われわれは神の愛の存在をこそ
信じなければならないのです。
わたし達は
時に人を憎んだり、
良く思う事が出来ない心の状態に
なることがあります。
神が愛であることを信じることができていないのです。
神の愛を信じるためには
神を信じねばなりません。
神を信じること→神の愛を信じること→人を愛し信じること→自分を免すこと、
となるのです。
そして神の祝福を受けることができるのである。
(奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳)
<わたしたちが他の人についてその人の“神の子”たる実相を心に描いて念ずるとき、わたし達は、意識の内に於いてその人の霊を高めつつあるのである。>
【神は聖なる愛であるから、われわれの罪を免すことができるのであるが、ともかく、われわれは恐怖や否定の破壊的力の存在を信ずる代りに、神の愛の存在をこそ信じなければならないのである。わたしたちが誰か他の人について、“あいつは不快だ”と思ったりするときには、わたしたちはその人の個性の自由を侵害しつつあるのである。わたしたちが他の人についてその人の“神の子”たる実相を心に描いて念ずるとき、わたし達は、意識の内に於いてその人の霊を高めつつあるのである。わたしたちは自分のゴシップの中で人の悪を語ったり、また時には悪意を懐(いだ)いたり、愚かなる想像をたくましうしたり、否定的な暗い感じをもったとしたならば、それが免されるように祈るべきである。わたしたちが、自分を傷つけるようなことを人が言ったりした場合、その人を免すならば、われわれは霊の世界で、大なる勝点(かちてん)を獲得したことになるのである。相手の“神性”を認めること、相手の神性の実現を念ずること、そして埋蔵されている神性を解放すること―この三つのアイディアは“主の祈り”の各節に諄々と織り込まれてあるのである。】
<われわれが自分の過去の過ちに就いて自分自身を免すとき、わが内に過ちなき“神”が在(いま)すことを認めているのである。>
<今や、再び完全なるものとなり、天にまします神と一体となり、神の限りなき祝福を受け得る状態にあるのである。>
【わたしたちが他の人の過ちを免すとき、その人の外見を見ないで、彼の“神の子”たる実相に就いての真実を肯定しつつあるのであり、“彼”が居るところに其処に“神”がましますことを観ているのである。それと同じくわれわれが自分の過去の過ちに就いて自分自身を免すとき、わが内に過ちなき“神”が在(いま)すことを認めているのである。われわれが今まで神から隔れているような感じによって自由を失っていたのが、今や、再び完全なるものとなり、天にまします神と一体であり、神の限りなき祝福を受け得る状態にあるのである。さればわれわれの祈りは諾かれる、何故なら自己処罰が無くなり、悦んで神の応答を素直に受け得る状態にあるからである。】
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