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「君が代」不起立処分大阪府・市人事委員会不服申立ならびに裁判提訴当該15名によるブログです。

2023高作正博さん講演会第2回「教育改革のその後 ―学校の現場はどうなったか―」報告

2023-08-13 20:21:40 | グループZAZA連続講座

2023年度グル ープZAZA連続講座

高作正博さん講演会

全体テーマ『改革・変革の批判的検討と 今後の課題』

2回「教育改革のその後 ――学校の現場はどうなったか――」

 

   昨日は、炎暑の中、ZAZA連続講座に多くの方に参加していただき、まことにありがとうございました。

講師の高作正博さんのご好意により、講演レジュメを掲載させていただきます。

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今回の講演では、まず最初に、日本社会の民主主義自体の「歪み」についてお話いただきました。現状を「引き下げ民主主義」・「モラルパニック」というワードにより説明していただき、それによって得をするのは、実は権力者であると指摘されました。

よって、その「歪み」を修正 することが大事であるのだが、教育改革はどうであったか?と本題に入られました。そして、「教育改革」の構造として、一見矛盾するかのように見える「規制」の緩和と強化について話されました。

「規制」の緩和 により、市場原理の導入が図られ、公教育のナショナルミニマムが崩されてしまい、親は子どもの選択の自由から、競争原理の導入が図られました。

学力テストを使って結果を公表して、都道府県別、市町村別、学校別に競争させ、「選択の自由」を確保する。教育改革は競争にぶれてしまっていると指摘されました。

本来、教育というのは、親の経済的格差を解消する非常に重要な場であったにもかかわらず、それが序列化を生み出していく現状について話されました。

次に、「緩和」とは一見逆に見える規制の「強化」については、政治の介入の問題。具体には、学習指導要領による詳細な教育内容決定、大綱であったはずの学習指導要領が法的拘束力があると最高裁も認めてしまい、学校や教師へ詳細な指示となっている指摘されました。

教師に対する対応の変化としては、教育目標を通じた統制の強化として「評価」の問題を挙げられました。統制の強化のための自己目標を立てさせられ、その目標に向かう有様は、あたかもネズミが回し車をクルクル回っているようだ、と。

さて、それでは教育改革の帰結は?といよいよメインに入られました。

大阪における「教育改革」ーーー大阪府4条例の制定

・国歌起立斉唱強制条例(2011 6 13 )

・教育行政基本条例」(2012 3 28 )

・府立学校条例(2012 3 28 )

・職員基本条例(2012 3 28 )

ここで、「国歌起立斉唱強制条例」、いわゆる「君が代」条例も含めての4条例をあげられました。そこはとても重要な点です。まず、新保守主義的な「君が代」条例を制定した後、それを補完するものとして制定されたのが、競争と格差に基づき、さらに競争を煽る新自由主義的な翌年328日に制定された教育諸条例というわけです。

そして、現在、大阪府では教育振興基本計画が打ち立てられていますが、このあたりの、法と行政の狙いと問題点を洗い出しする作業は、今、必要と考えさせられました。

講演の結びとして、「教育を受ける権利」と国家の保護機能の欠如について、話をされました。

生徒の教育を受ける権利としては、自由権的側面と社会権的側面があると。自由権的側面を保障して行くためには、国家介入の過剰(過度の国家介入)を排除する必要がある、と。

旭川学テ判決(最高裁昭和 51 5 21 日大法廷判決)における、「国民各自が、一個の人間 として、また、一市民として、成長、発展し、自己の人格を完成、実現するために 必要な学習をする固有の権利を有する」

もう一つの社会権的側面としては、国家介入の過少(過度の国家不介入)の排除があると。これも、旭川学テ判決より、「みずから学習するこ とのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有する」

これら、教育裁判として旭川学テ最判は今なお生きている、と感じました。これを私たちはどのように活用できるだろうか、課題をいただいた気がしました。

そして、教師の教育の自由について、専門職ゆえに保障される自由 があると。ここでも旭川学テ最判を引用されました。「子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行わなければならないという本質的な要請」と。

職務権限の独立性・自律性の保障としては、憲法第 23 条「教授の自由」、教育基本法第 16 条「不当な支配」の禁止等を言われました。

社会における民主主義の「歪み」をどのようにして修正していくか?そこには教育が必要なわけですが、では、教育への競争原理導入や公立学校の統廃合や教職のブラック化等教育の崩壊を招来している構造・要素をどのように取り除いて行くことができるか?

最後に、ジャン=クロード・ギユボー著、菊池昌実・白井成雄訳『啓蒙思想の背任』(1996)から、次のことばを紹介されました。

「失業は問題ではなく、解決策なのだ」「失業の大量増加は――そして 70 年代半ばからのそれに伴う排除は――慎重に考慮され、共同で容認された選択だった」。

それは、そのまま、自民党の一連の教育改革、そしてその先兵としての大阪維新の会の教育施策の数々に当てはまるような気がしました。

つまり、民主主義社会の歪みが問題なのだが、それが、そもそも目的であったとしたら・・・・

私たちは、そこから考えなければならないのかもしれません。

 

 

 

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