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十字架の預言(1)

2016-06-20 23:10:45 | 日記
<マタイによる福音書第16章>
(16・21―28)十字架の預言(1)
(21)この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。
(22)すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
(23)イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
(24)それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
(25)自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
(26)たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
(27)人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。
(28)よく聞いておくがよい。人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。

(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・イエスがその受難と死と復活についてはじめて弟子たちに明言された。それはペテロの信仰告白のあとであって、その前ではなかった。
・21 《この時から》ペテロの告白がなされた時からである。《イエス・キリストは》マルコの「人の子は」のほうが、世にメシヤとして受け入れられないで、かえって受難と死をもって報いられるこの場のイエスにふさわしい表現である。マタイは復活してのち栄光の位にはいったキリストの立場から語っている。《必ず》イエスの受苦と死は、偶然的なものでなく、彼がキリストとして避けることのできない必然である。《長老、祭司長、律法学者》ユダヤ人議会(サンヒドリン)を構成する三つの階級。《苦しみを受け》議会で侮辱を受け、違法の範例により死の宣告をされること。《殺され》罪人として処刑されること。《三日目によみがえるべきこと》
イエスにとって受苦と十字架の死が必然であるように、復活もまた必然であること。「三日目」ということはイエスの死が完全な死からの復活であって、一時の気絶状態から息を吹き返したというようなものではないことを表明している。金曜日に十字架にかかり、三日目の日曜日によみがえられたことをキリスト教会は記念して、日曜日を安息日(土曜日)に代えて聖日とし礼拝日とした。
・22 ペテロはイエスをキリストであると告白したが、キリストの死を理解することはできなかった。彼はイエスの死だけが、聞こえて、その復活は耳にはいらなかったからである。
・23 荒野の試みで、聞いたサタンの言葉を、ペテロから聞いて、ペテロをサタンと同一視され、《引きさがれ》と言われた。わたしの視界から消えうせよという意味である。《神のことを思わないで、人のことを思っている》イエスの受苦と死が神のことであることを思わないで、人間の判断で、救いの道を阻止しようとしていること。
・24 強い拒絶に続いて、弟子の道を示された。彼の拒絶は、悔い改めをもって従う者にとっては、彼の招きである。《わたしについてきたいと思うなら》イエスへの服従は、人まねでなく、自由意思による事がらである。《自分を捨て》イエスの前に自分をむなしくする。《自分の十字架を負うて》イエスに服従することは、誇り高い選民意識や、これ見よがしの愛の実行ではなく、自分の十字架を負うことである。イエスの十字架とイエスに従う者の十字架とは区別されなければならない。
・26 人が《全世界をもうける》ことは、彼の成功と名誉であるが、しかし成功と名誉を人生の目的として結局、世界の奴隷にされて、《自分の命》すなわち、自分が自分であることを失ってしまう。人は世界の中に自分を失ってしまうなら、失われた自分を《買いもどす》ために支払うどんな代価ももっていない。
・27 イエスは自分の人の子の謙遜な姿のほかに、《父の栄光のうちに、御使たちを従えて来る》神の子、審判者としての本来の姿を示された。
・28 《人の子が御国の力をもって来るのを見る》それはイエスの変貌(17・1-13)をさす。また聖霊降臨(行2章)をさすなどの解釈があるが、後者をとる。《死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる》イエスは自分の死、昇天ののち間隔をあけずに再臨すると考えられていられたから、再臨のとき弟子の中にはまだ存命者がいると言われた。こう言って弟子たちの信仰と生活の目をさまそうとされた。

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