※2012年5月8日集会で配布した原稿を少し手直ししましたので、ご覧ください。辻谷博子
「不起立」という表現から「不起立」を超える運動へ
「不起立」という表現の意味
・憲法を蔑ろにしてはならない。
・少数者の立場は絶えず擁護しなければならない。
・学校を命令で動く場所にしてはならない。
・たとえ相手が大きな権力を持つ者であっても意見表明はできる。
・政治的圧力に負けるわけにはいかない。
・「不起立は、私たちの表現!
・なかまと連帯できれば闘える!
・闘いは受け継がれる!
1.憲法を生きよう
君が代強制の問題は「ルール」の問題ではなく憲法の問題だ。19条「思想・良心の自由」、20条「信教の自由」は言うまでもなく、21条「表現の自由」、23条「学問の自由」、26条「教育の自由」、ひいては25条「生存権」99条「公務員の憲法尊重擁護の義務」にも及ぶ。主権者である私たちは、教員としてあるいは市民としてそれらの権利を行使し国家に保障の義務を求めていく必要があるのではないか。それが、教育を通して憲法がそれぞれの生活においてあるいは仕事において生きたものとなる一つプロセスであろう。
2.司法は教育をまだ知らない
昨年2011.5.30から本年2012.1.16まで、「日の丸・君が代」強制にまつわる最高裁判決が相次いで出た。「日の丸・君が代」強制実施に伴う職務命令や処分は憲法19条には反しないという判断だ。処分の行き過ぎについては一定の歯止めとなろうが、本質的な問題はいまだ解決されていない。なぜか。良心の自由の解釈をはじめとする法的解釈の問題や限界もあろうが、素朴な疑問として、司法はいまだ教育を知らないのでは、と思う。これは行政も同じである。学校でどのような営みが行われているか。教育とは生身の人間が生身の人間とぶつかり合う泥臭い作業と言ってよい。テレビドラマにようにはいかない日々の営みがある。そのことをよく知っているのは教員自身だ。ならば、いかに最高裁で一定の結論が出されたとは言え、教員こそが声をあげていく必要があるのではないだろうか。司法の最高峰とは言え、最高裁はいわば「世間」のように思える。多数者側の価値判断に基づいた結論を「世間」とともに確認したにすぎない。少数者であろうといや少数者であるだけに私たちはなおも司法に訴える。それが私たちの役目だと思っている。そして、いつか司法は「教育」と言う営みを知るであろう。その日が来るまでは判決の屍をさらに重ねていくことになろうが。
3.「不起立」という表現の連続性
2012年度府立高校入学式不起立処分2名。「不起立」という表現は、1985年いわゆる文部省(当時)徹底通知以来、学校で行われた「日の丸・君が代」強制を巡る数々の議論、数々の出会いの延長上にある。
学校に国旗国歌が強制されることの意味を、その問題性を教員はずっと考え続けてきた。個々の教員の歴史観、世界観はそのなかで培われてきた。教育の営み、教員という仕事についても、然りである。学校に「日の丸・君が代」が否応なく持ち込まれるようになり、多くの教員は静かなささやかな抵抗として「不起立」という表現を選んだ。それしかできないもどかしさを抱えながら。いま、「君が代」斉唱わずか1分足らず黙って「すわること」にも条例と職務命令により処分が加えられるようになった。どう考えてもおかしくないか。このあまりにもおかしな状況において「不起立」という表現は続く。
2003.10.23東京都教委による「君が代」強制通達のなか、根津公子さんらは停職処分を受けながら免職の危機を抱えながら、それでも「不起立」を選んだ。根津さんだけではない、多くの教員が処分されながらも「不起立」という表現を行った。そして2011年度東京都立学校入学式では、橋下市長と同じ年の田中聡史さんがただ一人「不起立」を表現し処分された。田中さんの弁、「不起立がゼロにならなくてよかった」と。同意である。
翻って大阪では、昨年いわゆる「君が代」強制条例が制定され、大阪府立学校の教職員には全員「職務命令」が出されるという異常事態のなか、それでも29名の府立学校教員、市町村を合わせると35名の教員が「不起立」という表現で臨んだ。
2012年度入学式における私の「不起立」表現はそのような連続性のなかにある。そして2名の不起立の背後には「君が代」強制条例に対する多くの異議申立の声がかくとしてある。そして、これは来春の2012年度卒業式における「不起立」としてに受け継がれていくことだろう。
4.「不起立」を超える運動へ
いま、「学校」と「世間」の距離はより広がっているように思う。公務員バッシングや教員バッシングにのるつもりはないが、相互間の対話や信頼性はかつてに比べれば間違いなく乏しくなって来ている。「不起立」の問題は歴史認識、世界観、教育観の問題であるといってもなかなか理解されにくくなっている。
一方で、労働現場の苛酷さを「学校」はどれほど理解しているだろうか。東京新聞5/3社説にこうあった、「若者の半数が不安定雇用。こんなショッキングな数字が政府の『雇用戦略対話』で明らかになった。2010年春に大学や専門学校を卒業した学生85万人の『その後』を推計した結果だ。3年以内に早期退職した者、無職やアルバイト、さらに中途退学者を加えると、46万人にのぼった。安定的な職に至らなかった者は52%に達するのだ。高卒だと68%、中卒だと実に89%である。学校はまるで“失業予備軍”を世の中に送り出しているようだ」。
いま、学校がどのような役割を果たすべきか、ここからも明らかであろう。苛酷な労働現場やその実態を共に変革する志なくして「君が代」不起立と言う表現は到底理解され得ない。教育問題と労働問題は軌を一にしている。そしてそのときやはり武器になるのは憲法だ。憲法の原点に立ち返り、教育の場でこそ憲法を日常的な営みにしていくことが求められているのではないだろうか。そのとき「不起立」はそれを超えた運動になっていくだろう。