城の記 2.0

気の向くままにふらふらと、
投稿日と記事との時系列は一致していません、あしからず。

神之峰周辺散策

2015年06月28日 | Weblog
土曜日、久しぶりに付近を散策。

北側の県道付近は国道256号線バイパスの工事中。


バイパスの向かう先は、現在龍源寺跡の発掘調査中。
バイパス完成時には正面付近は完全に削り取られて消滅する模様。


左側電柱後に神之峰。


現国道256号線と三遠南信道の橋脚。


少し走って、南西の稲葉地籍へ。
三遠南信道陸橋上から、中央右手に神之峰。


西側へ、角領地籍から。
中央、住宅の後ろ側に少しだけ見える。


そして北側へ、嵯峨坂地籍から。





コメント

浅間砦 付近(長野県飯田市)

2015年06月22日 | 長野県飯田市の城址
所在地:長野県飯田市座光寺唐沢
現状:山林、耕作地等
遺構:不明
状態:
表示等:あり
駐車場:なし

いつ頃、誰が築いたのかは不明。
上野南本城の西側、西ノ沢川と土曽川に挟まれた段丘端にあります。

広域農道沿いの看板が気になっていたので訪れてみました。

農道から180m程南に入ると交差点にまた案内板があります。


私道のようですが、取り敢えず進みます。


果樹園のようです。


奥まで進むと浅間砦の解説の書かれた看板が立てられていました。


再び、交差点まで戻って、東側の道を下の段まで下ってみます。

左側が浅間砦のある段丘端下。


南側下、土曽川沿いJR軌道下付近から。

左側が浅間砦、右側が上野南本城。

コメント

伊那市長谷 一瀬越前守直忠の墓石(宝篋印塔)

2015年06月10日 | 名所旧跡

熊野城城主、一瀬越前守直忠の供養塔です。


南信伊那史料 巻之上に拠れば、

熊野城墟、伊那里村市野瀬にあり 応永十一年笠原中務少輔政直の次男在名を以て
家号とし 市野瀬兵庫頭正保分知して築城此に住す、其子但馬守正親、帯刀正久、
同久保、に至る 代々二百貫文を領し高遠城に属し 其子同兵庫正光は甲州武田方に
隷属し 天正十年織田信忠侵入のとき討死長子弥太郎民間に降る
(伊那武鑑云々)
又日天文年中一ノ瀬主人入道直繁此に住す(是を故城と云う) 同十八年武田晴信
将士の為めに青柳峠にて戦死す 長子左兵衛直長は弘治二年より武田氏に属し尚此に
住し 其子勘兵衛に至り天正十年より保科弾正正忠正直に属し寛永十三年羽州山形へ
随行したりと高遠記に見えたり

とあり、
まず、市野瀬兵庫頭正保が城主としてこの地にあり、五代続いた後甲斐に移って
いった。
その後に、一ノ瀬主人入道直繁が、この地に入って新たに城主となった、
という事のようです。
最初の市野瀬氏と後の一ノ瀬氏は在名を名乗っただけで別の氏と思われます。

そして、この宝篋印塔は、一瀬越前守直忠(剃髪後は一ノ瀬入道直繁)の供養塔です。


元々建てられていた場所は城山の南側尾根上のようですが、粟沢川掘り抜き、の工事
(江戸末期-明治始め)の際に現在の場所に移されたとの事。

(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの1965年の空中写真を加工して作成)

現在は国道バイパスも造られたので城山は完全に孤立した小山となっていますが、この写真では
まだ城山と南側の尾根がつながっていた感じがよく判ります。
本来の粟沢川(左側の沢)は城山の西側、現在の旧道の辺りを流れて、城山の北側で三峰川と
合流したようです。

1、の付近からみた掘り抜き部分。右側が城山。

城山上から南側尾根方向。
正面の枠形の法面の辺りへ尾根がつながっていたようです。
宝篋印塔は、この消えてしまった尾根上にあったのでしょう。
コメント

中条の城(長野県伊那市)

2015年06月01日 | 長野県伊那市の城址
所在地:長野県伊那市西箕輪中條
現状:耕作地等
遺構:不明
状態:
表示等:なし
駐車場:なし

中条の表記は、
「図解 山城探訪 第四集 改訂上伊那資料編」(宮坂武男著 長野日報社刊)や
「長野県の中世城館跡-調査報告書」(長野県教育委員会編)に
従いました。

「南信伊那史料 巻之上」に拠れば、
中條氏の館跡、応永八年笠原中務少輔弟左近進信政がこの所に居を構えて、
在名を家名とし、四代左近之進信平の代に中條八ツ手に百五十貫文を領して
仁科五郎信盛に属し、天正十年織田信忠の伊那侵入時に高遠城に籠り討ち死に、
家名を失い長子八郎は民間に降りた(伊那武鑑云々)、
とあります。

また同書に、
唐澤氏の館跡、中條にあり天文元年上杉定実の家臣唐澤隼人助源昌綱が此に
居を構えてその子唐澤備前義景が石曽根に移住して弘治二年武田信玄侵入の
時に土地は没収され年貢地となった(郡記及古系云々)
とあります。(石曽根は、飯島町の唐沢城跡

「図解 山城探訪」では同じ場所に一時期唐澤氏が居たのではないかと推察されて
います。

中條公民館西側のお滝川沢と戸谷川に挟まれた傾斜地が城跡になります。
ゲートボール場になっていた場所とその下側は見られましたが、西側の土塁の
残ると思われる場所は耕作地から自然に帰りつつあり、草木が生い茂っていて
確認出来ませんでした。

中條公民館。

右側から建物裏へ。

橋の向こう側が城跡。


お滝川沢。


橋を渡った城跡東端の平場。


一段上がってゲートボール場。


ゲートボール場北側の土塁状の土盛。


更に一段上がって、ここから先が城跡の中心部のようですが、侵入を拒む草木
を前に撤退しました。

左側がコンクリートで固められた戸谷川。




コメント