奇蹟というものは
“実相”が顕われる時起こるのである。
“神の法則”が働くというのは
実相が現象化するということである。
実相理念の円満完全が
ストレートに現象化する時である。
その理論あるいは原理は
以下の文章で理解できる。
結論をいうと、
真理が熟成して
神想観で「実相を観じる」ことが可能になると、
神癒は当然に起こるのである。
現象の奥に実在する見えない実相の円満完全が
実相の観によって呼び覚まされて
現象の心に表現させるわけである。
それが奇蹟だ。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
【大抵の人々は、原因結果の法則に支配されて生活しているのである。東洋の宗教では、この因果の法則を“業”と呼んでいる。奇蹟というものは“神の法則”の示現であるのである。わたし達が原因結果の法則に支配されているときには、われわれは過去に犯した間違いに従って、すなわち旧(ふる)き誤れる想念の支配下に生きているのである。法則と秩序との此の宇宙に於いては、自己が播いた想念の果実を獲り取る。すべての結果には原因があるのである。
しかしながら、わたし達が“第一原因の世界”~アレクサンダー・ポープがいみじくも、“汝、最も理解しがたき偉大なる第一原因”と称したところの“神の法則”の世界に入って生活するとき、結果は原因に等しいのであるけれども、“第一原因”が超自然の世界から働きかけてくれるので、それが奇蹟となるのである。
奇蹟と称するも、その事件の奥には“法則”がはたらいているのである。すべての奇蹟は“神の法則”と調和して行われる。“神”と“神の創造”とは一体である。唯一の原因者であり創造主であり、すべての生きとし生けるものの生命のエッセンスであるところの神は、神みずからを本源として実質として、創造の御わざを行ない給うほかはないのである。これこそ、イエスが「天にまします汝の父が完全であるが如く、汝も完全であれ」と言い得た所以であるのである。だから読者諸賢よ、ひとたび奇蹟というものの本質が理解されるならば、もうそれは、奇蹟と言い得ないということは興味あることである。われわれはただ自己の信ずるところのものを身をもって体験するだけである!】
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