学校には、いろんな教師がおり、また生徒もいろんな生徒がいます。保護者だってそうですよね。あたりまえと言えばあたりまえのことですが、学校というところではこれがなかなかあたりまえのこととして通用しないんですよ ね。
特に、児童・生徒に対しては、「ひとつの基準」で計りがちです。教員にもっと余裕のあった頃は、それでも、まだ一人ひとりとの関わりはできていたのかもしれませんが、しかし、こう忙しく、「成果」を求められるようになると、人と人とがかかわる最低限の交流さえどこかに吹っ飛び、若い教員が一生懸命「仕事」をすればするほど、熱意はわかるのだけれど、この教員にとっては、生徒は自分の教育の対象物であり成果物であるのだろうなぁと時折恐ろしくさえ感じるときもあります。
学校で、児童生徒、保護者、教員それぞれ立場が違うゆえ、また、その上それぞれが違う個性や考えの持ち主なのですから、ひとくちに「教育」と言っても、出発点からして困難性を抱えていると言えます。
しかし、だからこそ教育は常に万人にとってある種の課題にもなるのだとも思われます。誤解を恐れずに言えば、
人と人が、立場の違う人と人が、考えの違う人と人が、ある種真剣に向かい合うわけですから、ある意味最も人間らしい営みであり、おもしろいともいえます。
何がおもしろいのと、お叱りを受けるかもしれませんね。そういう私も、日々そんな余裕はないのですけれど。
ただ、最初からいろんな人間がいることが当 たり前なのですから、おおいに主張しあい、おおいにぶつかり合い、
そこから折り合いをつけていく作業こそが広い意味での「教育」なのかもしれません。そして、そんななかから
通じ合う場面が生まれればこんなうれしいことはありません。
恐れるのは、最近の学校にその余裕がなくなってきたこことです。何事も合理的に効率的に「片づける」ことが
教員に求められるようになって来ています。教員評価、競争と自己責任による教育改革の負の影響がすでに
表れているような気がします。
世間でもそうですが、学校というところも「多数者 」本位で価値判断が行われ、場合によっては「少数者」は排除され差別さえまかり通るところがあります。
なんだか、つれづれにキーボードを叩いていると、暗い話ばかり、しかも発展性のない話ばかりになりそうで恐縮ですが、しかし、そういう現状は現状として認識したうえで、親ならば親の立場から、教員の立場を深慮しつつ主張していく、そういった「対話」がやはり道を開いていくのだと思っています。
私も、学校というところで「少数者」、いや、学校ばかりでなく、たとえば運動の場においても「少数者」かもしれません。しかし、「多数者」の軍門にくだるのでもなく、「少数者」として諦めるわけでもなく、主張、相手の立場を尊重しつつ主張し続けようと思っています。
言葉でいうほど「対話」とは簡単なものではないと承知しつつ、しかし、「対話」をしなければ道は拓かれていかないと自戒しつつ全く違う立場や考えの人と対話を模索していきたいと思っています。
(上記は、あるMLに投稿したものです)
特に、児童・生徒に対しては、「ひとつの基準」で計りがちです。教員にもっと余裕のあった頃は、それでも、まだ一人ひとりとの関わりはできていたのかもしれませんが、しかし、こう忙しく、「成果」を求められるようになると、人と人とがかかわる最低限の交流さえどこかに吹っ飛び、若い教員が一生懸命「仕事」をすればするほど、熱意はわかるのだけれど、この教員にとっては、生徒は自分の教育の対象物であり成果物であるのだろうなぁと時折恐ろしくさえ感じるときもあります。
学校で、児童生徒、保護者、教員それぞれ立場が違うゆえ、また、その上それぞれが違う個性や考えの持ち主なのですから、ひとくちに「教育」と言っても、出発点からして困難性を抱えていると言えます。
しかし、だからこそ教育は常に万人にとってある種の課題にもなるのだとも思われます。誤解を恐れずに言えば、
人と人が、立場の違う人と人が、考えの違う人と人が、ある種真剣に向かい合うわけですから、ある意味最も人間らしい営みであり、おもしろいともいえます。
何がおもしろいのと、お叱りを受けるかもしれませんね。そういう私も、日々そんな余裕はないのですけれど。
ただ、最初からいろんな人間がいることが当 たり前なのですから、おおいに主張しあい、おおいにぶつかり合い、
そこから折り合いをつけていく作業こそが広い意味での「教育」なのかもしれません。そして、そんななかから
通じ合う場面が生まれればこんなうれしいことはありません。
恐れるのは、最近の学校にその余裕がなくなってきたこことです。何事も合理的に効率的に「片づける」ことが
教員に求められるようになって来ています。教員評価、競争と自己責任による教育改革の負の影響がすでに
表れているような気がします。
世間でもそうですが、学校というところも「多数者 」本位で価値判断が行われ、場合によっては「少数者」は排除され差別さえまかり通るところがあります。
なんだか、つれづれにキーボードを叩いていると、暗い話ばかり、しかも発展性のない話ばかりになりそうで恐縮ですが、しかし、そういう現状は現状として認識したうえで、親ならば親の立場から、教員の立場を深慮しつつ主張していく、そういった「対話」がやはり道を開いていくのだと思っています。
私も、学校というところで「少数者」、いや、学校ばかりでなく、たとえば運動の場においても「少数者」かもしれません。しかし、「多数者」の軍門にくだるのでもなく、「少数者」として諦めるわけでもなく、主張、相手の立場を尊重しつつ主張し続けようと思っています。
言葉でいうほど「対話」とは簡単なものではないと承知しつつ、しかし、「対話」をしなければ道は拓かれていかないと自戒しつつ全く違う立場や考えの人と対話を模索していきたいと思っています。
(上記は、あるMLに投稿したものです)