Yoz Art Space

エッセイ・書・写真・水彩画などのワンダーランド
更新終了となった「Yoz Home Page」の後継サイトです

日本近代文学の森へ (96) 徳田秋声『新所帯』 16 「妻」の立場

2019-03-02 10:50:19 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (96) 徳田秋声『新所帯』 16 「妻」の立場

2019.3.2


 

 新吉と小野の話は、それぞれの女房への愚痴である。まあ、結婚した男は女房の愚痴を言い、女は亭主の愚痴を言う。古今東西あいも変わらぬ風景である。

 

 小野は黙って新吉の顔を見ていたが、「だが、見合いなんてものは、まったく当てにはならないよ。新さんの前だが、彼(あれ)は少し買い被ったね。婚礼の晩に、初めてお作さんの顔を見て、僕はオヤオヤと思ったくらいだ。」
「まったくだ。」新吉は淋しく笑った。「どうせ縹致(きりょう)なんぞに望みのあるわけアねえんだがね。……その点は我慢するとしても、彼奴(やつ)には気働きというものがちっともありゃしねえ。客が来ても、ろくすっぽう挨拶することも知んねえけれア、近所隣の交際(つきあい)一つ出来やしねえんだからね。俺アとんだ貧乏籤を引いちゃったのさ。」と新吉は溜息を吐(つ)いた。
「ともかく、もっと考えるんだったね。」と小野も気の毒そうに言う。「だがしかたがねえ、もう一年も二年も一緒にいたんだし、今さら別れると言ったって、君はいいとしても、お作さんが可哀そうだ。」
「だが、彼奴もつまんねえだろうと思う。三日に挙げず喧嘩して、毒づかれて、打撲(はりとば)されてさ。……己(おら)頭から人間並みの待遇(あつかい)はしねえんだからね。」と新吉は空笑(そらわら)いをした。
「其奴(そいつ)ア悪いや。」と小野も気のない笑い方をする。
「今度マアどうなるか。」と新吉は考え込むように、「彼奴も己の気の荒いにはブルブルしてるんだから、お袋や兄貴に話をして、子供でも産んでしまったら、離縁話でも持ちあがるか、どうせこのままで収まりッこはありゃしない。どうでも勝手にするがいいや。」と自分で笑いつけた。モヤモヤする胸の中(うち)が、抑えきれぬという風も見えた。
「そうでもねえんさ。」と小野は自分で頷いて、「女は案外我慢強いもんさ。こっちから逐(お)ん出そうたって、出て行くものじゃありゃしねえ。」
「どうして、そうでねえ。」新吉は目眩しそうな目をパチつかせた。「君にゃよくしてるし、客にも愛想はいいし、己ンとこの山の神に比べると雲泥の相違だ。」
 二人顔を合わすと、いつでもこうした噂が始まる。小野はいかにも暢気らしく、得意そうであった。小野が帰ってしまうと、新吉はいつでも気の脱けた顔をして、つまらなそうに考え込んでいる。何や彼や思い詰めると、あくせく働く甲斐がないようにも思われた。


 見合いをセットしたのは、小野ではなくて、酒屋仲間の和泉屋だったが、それに乗っかってかいがいしく世話をしたのは小野である。やらなくていいと新吉は言っているのに、それなりの宴会もセットして、まるで自分が結婚するかのような上機嫌だったのも小野である。

 それなのに、見合いなんて当てにならないと言い、挙げ句の果てに、実は婚礼の晩にお作の顔をみて「オヤオヤ」って思ったなんていうんだから、まったく言いたい放題。よく言えるよなあ。なんだ不器量じゃないかと思ったと平気でいえるのは、自分の女房にそれなりの自信があるからで、内心勝ち誇っているようにも見える。

 ところが、小野は小野で、女房に満足しているわけでもなさそうだ。「女は案外我慢強いもんさ。こっちから逐(お)ん出そうたって、出て行くものじゃありゃしねえ。」というセリフに、夫婦の不和がチラリと見える。小野は女房を追い出そうとしているらしい。そんな小野に、新吉は、おまえの女房はオレのとは「雲泥の差」だと言う。

 小野が帰ったあと、新吉は「いつでも気の脱けた顔をして、つまらなそうに考え込んでいる」ということになる。淋しい、つまらない、というのが新吉の心の基調で、どうにも晴れ晴れとしない。それは、お作が器量も悪くて、気働きがなくて、近所づきあいもヘタクソで、つまりは「貧乏籤をひいた」からなのだろうか。それとも他になにか別な理由があるのだろうか。

 新吉は、お作の気持ちも分かってはいるのだ。「『だが、彼奴もつまんねえだろうと思う。三日に挙げず喧嘩して、毒づかれて、打撲(はりとば)されてさ。……己(おら)頭から人間並みの待遇(あつかい)はしねえんだからね。』と新吉は空笑(そらわら)いをした。」というのだが、それならどうしてこうした不毛な関係を改善する努力をしないのだろうか。なんで「空笑い」なんかしてごまかしてしまうのか。その果てに待っているのは「離縁話でも持ちあがるか、どうせこのままで収まりッこはありゃしない。どうでも勝手にするがいいや。」という投げやりな気分なのだ。

 まあ、結婚当初から、新吉はお作が好きでたまらなかったわけではない。和泉屋のすすめにも気乗りはしなかった。けれども、和泉屋だの小野だのがやいのやいの言うから、そんなら結婚してみようかという極めて消極的な気分だったわけだから、実際に結婚してみて、女房がこれほど「ダメな女」だとわかってみると、気落ちするのも、人情として分からないわけでもない。そんな気乗りのしない男のところに嫁にいかされたお作こそいい迷惑だというものだ。

 この二人の会話を読んでいると、「妻」というものを、この男たちは、ほとんど対等の人間として考えていないことがよくわかる。新吉にしても、小野にしても、夫婦というものをどう考えているのだろうか。新吉は、商売の助けになることしか求めてないし、小野は他人に自慢できればそれでいいぐらいにしか思っていないみたいだし、とても、「人生のよき伴侶」なんて考えているフシはない。新吉なんぞは、子どもが出来たというのに、離縁ならそれでいい、なんて考える始末で、いくら気落ちしていたとしても、せめて子どもへの責任ぐらいは感じてもよさそうなものだと思うのだがそれもない。

 新吉の、そして小野の心の中には、やはり殺伐とした、荒涼たる砂漠が広がっているような気がする。

 まあ、とにかく、人間、いろいろ思い詰めるとろくなことはない。新吉もお作のことを考えると、投げやりな気分にどっぷりと沈んでしまうのだが、好きな商売に取りかかると、すっかり気分が変わる。「仕事」が人生を救うということもある。


 忙(せわ)しい十二月が来た。新吉の体と頭脳(あたま)はもうそんな問題を考えている隙もなくなった。働けばまた働くのが面白くなって、一日の終りには言うべからざる満足があって、枕に就くと、去年から見て今年の景気のいいことや、得意場の殖えたことを考えて楽しい夢を結んだ。この上不足を言うところがないようにも思われた。
「少し手隙になったら、一度お作を訪ねて、奴にも悦(よろこ)ばしてやろう。」などと考えた。


 行動が気分を変えるわけである。

 

 

 

 

 

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする