては、学年主任と相談し、詳細を聞くため改めて中学訪問をし、当該生徒の立場の把握に努めました。入学式においては、新入生と高校との信頼関係もまだできていないゆえ、思想・信条・良心・信仰の自由を保障することは極めて困難な状況にあります。
本年度入学の第9期生は私にとって定年まで最後に教える生徒となります。1年副担任として、また人権教育推進委員長としても、強く入学式への参列を希望し管理職に訴えました。ところが、以前より、入学式・卒業式における「君が代」斉唱には反対だと意見表明していることから、どうしても参列は許されませんでした。これは、極めて異常なことです。入学式への教員の参列が思想調査によって不許可となるわけですから。現に他校でも1年担任でありながら、式場外勤務を命じられた教員もおります。
4月6日職員会議で、役割分担が示されました。私は正門警備となっていましたが、その場で異議申し立てをするわけにはいきませんでした。学校現場では新年度入学式・始業式を控えて時間はいくらあっても足りない状況でしたので、意見表明しても平行線に終わる論議の時間を取るわけにはいかなかったのです。職員会議では、参列者をはじめ式場配置の教職員のうち、様々な理由で式場外勤務を望む方がいれば配慮してほしい旨を発言し、また、この異常な状況のなかで、今後、公教育の在り方を模索していきたいと述べるに留めました。
入学式当日、公教育の担い手として自分の取るべき道について考えました。自分はどうすればいいのだろうか。「君が代」という国歌の持っている問題性もさることながら、教育行政から校長を通じて教職員全員に職務命令という有無を言わさぬ形で国歌斉唱を義務づけられるような異常な事態において、自らの教師という仕事を続けていくために自分がなすべきことはなんだろうと考えました。
大阪維新の会橋下徹代表は、3月20日テレビ出演をし、「国歌斉唱の折に立てないと考えている教員には逃げ道を与えている」「立ちたくなければ欠席という選択をするのは大人の知恵」「逃げ場を全部閉ざした上で、何でも締め上げることはしない。大人の対処法がある」と言われたことを報道によって知りました。教員を式場外の係に配置することについても「式場内での不起立を許さないよう現場でしっかりやってもらえればいい」と話したそうです。 結局、橋下氏が考えていることは、条例の下で、「成果」をあげることなのだと思いました。つまり、条例ができ、表向き入学式における「君が代」斉唱不起立者がゼロになればいいといいうことなのです。学校における君が代斉唱不起立は、そもそも重篤な憲法問題であり、一人一人それぞれの根幹をなすところの歴史観・世界観に委ねられる問題です。2010年度卒業式で4名、2011年度入学式で2名の不起立者に、橋下知事(当時)は激怒し、「君が代」斉唱時に立たない教員は辞めてもらうとまで発言したことは周知の事実です。そこで君が代斉唱をルール化し「大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱に関する条例」を制定し、それを教員を支配するためのルールの問題としていきました。そして挙句の果てには、そのルールについてダブルスタンダードの対応を迫ったのです。これをそのままにしておいたのでは、学校でも同じようなことが起こりかねません。生徒が納得しようがしまいが、規則を作る権限を持っている教員がルールを策定し、子どもらに迫る、そして、そのルール策定の成果をあげるために二枚舌の対応を子どもに迫る。これは人事査定制度で教員一人ひとりが不合理かつ理不尽な勤務評定を受け賃金に反映されている現状からみると、あながち飛躍した予想ではないかもしれません。
(2)2012年4月9日入学式
通勤途中、ある親子連れに出会いました。2010年度本校の教職員人権研修で共生共育についてお話しいただいた方でした。そして息子さんは、府立高校に入学し、今春2年生に進級がかなったそうです。障がいのある生徒との共生共育教育は大阪は進んでいると聞きます。しかし、その一方まだまだ課題は多く残されています。新しい3条例のもと、共生共育が今以上に進んでいくのかを考えると、競争原理の強化と成果を求める教育改革では、後退していくのではないかと憂慮します。
さて、午前中の仕事を終え、13時に正門に行きました。正門警備は私を含め3名が担当していまいしたが、他の2名の姿はなく、自転車の整理係りの教員が数多くいました。間もなくあと2名の教員もやって来て、多数で、警備というよりは新入生と保護者に声にお祝いの声をかけるというようなものでした。13時45分頃のことです。私は、一人の保護者から子どもが入学式で身に着けるはずのリボンを忘れたので届けてほしいと依頼を受けました。その旨を他の教員に断って教室に届けに行きました。
その後のことです。正門には多数の教員が待機しており、万が一何かが起こっても対処する体制はあると判断できました。つまり、私が14時から始まる入学式に参列しても支障はないと判断したわけです。私は、そのまま、体育館の入学式式場に向かいました。開式の5分前のことです。私は迷わず参列者の席に座りました。保護者はその時点で大半が着席されていました。私が座ってまもなく、教頭から「自分の持ち場にもどってください」と声をかけられました。参列を決めていた私は、保護者を前にしてその場で言い争いになることは何としても避けたいと思っていました。おそらく教頭も同じ気持ちであったろうと思います。着席したまま、「騒ぎになりますよ」と答え、そしてそのまま式は始まりました。開式の辞の後、国歌斉唱の号令時、黙ってそのまま座りました。座ったのは私一人であったように思います。あのとき何を考えていたのかよく覚えていません。ただ、国歌斉唱の後、吹奏楽部による校歌演奏を聴きながら、私は自分が思い描くような教育をして来ただろうか、後1年しかない。そう思うとふいに目頭が熱くなりました。私はこの1年を精一杯に生徒たちと付き合っていこう思ったことを覚えています。校長の祝辞、PTA会長の祝辞、それを聞きながら入学生の背中を見ていると、緊張感とそこから来る疲労感のようなものが私にまで伝わってきました。心引き締まる思いがしたのを覚えています。入学生たちが退場するときは万感の思いを込めて拍手で見送りました。そして、この定年までの最後の入学式に参列できたことを心からよかったと思えることができました。
仕事一段落した頃、校長・教頭に不起立であった事実を認め、そして改めて職務命令で従わせるようなやり方はおかしいと主張しました。
学校にはいろんな生徒がいます。そしていろんな教員がいます。そこで一番大事なことは、ありきたりですが、やはり対話――話をすることだと思います。今回、君が代起立を強制するような条例を制定し、職務命令を発出し、違反すれば処分、しかも3度不起立であれば分限免職を定めるようなやり方はどう考えても納得できません。