幸隆の国から

歴史の跡、自然、いい湯などを訪ねて出掛けたときの記録。
また、四季折々、日々の雑感です。

和同開珎

2021-04-26 | 歴史

先日のハイキングで登った蓑山の下山は、秩父鉄道の「和銅黒谷駅」側に下るコースを採った。

ガイドブックにも、このコースがよく紹介されている。

和銅黒谷駅の駅舎は、レトロないい雰囲気が残っている。

この駅と国道140号を挟んだ反対側に和銅遺跡がある。

 

ここで算出した銅が献上され、それを機に年号は「和銅」と変わったのだという。

日本通貨発祥の地として、遺跡には「和同開珎」の大きなモニュメントが建っている。

 

そばを流れる沢の向かい側の斜面に露天掘りのあとがある。

上から流れ落ちて来たような灰色の泥を手に取ってみた。

粘土質ではない、砂のような触感がした。

 

沢に架かっている橋を渡り、反対側の急斜面の階段を登る。

息を切らせながら登ると、銅が採掘されていた跡を真上から見ることができた。

 

「和同開珎」について習ったのは中学生の頃だったろうか。

手元の歴史年表を引いてみると、”708(和銅1)武蔵国 和銅献上 改元”とある。

和同開珎の材料となった銅は、秩父の山中、まさにこの地で採掘されたものだったのだ。

 


大奥から高遠藩に流された「絵島」

2021-04-08 | 歴史

さくらの名所「高遠城址公園」(長野県伊那市)の南ゲートを出て坂を下ると、伊那市立高遠町歴史博物館がある。

博物館の裏には、「絵島」が幽閉されていた「絵島囲み屋敷」が復元され公開されている。

不勉強な私は、「絵島」について知識が乏しく、いつも通り、歴史館で得た資料でにわか勉強だ。

 

絵島は大奥で6代将軍家宣の側室・月光院に仕え、大年寄りにまで出世した。

家宣の亡くなった後、月光院の生んだまだ幼い家継が7代将軍になる。

大奥の権力争いに巻き込まれたのか、あることで絵島は罪を問われることになった。

お裁きの結果は、信州・高遠藩に遠流の重い処分。

絵島34歳の時の事件だという。

 

高遠藩へ流された絵島は「囲み屋敷」に幽閉され、人生の約半分近くをここで暮らす。

食事は一汁一菜の質素なものだったという。

彼女の江戸(大奥)での日常から見れば、大変な落差であろう。

一方、そんな人を預けられた高遠藩にすれば、いい迷惑だったのでは・・・。

 

古い図面から復元されたという「絵島囲み屋敷」の門。

 

塀には忍び返しが。

まるで牢獄のイメージではないか。

 

絵島の居住スペースは8畳。

下女詰所(4畳)があるので、身の回りを世話する女性はいたのかもしれない。

さらに、番人詰所(10畳)もあるので、番人に見張られての生活だったことも想像される。

 

華やかな江戸城の大奥から信州の小さな藩に遠流となって以降、27年余りをここで暮らしたのだという。

61歳で生涯を閉じた絵島は、高遠の地に眠っている。