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日本近代文学の森へ (95) 徳田秋声『新所帯』 15 殺伐とした心

2019-03-01 21:50:14 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (95) 徳田秋声『新所帯』 15 殺伐とした心

2019.3.1


 

 お作の腹は大分大きくなってきた。実家でお産をするというのは、今でもよくあることだから、お作が実家に引き取られていったことは別にどうということはないのだが、これが夫婦の別れである可能性を秘めていることに、なぜかハッとする。


 秋の末になると、お作は田舎の実家(さと)へ引き取られることになった。そのころは人並みはずれて小さい腹も大分目に立つようになった。伝通院前の叔母が来て、例の気爽(きさく)な調子で新吉に話をつけた。
 夫婦間の感情は、糸が縺れたように紛糾(こぐらか)っていた。お作はもう飽かれて棄てられるような気もした。新吉はお作がこのまま帰って来ないような気がした。お作はとにかくに衆(みんな)の意嚮(いこう)がそうであるらしく思われた。
 新吉は小使いを少し持たして、滋養の葡萄酒などを鞄の隅へ入れてやった。
「そのうちには己も行くさ。」
「真実(ほんとう)に来て下さいよ。」お作は出遅れをしながら、いくたびも念を推した。
 お作が行ってから、新吉は物を取り落したような心持であった。家が急に寂しくなって、三度三度の膳に向う時、妙にそこに坐っているお作の姿が思い出される。お作を毒づいたことや、誹謗(へこな)したことなどを考えて、いたましいようにも思った。何かの癖に、「手前(てめえ)のような能なしを飼っておくより、猫の子を飼っておく方が、はるかに優(まし)だ。」とか、「さっさと出て行ってくれ、そうすれば己も晴々(せいせい)する。」とか言って呶鳴った時の、自分の荒れた感情が浅ましくも思われた。けれど、わざわざお作を見舞ってやる気にもなれなかった。お作から筆の廻らぬ手紙で、東京が恋しいとか、田舎は寂しいとか、体の工合が悪いから来てくれとか言って来るたんびに、舌鼓(したうち)をして、手紙を丸めて、投(ほう)り出した。お袋に兄貴、従妹、と多勢一緒に撮った写真を送って来た時、新吉は、「何奴(どいつ)も此奴(こいつ)も百姓面してやがらア。厭になっちまう。」と吐き出すように言って、二タ目とは見なかった。

 

 お作は「もう飽かれて棄てられるような気もした」とあり、新吉は「お作がこのまま帰って来ないような気がした」というのだから、夫婦の感情のもつれはかなり深刻なところに来ていたわけである。

 今までいたものがいなくなれば、淋しい。それを「物を取り落したような心持」と表現するのだが、うまいものだ。あるのが当たり前なものが、ふっとなくなるとき、「どこかへ落として」という感覚がある。高校生のころだったか、新潟の田舎からの帰りの列車の窓から、窓辺においていたハンカチがふっと風に飛んでなくなってしまったことがある。さっきまで手にもっていたハンカチが、もうない、という感覚が、数十年経った今でも生々しく残っているのが不思議だ。

 新吉は、だからといって、お作が「いなくてはならない者」だったのだと気づいたわけではない。これまでお作に対して行った冷たい仕打ちを思って、「いたましいようにも」思った。自分の言動も「浅ましくも」思われた。それなのに、ちっとも、お作に対する愛情が沸き起こってこないのだ。そればかりか、お作の「筆の廻らぬ手紙」に、苦々しく思うだけなのだ。

 よくよく冷たい男である。お作の一族の写真を見ても、「百姓面」してると感じて、嫌になる。そういうお前は、百姓面じゃないのかい? っていいたいよね。新吉だって、たいした玉じゃないのだ。どこぞの貴族の末裔でもあるならともかく、どこか「雪深い田舎」からのポッと出にすぎないのだ。それなのに、どうしてこんなにお作やその親族を「田舎者」と言って侮蔑の目で見るのだろうか。

 さて、話は、次の展開に移っていく。お作がお産のために実家に帰った、その期間の話となる。こういう時って何か起こるんだよね、と読者は期待するところだ。


 そのころ小野が結婚して、京橋の岡崎町に間借りをして、小綺麗な生活(くらし)をしていた。女は伊勢の産れとばかりで、素性が解らなかった。お作よりか、三つも四つも年を喰っていたが様子は若々しかった。
「君の内儀(かみ)さんは一体何だね。」と新吉は初めてこの女を見てから、小野が訪ねて来た時不思議そうに訊いた。
「君の目にゃ何と見える。」小野はニヤニヤ笑いながら、悪こすそうな目容(めつき)をした。
「解んねえな。どうせ素人じゃあるめえ。莫迦に意気な風だぜ、と言って、芸者にしちゃどこか渋皮の剥けねえところもあるし……。」
「そんな代物じゃねえ。」と小野は目を逸(そら)して笑った。
 小野は相変らず綺麗な姿(なり)をしていた。何やらボトボトした新織りの小袖に、コックリした茶博多(ちゃはかた)の帯を締めて、純金の指環など光らせていた。持物も取り替え引き替え、気取った物を持っていた。このごろどこそこに、こういう金時計の出物があるから買わないかとか、格安な莨入れの渋い奴があるから取っておけとか、よくそういう話を新吉に持ち込んでくる。
「私(あっし)なんぞは、そんなものを持って来たって駄目さ。気楽な隠居の身分にでもなったら願いましょうよ。」と言って新吉は相手にならなかった。
「だが君はいいね。そうやって年中常綺羅(じょうきら)でもって、それに内儀さんは綺麗だし……。」と新吉は脂(やに)ッぽい煙管をむやみに火鉢の縁で敲(たた)いて、「私なんざ惨めなもんだ。まったく失敗しちゃった。」とそれからお作のことを零(こぼ)し始める。
「その後どうしてるんだい。」と小野はジロリと新吉の顔を見た。
「どうしたか、己(おら)さっぱり行って見もしねえ。これっきり来ねえけれア、なおいいと思っている。
「子供が出来れアそうも行くまい。」
「どんな餓鬼が出来るか。」と新吉は忌々しそうに呟いた。

 

 この小野というのは、新吉の同郷の男で、この男が新吉の結婚をあれこれと面倒をみたのだ。商売は何をしているのかはっきりしないが、気質の堅い仕事じゃなさそうだ。「コックリした茶博多の帯」とあるが、この「こっくり」は、「色味や味などが、濃かったり深みがあったりする様」(日本国語大辞典)で、「茶博多の帯」とは、「茶色の博多帯」のことで、「日本国語大辞典」では、この部分が用例として載っている。

 新吉は、小野の生活や女房が羨ましい。いい服着てるし、女房は美人だ。同郷の友人なので、つい本音が出るといったところ。

 まったく、人間の僻み、嫉妬の念というものはどうしようもないもので、「比較は不幸の元」とは知っていても、つい、比較して、そして不幸になる。

 それにしても、「私なんざ惨めなもんだ。まったく失敗しちゃった。」はないだろう。自分の冷たい仕打ちを後悔することもあるけれど、結局のところ、本音はこんな単純なことだったとは。「惨めなもんだ」かあ、「失敗しちゃった」かあ。

 お作はどうなる。お作こそ「惨め」なもんだし、「失敗」しちゃったもいいとこだ。そういうお作の心情への同情とか慮りとか、そういったものがまったく出てこない。「あいつも、こんな取っつき身上のところへ来て、苦労してるさ。」ぐらいのことが言えないものだろうか。それどころか、「返ってこないほうが好都合」だというのだから、お作も浮かばれない。

 でもさ、子どもができれば、またカワイイから、また夫婦関係にも新しい展開があるんじゃないの? といった小野の言葉にも、「どんな餓鬼が出来るか。」と「忌々しそうに呟」く始末。生まれてくる子どもへの期待もないのだ。まったく取り付く島もない。

 どうしてこうも新吉の心は殺伐としているのだろうか。登場してきた当初から新吉は淋しい表情をしていた。その淋しさはいったいどこからくるだろうか。

 

 

 

 


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一日一書 1531 空山無人

2019-03-01 18:03:32 | 一日一書

 

空山无人

 

半紙

 

 

「无」の字は、「無」と同じ意味です。

 

 


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