幸隆の国から

歴史の跡、自然、いい湯などを訪ねて出掛けたときの記録。
また、四季折々、日々の雑感です。

日本百名城探訪・静岡編2 駿府城

2025-02-23 | 歴史

静岡県での日本百名城巡りの二カ所目は「駿府城」。

天下統一が成り大御所となった徳川家康が、大普請をし築城したのがこのお城だという。

三重の堀を廻らせ、壮大な天守をもつ「駿府城」であった。

現在は、築城当時の本丸と二の丸の部分が「駿府城公園」となって開放されており、一部の建物が復元されている。

隠居した家康になったつもりで、公園内を歩いてみた。

 

お城は、外側から「三の丸堀(外堀)」、「二の丸堀(中堀)」、「本丸堀(内堀)」の三重の堀に囲まれていた。

二の丸堀(中堀)

 

本丸堀(内堀)

 

二の丸水路

両側に石垣が積まれ、本丸堀と二の丸堀をつないでいる。 

一部の底には石が敷かれていて土が流されないようになっているとのことである。

 

駿河城公園(本丸・二の丸)へは、二の丸堀に架かる「東御門橋」を渡り、「東御門(復元)」の枡形を通り抜ける。

 

二の丸には二つの櫓が復元されている。

南東の角にある巽櫓(たつみやぐら)と南西角の坤櫓(ひつじさるやぐら)である。

それぞれが位置する方角から呼ばれた名称であろう。

 

広い公園内を進むと、家康公の鷹狩の姿の像がある。

 

家康公の像の脇には、家康公お手植えだとされる何本かのミカンの木がある。

不心得者がいていたずらをするのか(?)、がっちりと金網で囲われている。

 

また、家康公像の後ろでは、天守の発掘調査が行われている。

中をのぞくと、出てきた石垣の一部が見える。

 

城跡(公園)を一回りしてみると、周囲には近代的な高層ビルが立ち並ぶ市街地の公園である。

わずかに東御門や二つの櫓、お堀などから、そこが大きなお城であったことをイメージしたのだった。

現在発掘調査が進む天守台に、もし将来、5層あるいは6層の天守閣が出来るならば、イメージはがらりと変わるであろう。

 


日本百名城探訪・静岡編1 山中城跡

2025-02-22 | 歴史

今回の日本百名城探訪の旅は、静岡県の[山中城]・[駿府城]・[掛川城]の三か所の城跡を巡った。

最初に訪れた「山中城」は文字通り山の中の城である。

JR三島駅からバスで約30分、「山中城跡」で下車すると「山中城跡公園」は目の前である。

 

バス停⇒三の丸堀⇒西櫓⇒北の丸⇒天守台⇒本丸⇒二の丸⇒障子堀⇒西の丸(物見台)⇒バス停のコースをたどった。

バス停前の広場を通り抜け、「三の丸堀」脇の緩やかな登りの探訪コースを上っていく。

コースの所どころにはまだ霜柱が立っており、グサッとそれを踏みしめることもある。

 

西櫓から西の丸の縁を巻くように、障子堀を見ながら北の丸へ進む。

「北の丸」はかなり広い平らな広場がひろがっていて、ぐるりと土塁で囲まれている。

 

北の丸と本丸との間、一段高いところに「天守台跡」がある。

天守といってもどの程度のものであったのであろうか、広くはなく、礎石などは何も残っていない。

 

天守台から先に進むと、「本丸跡」に到着。

ここも往時をしのばせるものは何もない。

 

本丸と二の丸を結ぶ「本丸西橋」。

土橋と木橋が半分ずつの橋であり、敵が迫ってきたら木橋の部分は壊したものらしい。

 

この城の特徴の一つは、石垣が無く、いずれの郭も土塁で囲まれていることではなかろうか。

しかも、その外側は空堀で守られている。

よく「土の城」と表現される。

山中城の堀の多くは「障子堀」であり、探訪コースの見どころとなっている。

一度ここにはまったら進むに進めず、退くに引けず、横の移動もままならず、攻める方は大変であったはずである。

 

一旦「溜池」のあったところまで下るが、そこから急な斜面を「西の丸」へ登る。

西の丸には「物見台」があったとされる場所で周囲が見渡せる。

下を見ると西の丸を守る障子堀もよく見えるし、何よりも、土塁越しに富士山が眺められるのがすばらしい。

富士が見えるのと見えないのでは大違い。

恵まれた天候に感謝しながらバス停方面へと戻る。

 

北条氏は小田原を攻めようとする豊臣秀吉に備え、この城を強化したとされる。

しかし、豊臣軍4万に攻められ、守る北条軍はその十分の一であり、一日もかからず落ちてしまったと伝えられているそうだ。

いかに優れた縄張りであっても、「十倍」の敵を追い返すのは難しかったということであろう。


日本百名城を巡る旅・広島城

2024-12-04 | 歴史

この度の広島への旅の最後は、毛利輝元の築いた「広島城」なる。

昭和20年、原子爆弾が投下され、天守をはじめ全ての建物が無くなってしまったという。

その後、天守や二の丸の御門橋、表御門、多門櫓、太鼓櫓などが復元されている。

 

広島城跡の見学に先立ち、平和記念公園を散策し、原爆の犠牲になった人たちへの慰霊の祈りをささげた。

外国人を含み、朝から平和を祈る人々の姿が多く見られた。

 

広島城跡へは平和記念公園から歩いてわずかな距離である。

「御門橋」を渡り、「表御門」から「二の丸」へと表玄関から入城させてもらう。

二の丸は堀の中に島のように作られていて、馬出として機能し、いざ戦になると城の守備のうえで重要だったはずである。

二の丸と本丸とをつなぐ石積みの通路。

「中御門」のあったところを入る。

地元の方らしい人から、「ここの石垣は、被爆したとき色が赤く変色してしまったのだ」と説明していただいた。

赤くただれたような石が痛々しい。

本丸は堀で囲まれた長方形のエリアで、下段と、そこよりも一段高い上段の二段構造になっている。

石段を登り上段の中を少し進むと、「広島大本営跡」があり、さらに進むと「天守」が見えてくる。

五層の天守は鉄筋コンクリートで復元されたもので、内部は資料館になっている。

最上階は展望室になっており、ぐるり回廊を周り周囲を見渡すことができる。

堀の向こうに見える紅葉がきれいだった。

面白いところがあった。

北東に崩れたまま残る石垣がある。

ここは、当時城主だった福島正則が城の改修をする際幕府への届け出を怠って、それをとがめられて壊した跡とされる。

そのまま今に至っているというのが面白い。

 

二の丸~本丸を一通り観て周って「裏御門」から本丸から外に出る。

 

昭和20年まであった天守その他の建造物は、原子爆弾によりすべてを失ってしまったという。

残念なことである。

現在は、内堀に囲まれた二の丸、本丸の敷地内に復元された建物から、往時の姿を想像するしかない。

福山城、郡山城、広島城と観てきた広島県にある名城の旅も、これをもって終えることになる。


日本百名城を巡る旅・毛利氏の本拠「郡山城」

2024-12-02 | 歴史

毛利元就は安芸の国の領主から、中国地方を治める戦国大名へと駆け上がったて行った。

その本拠地としていたとされる「郡山城」の跡を見て回った。

 

前夜に宿泊した「神楽門前湯治村」からタクシーで、郡山の登山道入口まで走ってもらう。

市街から見る「郡山」。

あの山のてっぺん(標高390m)に郡山城の本丸があった。

 

車が入れるのはここまでという所でタクシーを降りて、緩やかな登りを200mほど進む。

そこに、毛利元就および毛利一族の墓所がある。

一段上がったところに元就の墓がある。

墓と向かい合わせに「百万一心」と彫られた石が建てられている。

郡山城の改修のとき、元就が人柱の代わりに「百万一心」と彫った石を埋めさせると、工事が成功したとの伝説がある。

郡山城のパンフレットでも、この石にまつわる説明がそのようにされている。

 

墓所の脇に郡山城跡への登山道がある。

登山道を落ち葉を踏みながら登っていくが、平日のせいか人に合うことはなかった。

この登山は「山城」としては、楽に歩ける部類に入ろう。

安芸高田の市街を垣間見ることができる。

 

30~40分かかったであろうか、いよいよ本丸近くまで登った。

「御蔵屋敷跡」には、江戸幕府に命じられ壊されたと言われる石垣の跡がみられる。

二の丸跡

二の丸に接する「本丸」に到着。

本丸は二段の構造になっている。

上の段の最高地点(山頂)は櫓台の跡だそうだが、今はただ「御本丸跡」の石碑が立っている。

 

「山の天気」である。

陽が射したかとおもうと、急に雲が拡がり寒くなる。

さらに、濡れる程ではないが、パラパラと雨が落ちてきたりする。

 

下山途中では、林の中から鹿が現れた。

人の姿を見馴れているのか、逃げようともせずこちらを見ていた。

 

山麓まで下りくると、「安芸高田市歴史民俗博物館」がすぐそこにある。

毛利一族、郡山城を目玉に、安芸高田の歴史・文化の発信基地である。

多くの展示や解説から、毛利一族と、いま登ってきた「郡山城跡」に関する歴史をおさらいした。

 

博物館で、元就自筆の手紙がたくさん収録されている本「元就の手紙」が目についたので買ってきた。

その中の一つ、「三人心持の事・・・」とある「三子教訓状」といわれる長い手紙は、有名な「三本の矢」の伝説のもとになっているとされる。

「三本の矢」の伝説といい、「百万一心」の伝説といい、元就の思想に通ずるものであろう。

今回の旅から帰って、筆文字の原文、現代の活字に直されたもの、さらにその解説を読み比べながら、少しずつ読むのを楽しみにしている。


城下町佐倉・「武家屋敷通り」を散策

2023-05-07 | 歴史

日本100名城の一つ「佐倉城」の東側は城下町だったところで、今でも歴史を偲ばせてくれる。

城跡見学の後、観光協会で入手したパンフ「佐倉散歩」を手に、武家屋敷を観て周ってみた。

 

佐倉城の三の門跡から真っすぐの道を東方向に歩くと、お城の正門ともいえる「大手門跡」に着く。

二階建てで鯱の載った立派な門があったそうだがそれは昔、今やそれを示す石碑が立っているのみ。

 

大手門跡を右に折れ、一旦坂道を下りてから「ひよどり坂」の急な坂道を登る。

太い竹が密集する林で、その様子は江戸時代とほとんど変わっていないとか。

多くの若者たちが写真を撮りあっていた。

 

息を切らせてひよどり坂を登りきると、良い雰囲気の「武家屋敷通り」となる。

旧河原家、旧但馬家、旧武居家の武家屋敷三軒が公開されている。

どの家も道路に面して門があり、土塁の上の生垣が視界を遮っている。

 

旧但馬家の門

 

旧武居家玄関

 

旧河原家

 

邸内の座敷

 

旧但馬家はもともとあった場所に、他の二軒は移築して整備されたものだという。

建物の広さは異なるが、それぞれ畳敷きの立派な玄関がある、武家のお屋敷らしい風格のある建物であった。

わずかな時間ではあるが、江戸時代へタイムスリップした雰囲気を楽しんだ。