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「君が代」不起立処分大阪府・市人事委員会不服申立ならびに裁判提訴当該15名によるブログです。

「君が代」起立斉唱強制の実態と放射線「安全・安心」教育

2014-03-16 08:48:05 | 学校現場から

やはり、大阪の卒業式では昨年と同じ問題が起こっています。「条例」効果(教職員へ起立斉唱を義務付けた条例)を見せつけるためか、「君が代」起立を宣言しない教員を徹底的に式から排除する、あるいは「不起立」を敢えて無視する実態が報告されています。こうなると本末転倒も甚だしく、まるで、市教委や府教委にとっては、「君が代」起立斉唱が卒業式の目的であるかのようです。教委のこのような誤った教育行政のなかで人権侵害が横行しています。

大阪ネット事務局の松田幹雄さんは中学校理科教員です。「日の丸」「君が代」強制反対について、ホットライン時代から運動の中心であった方ですが、3.11以後は、原発と教育について、その問題性を発信し、また行動にも取り組んでこられています。

松田さんが「君が代」起立斉唱強制について放射線「安全・安心」教育についての情報を送っている仲間に対して送られたメール(2014.3.15)をご本人の了承を得て掲載します。 

大阪市の卒業式で何が起こっているか!?

放射線「安全・安心」教育への批判は、学校教職員の立場からいうと、自分たちが誰のために何のために何をめざして働いているのかということと切り離せないと思います。

私たち教職員が働いていく時、いろいろと立場を問われることがあります。

そういう時に、自分なりにこう働きたいと思ってきたことが、だんだんと仕事を続けるためには仕方ないのかと諦めていくことになりがちです。

そういうふうに諦めていった先に、放射線「安全・安心」教育の問題を耳にしても、それを批判してあるべき教育を創造しようという気持ちが湧いて来なくなります。

そういう私たちの姿勢を決める大きな問題として、「君が代」起立・斉唱強制問題があると思っています。

教育関係の他のMLに投稿したメールを転送します。

学校現場の状況を知る一資料として見て下さい。

以下

昨日(3月14日)は、大阪市内の中学校の一斉卒業式でした。

私は2年生所属で、直接、卒業生を教えていないのですが、最近の「起立・斉唱を明言しない者(不起立者)」を卒業式に出さないという動きに対して、ちゃんと式の出席して祝いたいと思うようになりました。

「大阪府・市の「君が代」起立強制条例ができて初めての2011年度(2012年3月)の卒業式では、私は卒業学年所属だったのですが、「君が代」時は舞台の幕の裏にいる卒業証書を演台に運ぶ係でした。いわゆる「配慮」でした。

しかし、その年の卒業式で、大阪市では、大阪市教委が不起立がわかった中学校2校の校名を発表し、不起立に対する抗議を扇動し、さらに、当該の教員に対して、「ルールを守るべき教員がルールをやぶって申し訳なかった」と保護者や卒業生に謝ることを強要するという許せない事態が起こっていることを知りました。

「起立・斉唱」しない職員であっても、式にきちんと参加して、祝いたい、それで処分されるなら、条例自身を問いたいと思いました。

私は、2012年度(2012年4月)の入学式から式に入って「君が代」時は着席していますが、管理職は、「知らない」ということで報告していません。

2012年3月大阪府議会、2012年5月大阪市議会で、「君が代」不起立処分を念頭に置いた「同一職務命令に3回違反すると免職」を規定する職員基本条例が強行成立させられました。

2012年度(2013年3月)の卒業式から、大阪市教委は、教職員の「不起立」の姿を子ども・保護者の目にふれさせないことを最優先にしています。

2011年度卒業式で不起立を理由に戒告処分を受けて処分撤回を人事委員会に申し立てている大領小学校沼田さんに続き、東井高野小学校の親家さんに「卒業式排除・職員室電話番」の職務命令を出すなどして、「君が代」起立斉唱強制に従わない教職員の存在を徹底して隠しました。そして、「大阪市立の全学校で卒業式参加のすべての教職員が起立・斉唱した」と発表したのです。

大阪市教委の重点は、大阪市議会での自民党会派からの(「維新の会」ができる前からの)追及への対応として、「君が代」起立強制条例ができる前から、子どもたちに大きな声で「君が代」を斉唱させることに移っていました。

卒・入学式では、「君が代」斉唱は、必ず、ピアノまたは吹奏楽による生演奏でなければならないと音楽教員にピアノ伴奏を強要し、教職員に子ども達に大きな声で歌わせる役割を負わせようとしています。この強制に屈することは、子どもに対するときの教員として最も大切な姿勢を放棄することになると思います。

昨年の卒業式に向けては、「君が代」起立・斉唱に対する自分の認識について態度表明する個人ビラを配ったり、生徒たちへ「君が代」についての基本的情報を提供するための説明を学校長に求めたりしてきました。しかし、今年は、そんな動きがほとんどできないまま卒業式を迎えました。

職場には若い教職員が増えています。

その人達にも、自分の不起立の理由を知ってもらいたいと思って、14日の朝一番に「『君が代』の起立・斉唱はできません」という個人ビラと「資料:卒業式の国旗・国歌について」というプリントを机上配布しました。(添付文書参照)

卒業式での私の係は、卒業生入場の準備ができたとこを司会に伝える係だったのですが、卒業生入場が終わってから職員席の2列目に座りました。

「一同起立・礼」続いて、そのまま「君が代」斉唱です。

着席し、「校歌斉唱」で立ち、その後も卒業式に全部参加できました。在校生や保護者の人で何人か私の不起立を目にしている人もいると思うのですが、学校長に言いに行く人もいず、みんな「いい卒業式だった」と言って終わっています。条例下でこれで4度目ですが、不起立者を「混乱」を根拠に排除しようとすることがいかに理不尽か、事実で示せたと思っています。

 

職場で配布したビラ

「君が代」の起立・斉唱はできません

大阪市立T中学校松田幹雄

1.「君が代」は天皇統治の永遠を願う天皇主権の歌としか思えません

  「君が代」が国歌的扱いをされるようになったのは、明治時代です。天皇中心の国づくりの中に位置づけられ、国定教科書の中では、「君が代」は「きみがよは ちよにやちよに さざれいしの いわおをなりて こけのむすまで」を「天皇陛下のお治めになる世の中がずっと続きますように」という意味だとしていました。天皇統治の永遠を願う天皇主権の歌であったことは、誰も否定できないと思います。

  また「君が代」が教育勅語(「国民は天皇の臣民として、天皇の治める国が栄えるようにしなければならず、学校で勉強するのもそのためである」「国の一大事(戦争のとき)には、国のため、天皇のために身も心も捧げなければならない」と教える天皇のことば)とともに、戦争体制づくりの大きな一翼を担ったことも誰も否定できないと思います。

  国民主権の戦後の日本国憲法の下では、1999年の国旗国歌法制定時に、はじめて、「君が代」の歌詞についての公式の見解(政府見解)が明らかにされました。「君」は天皇を意味するが、天皇の位置づけが象徴にかわったから、「きみがよは ちよにやちよにさざれいしの いわおをなりて こけのむすまで」という歌詞の国歌「君が代」を「我が国の繁栄と平和を願う歌」だと理解しなさいというのです。この解釈は理解不能です。「君が代」をどう理解すれば「我が国」になるのかわかりませんし、ずっと天皇支配を賛美する歌だった歌を「我が国の繁栄と平和を願う歌」を思って歌えといわれても体が受けつけません。私は、「君が代」を歌っている人を見ると、「どういう歌詞だと思って歌っているのですか」とつい聞いてみたくなります。

2.私達には、率先垂範して「君が代」を起立・斉唱し、生徒に大きな声で歌うよう指導することが強制されています

  現在の多くの学校の卒業式・入学式には、「日の丸」が掲揚され(壇上正面に貼られ、式の中の礼は「日の丸」に対してするようになっているところが多い)、「君が代」の斉唱が式次第にあります(式の冒頭に斉唱するようになっている)。根拠は、文部科学省学習指導要領の特別活動の項に「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする」(1989年から)とあることです。「国際化の進展に伴い,日本人としての自覚を養い,国を愛する心を育てるとともに、生徒が将来,国際社会において尊敬され,信頼される日本人として成長していくためには,国旗及び国歌に対して一層正しい認識をもたせ,それらを尊重する態度を育てることは重要なことである」(文科省学習指導要領解説特別活動編より)との理由によるとのことです。また「その意義」とは、「入学式や卒業式は,学校生活に有意義な変化や折り目を付け、厳粛かつ清新な雰囲気の中で、新しい生活の展開への動機付けを行い、学校、社会、国家など集団への所属感を深める上でよい機会となるものである」(文科省学習指導要領解説特別活動編より)というものです。そして、1999年の国旗国歌法(国旗を「日章旗」、国歌「君が代」と定めた)成立がその条項の徹底の後押しをしました。

  それに加えて、現在の大阪では、2011年6月大阪府、2012年大阪市でつくられた「国旗国歌条例」と2012年3月大阪府、2012年5月大阪市でつくられた職員基本条例があります。国旗国歌条例では「府民(市民)、とりわけ次代を担う子どもが伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛する意識の高揚に資すること」などを目的として、「学校の行事において行われる国歌の斉唱にあたっては、教職員は起立により斉唱を行うものとする」とされています。職員基本条例では、同一職命令に3回違反すると免職にすることが規定されています。

  私たち学校教職員に「君が代」の起立・斉唱が求められるのは、子どもたちに「日の丸・君が代」を尊重させ、子どもたちの愛国心を高揚させるためなのです。大阪市の学校教職員には、卒業式・入学式の「君が代」斉唱は必ずピアノ伴奏とし、子どもたちに「君が代」を「大きな声で歌うよう指導」することが求められています。私たちには、「処分されたくなければ、自分が納得できないことでも子どもたちに押し付けろ」という命令に従うのかどうかが突きつけられています。「起立・斉唱できない」と座って処分を受けるのか、子どもたちに押し付けることは極力しないつもりだが、処分を回避するために自分は起立(場合によっては斉唱も)するのか、処分されないためには、しかたないと「割り切って」、「大きな声で歌いましょう」と子どもたちに呼びかけるのか、苦しい選択迫られています。

3.自分の保身のために納得できないことを生徒達に押しつけることはできません

  「自分が納得したことしか生徒に伝わらない」…これは私が教員生活の中で確信したことです。また、差別や在日外国人差別など様々な差別を存続させ続けてきたものが、「保身」であることも理解してきたつもりです。いざ自分が差別をなくそうとする側に立とうとするとき周囲から自分に向けられる差別の目。それを逃れるために差別する側にまわってしまう構造が差別を存続させ続けてきたのです。

 「君が代」の強制で、私達も同じ構造の中に置かれています。自分の身を守るために、生徒たちに国歌「君が代」を「大きな声で歌いましょう」と呼びかけることなどできません。それは、生徒に向き合う自分の根本的な姿勢を投げ捨てることです。仮に、そう呼びかけたとするとき、「歌えない」「納得できない」という生徒がいたならどうするでしょうか。理性的に納得させられないのだから、その子に歌わせようとするなら、歌わなかったらその場にいられない状況をつくるしかありません。すなわち、率先して「いじめ」を組織することくらいしか手はありません。そんなことは絶対にできません。

4.教職員の仕事は、生徒達が、国や国旗・国歌(「日の丸・君が代」)に対する考えを確立していくための助力=資料提示であるべきです

 私達教職員に求められているのは、生徒達一人ひとりが国や国旗・国歌等に対する自分の考えを確立していくための助力だと思います。「日の丸。君が代」の歴史やそれに対するいろんな意見について生徒の前に提示し、考え合う場を提供することが私達の責任だと思います。しかしながら、「国旗・国歌」を尊重する態度を養い、「君が代」を大きな声で歌うことを目的とする「指導」の中では、戦前のことであっても「日の丸」や「君が代」が果たした歴史的役割を伝えることすら禁止されます。「日の丸・君が代」強制は、そのまま歴史の歪曲・隠蔽につながっています。

  私は、「君が代」起立・斉唱の圧力に屈して、自分が大切にしてきた生徒との向き合い方の根本を捨て去ることはできません。「日の丸・君が代」の扱われ方の歴史については、生徒達にきちんと提示していきたいと思います。

 

資料:卒業式・入学式の国旗・国歌について

 

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