城の記 2.0

気の向くままにふらふらと、
投稿日と記事との時系列は一致していません、あしからず。

伊那市長谷 一瀬越前守直忠の墓石(宝篋印塔)

2015年06月10日 | 名所旧跡

熊野城城主、一瀬越前守直忠の供養塔です。


南信伊那史料 巻之上に拠れば、

熊野城墟、伊那里村市野瀬にあり 応永十一年笠原中務少輔政直の次男在名を以て
家号とし 市野瀬兵庫頭正保分知して築城此に住す、其子但馬守正親、帯刀正久、
同久保、に至る 代々二百貫文を領し高遠城に属し 其子同兵庫正光は甲州武田方に
隷属し 天正十年織田信忠侵入のとき討死長子弥太郎民間に降る
(伊那武鑑云々)
又日天文年中一ノ瀬主人入道直繁此に住す(是を故城と云う) 同十八年武田晴信
将士の為めに青柳峠にて戦死す 長子左兵衛直長は弘治二年より武田氏に属し尚此に
住し 其子勘兵衛に至り天正十年より保科弾正正忠正直に属し寛永十三年羽州山形へ
随行したりと高遠記に見えたり

とあり、
まず、市野瀬兵庫頭正保が城主としてこの地にあり、五代続いた後甲斐に移って
いった。
その後に、一ノ瀬主人入道直繁が、この地に入って新たに城主となった、
という事のようです。
最初の市野瀬氏と後の一ノ瀬氏は在名を名乗っただけで別の氏と思われます。

そして、この宝篋印塔は、一瀬越前守直忠(剃髪後は一ノ瀬入道直繁)の供養塔です。


元々建てられていた場所は城山の南側尾根上のようですが、粟沢川掘り抜き、の工事
(江戸末期-明治始め)の際に現在の場所に移されたとの事。

(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの1965年の空中写真を加工して作成)

現在は国道バイパスも造られたので城山は完全に孤立した小山となっていますが、この写真では
まだ城山と南側の尾根がつながっていた感じがよく判ります。
本来の粟沢川(左側の沢)は城山の西側、現在の旧道の辺りを流れて、城山の北側で三峰川と
合流したようです。

1、の付近からみた掘り抜き部分。右側が城山。

城山上から南側尾根方向。
正面の枠形の法面の辺りへ尾根がつながっていたようです。
宝篋印塔は、この消えてしまった尾根上にあったのでしょう。